※本稿は、本郷和人『「ナンバー2」の日本史』(ハヤカワ新書)の一部を再編集したものです。
■日本史における「天下」はどこを指すか
近年、京都および畿内の一地域を歴史的に「天下」と呼ぶのだという説が提出され、今日の歴史学界では有力視されています。
そうなると、「天下人」とは、畿内地域を統一した人物を意味するようになり、私たちが普通、考えるような、「天下を統一した天下人とは日本全国を統一した人物だ」というイメージが様変わりするのです。この定義からすれば、細川政元も、大内義興も三好長慶も、歴代の「天下人」だったということになってしまいます。
これと同時に、実際に「天下布武」を掲げ、全国統一を目指したと考えられてきた織田信長に対する評価も大きく変わってきています。
信長は足利義昭を担ぎ上げ、上洛しました。信長が掲げた「天下布武」は、武力をもって天下を制圧することを意味しますが、この「天下」が京都を中心とした畿内を表すならば、あくまでも信長は他の戦国大名と同様に、畿内を制圧することを目指したのだというのです。その意味では、信長は室町幕府におけるナンバー2ということになります。
■「天下=京都および畿内一帯」説の論拠
「信長ナンバー2論」の先鞭をつけたのは、成蹊大学名誉教授の池上裕子先生だったのではないかと思います。池上先生は『織田信長』のなかで、「天下」という言葉が、日本全国を指すのではなく、京都とその周辺の畿内一帯を指すということの根拠となる史料を引いておられます。
たとえば、『上杉家文書』には、1566(永禄9)年5月9日に上杉謙信が願文を書いて、「武田晴信(武田信玄のこと)たいぢ、氏康・輝虎真実に無事をとげ、分国留守中きづかいなく、天下へ上洛せしめ」ると祈ったと記されています。つまり、上杉謙信は武田信玄を退けて、北条氏康と和睦したのちには、上洛するつもりだと述べているわけです。
ここでは上洛、つまり京都入りすることを「天下へ上洛」と表現しています。ここで言う「分国」とは、上杉謙信の本拠地である領国、つまり越後のことです。越後から空間的に離れた場所にある「天下」とは、すなわち京都のことを指して使われていることがわかります。
このように、「天下」という言葉を限定的に「京都」や「畿内」を指して用いた例がなかったわけではありません。豊臣秀吉が、後北条氏の小田原攻めののちに、京都に帰還した際には「天下に帰ってきた」という言い方をしてもいます。
■信長の「天下布武」の印判をどう捉えるか
こうした例を踏まえて、信長が掲げた「天下布武」とは、「京都および京都を中心とした畿内の秩序を武力でもって制圧する」ことだったと解釈することは不可能ではないでしょう。
尾張に生まれた織田信長は、父の死後、織田家の家督争いを治めて尾張を平定します。
清洲城に居を構えたのち、小牧山城を築いて、美濃へと侵攻しました。美濃を攻略すると、美濃井ノ口の稲葉山城に拠点を移し、名前を岐阜城に改めます。この頃より、信長は「天下布武」の印判を用いるようになりました。
「天下布武」とは「天下に武を布く」、つまり「自分の武力をもって天下を統一する」という意味がありますが、この「天下」が京都および畿内の一地域のみを表すとなると、かなり意味合いが異なってきますし、先述の通り、天下人・織田信長の評価も変更せざるを得なくなります。
天下布武の印判を使用するようになったのち、1568(永禄11)年に信長は足利義昭を伴い、上洛を果たしました。義昭が征夷大将軍に任ぜられたことで、形式的には室町幕府を再興させたと言えます。
このような根拠をつなぎ合わせれば、「京都を守り、室町幕府の秩序を守ろうとした人物」として、まさに織田信長は、ナンバー1の将軍である足利義昭を補佐するナンバー2だったと理解することもできなくはないでしょう。
そうなると、織田信長は、細川政元、大内義興、三好長慶らに連なる「天下人」であり、普通の戦国大名と大差がないということになってしまいます。
■信長は「普通の戦国大名」ではない天才
これが近年の研究による織田信長像なのですが、私はこの「信長ナンバー2論」には賛同できません。やはり、信長が掲げた「天下布武」の「天下」は日本全国を指しており、信長は日本全国を自らの武力で統一しようと考えたのだと思います。
そして、この天下を統一して、日本をひとつの国にするという壮大なビジョンを最初に描いた戦国大名だったという意味で、「普通の戦国大名」どころか、他の戦国大名の追随を許さない天才だったと思うのです。
そもそもまず「天下」という言葉の意味について、確かに京都を中心とした畿内地域を指して、「天下」と呼ぶ用例は存在します。しかし、それ以上に、「天下」を日本全国や日本全体を指して使う場合も歴史的に多数、存在するのです。
■源頼朝が書状に記した「天下」の意味
たとえば、源頼朝は後白河上皇の策略もあり、弟の義経と対立しました。
「天下の政道は群卿の議奏によりて澄清せらるべきのよし、殊に計らい言上せしむるところ也」
つまり、「天下を治める政治とは、あなたがた公卿の奏上によって清らかに行われるべきですと、特別に取り計らって、上皇に申し上げたところです」と述べられています。
しかし実際のところ、頼朝を担ぎ出した関東の武士たちの悲願は、東国に朝廷の影響から脱した「武士の武士による武士のための政権」を樹立することでした。
そのためには、後白河上皇の院政による西国の朝廷勢力と競わざるを得ません。単純な武力だけでなく、外交を通じて、より政治的な交渉も積み重ねる必要があります。だからこそ、関東の武士たちは、政治的手腕があり朝廷と交渉することができる人物として、頼朝を担ぎ上げたのです。
その頼朝が、後白河上皇を牽制するために、貴族の九条兼実と結び、議奏公卿という行政グループを作ったのです。その議奏公卿の面々に対して、この書状で、頼朝は、「天下の政道はあなたがたにかかっている。上皇の恣意を許すのではなく、公明正大な為政を心がけてほしい」と述べたわけです。
■西高東低の時代に関東の武士が興した政権
それでは、頼朝が言うこの「天下」とはどういう意味だったのでしょうか。日本列島の先進地域は長らく西国で、その中心は確かに京都であり畿内でした。
しかし、頼朝は、西国に比べて開発の遅れていた東国で、新しい政権を樹立しました。関東の武士たちの悲願を達成するために、頼朝が抱えた課題とは、この「地方」に遅れて興った政権を、いかに「中央」の先行する政権である朝廷に認めさせるかということでした。
こうした歴史的文脈を踏まえるならば、頼朝の書状にある「天下」とは、京都を中心とした畿内という「中央」のことだけでなく、関東という当時の辺境地域、いわば「地方」をも含み込んだ広域を指していると考えるべきです。西国の朝廷、東国の幕府、さらには東北の平泉にあった藤原政権をも念頭に置いた、日本列島全体を指すと解釈すべきでしょう。つまりそれは、私たちが一般的に考えている「日本全国」を意味する「天下」なのです。
■「京都周辺」と捉えると矛盾が生じる
議奏公卿に宛てた手紙に先立って、1185(文治元)年12月6日付の後白河上皇に宛てた「院奏折紙」のなかにある「天下草創之時」という表記や、同日付の九条兼実宛の書状に見える「今度天下草創也」という表記にも、「天下」という言葉が用いられています。
要するに「今は世の中が大きく変わるときですから、お互いに頑張りましょう」と述べているわけですが、この「天下」を京都と解するならば、「今は京都が大きく変わるときだから、お互いに頑張りましょう」と頼朝が述べたことになります。
そもそも頼朝は京都にはおらず、ずっと鎌倉で暮らしています。これでは書状自体に大きな矛盾が生じてしまうでしょう。ですから、頼朝が用いた「天下」という言葉は、日本全国を意味していると考えたほうが自然だと思います。
このほか、徳川家康など実際に天下を統一した人物もまた、「天下」を日本全国の意味で用いていますし、中国の故事に照らし合わせても、天下はひとつの都市や地域を表すものではなく、全国など広域を意味する言葉として用いられています。
■信長は中国の故事に通じた教養人だった
中国の故事で言えば、禅僧などを通じて日本でも広がった考え方に、『大学』の「修身斉家治国平天下」があります。「まず自分の行いを正しくし、ついで家を整え、次に国を平穏に治める。その成果をもってして、天下を平らかにする」というもので、儒学における政治観が示されています。自己→家→国→天下と、段階的にスケールアップしていることがわかるでしょう。
これを学んだ日本の知識人たちが、「天下」を、「都」や「都の周辺」と限定的に考えたとは思えません。日本全体のことを示すものとして受け取ったでしょう。
織田信長は、美濃を平定したのち、井ノ口を「岐阜」に改名しました。これは中国の故事に倣ったもので、そのふもとに周の都が置かれた「岐山(きざん)」に由来する名です。中国の歴史を知っていた信長が、「修身斉家治国平天下」を知らなかったとは考え難いでしょう。
信長が中国の故事に倣った例は、「岐阜」改名に限らず、信長の花押(サイン)にも見られます。信長は「麒麟」の「麟」の字を用いて、自分の花押にしています。麒麟は中国の故事における、天下が平和に治まったときに現れる想像上の動物です。
しばしば「うつけ伝説」が語られる信長ですが、このように実際のところは、きちんと中国の故事に学び、知識を身につけた教養人でした。そう考えると、信長が掲げた「天下布武」の「天下」は、やはり、日本全国を指し示していたのだろうと思います。
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本郷 和人(ほんごう・かずと)
東京大学史料編纂所教授
1960年、東京都生まれ。東京大学・同大学院で日本中世史を学ぶ。史料編纂所で『大日本史料』第五編の編纂を担当。著書は『権力の日本史』『日本史のツボ』(ともに文春新書)、『乱と変の日本史』(祥伝社新書)、『日本中世史最大の謎! 鎌倉13人衆の真実』『天下人の日本史 信長、秀吉、家康の知略と戦略』(ともに宝島社)ほか。
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(東京大学史料編纂所教授 本郷 和人)

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