※本稿は増田賢作『リーダーは世界史に学べ』(ダイヤモンド社)の一部を再編集したものです。
■軍備軽視の「文人政治」のツケ
宋代の政治家、王安石(1021~1086年)が財政再建に乗り出した背景には、当時の宋(北宋960~1127年)が抱えていた深刻な構造的課題がありました。
宋は、唐の滅亡(907年)後の「五代十国時代」と呼ばれる混乱の時代を終息させる形で誕生した国家です。この時代、日本の戦国時代のように、各地で大小の政権が争いをくり返していました。
こうした背景から、宋は建国当初より「平和の維持」を重視。軍人による専横を警戒し、その地位を意図的に低下させ、代わって難関の科挙制度を通じて選ばれた文官(官僚)中心の政治体制を築きました。外交でも武力より和解を選び、北方の遼との和平を模索。1004年には「澶淵(せんえん)の盟」と呼ばれる合意を結び、一定の平和を保つことに成功します。
しかし、平和を重視してきた宋にも転機が訪れます。建国から約80年が経過した頃、西北の辺境に突如として現れたのが西夏(1038~1227年)という新興国家でした。その建国者・李(り)元昊(げんこう)は、自らを「皇帝」と名乗ったのです。
複数の皇帝の存在を認めることができなかった宋は、武力による対処に踏み切ります。しかし──ここで平和志向国家のひずみが露呈しました。軍人の地位が低く、文官が軍事指揮を担っていた宋軍は著しく弱体化しており、西夏に幾度も敗北を喫してしまったのです。
■国が窮地に陥る中で宰相に抜擢
最終的に宋は、「慶暦の和約(1044年)」と呼ばれる屈辱的な条件で西夏と和平を結ばされます。この戦いと講和にかかる軍事費・賠償金の莫大な支出は、最終的に農民や零細な商工業者への増税という形で転嫁されました。
その結果、宋は財政難に陥り、民衆の生活はひっ迫。社会不安が広がり、抜本的な改革が急務となったのです。
このような厳しい状況のもとで登場したのが、宰相・王安石でした。彼は、従来の秩序や特権に踏み込む大胆な「新法改革」に着手し、国家の立て直しを図っていくことになります。
深刻な財政難と社会不安を背景に、1072年、王安石が神宗皇帝のもとで宰相に就任します。彼が実行したのが、後に「新法」と呼ばれる一連の改革でした。 王安石の改革は、単なる歳出削減ではありませんでした。
■革新的な改革の3つのポイント
ポイントは次の3つに集約できます。
(1) 軍隊のアウトソーシング化(=支出削減)
• 保甲法:各農村で民兵を組織し、治安維持を民間で担う仕組みを構築。
• 保馬法:軍馬の育成を農民に委託。軍馬確保と費用削減を両立。
これにより、国家の軍事費を抑制しながら安全保障体制を維持しようとしました。
(2) 農業改革と農民支援(=収入増と社会安定)
• 農田水利法・淤田法:治水・農地開発を国が担い、生産性を向上。
• 青苗法:農閑期に困窮する農民へ、国が低利で融資を実施。高利貸しへの依存を防止。
これにより、農民の生活を安定させつつ、国家の収入源も確保する仕組みがつくられました。
(3) 商業支援と価格安定(=中小商人の保護)
• 市易法:官営の金融機関を設立し、中小商人に小口融資を実施。
• 均輸法:物流や物資調達に国が介入して、物価の急変を抑制。
このように、市場を国家がある程度コントロールすることで、大商人の独占を防ぎながら、経済の下支えをしました。
■若手を登用、既得権益派を排除
当然ながら、こうした改革は、長年の既得権益を握っていた大地主や大商人といった有力層の強い反発を招きました。さらに、当時の官僚の多くは、まさにそうした上層階級の家系や人脈に属していたため、組織内部からも根強い抵抗や妨害が生じ、改革の進展を阻む大きな要因となったのです。
王安石はそうしたなかで、若手官僚を積極的に登用。彼らを集めた新組織を通じて、改革の企画と実行を進めました。神宗皇帝の全面的な後押しを受け、反対派は次々と排除されていきます。
反対派の中心人物であり、歴史家としても著名な司馬光は、王安石について「いこじ(意地っ張り)だった」と評し、議論の余地を与えなかった姿勢を批判しています。
最終的に、王安石は信頼していた部下に裏切られ、神宗皇帝との関係も悪化。宰相の座を退くことになります。しかし、彼が登用した新法派官僚たちはその後も政権中枢に残り、一定期間改革は継続されました。
王安石の改革は、すべてが成功したとはいえません。とはいえ、構造的な財政赤字と社会不安のなか、抜本的な改革を主導したその姿勢は、現代の経営にも通じるものがあるといえるでしょう。
■志半ばで失脚、死後ほどなく国は滅亡
王安石が掲げた「新法改革」は、財政危機と社会不安を打開することを目指した、宋の歴史において画期的な試みでした。しかし、その道のりは決して平坦なものではなく、その後の評価も芳しくありませんでした。
1085年、改革を支えていた神宗皇帝が死去すると、政治の流れは一変します。政権を掌握したのは、王安石の改革に反対していた「旧法派」と呼ばれる保守的な官僚たちでした。彼らは「新法派」の官僚たちを一掃し、王安石の政策も次々と撤回されていきます。 王安石はその知らせを耳にしながら、翌年の1086年に世を去りました。その後、宋では「新法派」と「旧法派」が政権を奪い合う派閥抗争が続きます。
一方が政権を握れば、もう一方を排除する──そのくり返しが続いたことで、宋の政治は混迷し、国は徐々に弱体化していきました。
そして、王安石の死からわずか41年後の1127年、北方の異民族・金によって宋は滅亡を迎えることになります(ただし、その後、皇室の一部は南方に逃れ「南宋」として再興)。
■過小評価され続けた「不世出の英雄」
王安石の改革は、一部の知識人や政治家からは高く評価されてきましたが、一般的な評価は決して芳しいものではありません。その理由の一つは、彼の改革が結果的に政治の分裂を招き、宋の衰退を加速させたとみなされたことにあります。
20世紀の中国の著名なジャーナリスト・梁(りょう)啓超(けいちょう)は、王安石についてこう語っています。
「不世出の英傑にして天下の誹謗(ひぼう)をあつめるというのは、世のちがいこそあれ、変わらないものらしい。西洋ではクロムウェル、わが中国では王安石だった。王安石に対するわが国民の扱いはどうか。付和雷同しての誹謗中傷は、旧法党政権の昔からまったく変わらない。難事に立ち向かった勇気を称える人もいないわけではないが、それでも彼の事業や治績の遠大さに目を向ける者はほとんどいない」
この言葉は、王安石がどれほど革新的で困難な改革に挑んだかを物語るとともに、その勇気と先見性がいかに過小評価されてきたかを浮き彫りにしています。
■優れた政策であっても進め方が大事
王安石の改革は、国家の持続的な安定と財政健全化を目指した、きわめて戦略的かつ構造的なとり組みでした。しかし、彼の独断的な姿勢や反対派との妥協なき対立が、政争を招き、長期的な混乱につながってしまったことも事実です。
どれほど優れた政策であっても、「どのように進めるか」「どう周囲を巻き込むか」という点が欠けていれば、結果として失敗に見えてしまうことがあります。王安石の改革から学べるのは、政策や構想の内容そのものだけでなく、リーダーとして「対話・合意形成・信頼の構築」がいかに重要かということなのかもしれません。
王安石の「新法改革」から、現代の組織や事業における変革が学べる教訓の一つが、「反対派をいかに巻き込むか」というテーマです。変革には常に賛否がともないますが、反対派への向き合い方こそ、改革の成否を左右する重要な鍵となります。
王安石は、自身の改革を実行するために特命組織を設け、若手を中心とした「新法派」の官僚を重用しました。
この結果、新法派と旧法派の対立は激化し、後に長期にわたる派閥抗争へと発展していきます。これは宋という国家の分裂と衰退を招く一因ともなりました。
■「反対派は邪魔だ」と感じたとしても…
現代でも、企業や組織の改革において、反対派にどう向き合うかは大きな課題です。 変革を進める立場にあるとき、つい「反対派は邪魔だ」と感じてしまうことがあるかもしれません。しかし、反対派を排除してしまえば、改革に対する抵抗はむしろ強まります。現場の協力が得られず、実行段階で立ち往生する可能性すらあるのです。
反対意見のすべてをとり入れる必要はありません。ただし、反対派の声に耳を傾け、そのなかから合理的・建設的な部分をとり入れる姿勢は重要です。
相手が「自分たちの意見も尊重されている」と感じれば、批判的だった人々も次第に協力的な姿勢へと変わっていきます。
反対意見に対応する際には、「否定しない対話力」も効果的です。たとえば、相手の意見にすぐ「いや、でも……」と反論するのではなく、まずは「お話は理解できます」など、いったん肯定する言葉を挟むことで、対立ではなく対話の雰囲気をつくることができます。
この小さな配慮が、相手に「受け入れられている」という安心感を与え、結果的に組織全体の協力体制を築く礎になるのです。
改革において大切なのは、「全員の賛同」ではなく「多くの人の納得」です。反対派を「敵」とみなすのではなく、「まだ共感を得られていない存在」として捉える視点が、健全な組織づくりや持続可能な変革には不可欠です。
王安石の例から私たちが学ぶべきことは、強引に突き進むことの危うさと、反対派を味方に変える柔軟なリーダーシップの価値ではないでしょうか。
■スピード感より、受け入れられる順序を意識する
もう一つ、王安石の新法改革から現代の私たちが学ぶべき大切な視点があります。それは「段階的に改革を進めることの重要性」です。
王安石は、農業・商業・金融・軍事といったあらゆる分野にまたがる包括的な改革を、一気に実行しました。彼が宰相に就任したのは1072年。その後わずか2年という短期間のなかで、主要な新法が次々と施行されていきます。
その改革のスピードと規模は、たしかに驚くべきものでしたが、同時に多くの反発と混乱を引き起こす要因にもなったのです。
■持続可能な改革に不可欠なもの
本来、改革とは一足飛びに成し遂げられるものではありません。たとえ正しいことでも、それを「どの順番で、どの深さで、どのタイミングで行うか」によって、結果は大きく変わります。
王安石の新法改革は、制度設計そのものは画期的でしたが、社会の受け入れ体制が整う前に多方面で同時進行したことで、各政策の定着に時間がかかり、混乱を招いてしまったといえます。
段階的に改革を進める際には、まず反対派が比較的受け入れやすい領域や、成果が見えやすいとり組みから始めるのが有効です。
段階的に改革を進めるもう一つの意味は、反対派を敵に回さないための布石です。初期の段階で実績を積み重ねることで、反対派にも「この改革には意味がある」と感じさせることができれば、次のフェーズでの協力を引き出しやすくなります。
改革とは、対立を深めることではなく、少しずつ共通のゴールへと歩み寄っていくことでもあります。目的はあくまで、より良い未来を築くことにあります。そのためには、スピードや完璧さだけでなく、「どう進めるか」の丁寧さもまた、重要なのです。
王安石の改革は、志の高さと理想において傑出していました。しかし、改革を持続可能にするためには、現実とのすり合わせと段階的な導入戦略が不可欠でした。
現代のリーダーにも、こうした視点が強く求められています。反対派を押しのけて突き進むのではなく、段階を踏みながら成果を積み上げ、共感と実行力を両立させること。それこそが、長期的な変革を実現するための本当のリーダーシップではないでしょうか。
(参考文献)
『悪党たちの中華帝国』(岡本隆司著、新潮選書)
『中国の歴史7 中国思想と宗教の奔流 宋朝』(小島毅著、講談社学術文庫)
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増田 賢作(ますだ・けんさく)
経営コンサルタント
小宮コンサルタンツ コンサルティング事業部長・エグゼクティブコンサルタント。1974年広島市生まれ。早稲田大学法学部卒業後、生命保険会社、大手コンサルティング会社、起業を経て、現在に至る。小学1年生のころから偉人の伝記を読むことを好み、中学・高校では日本や世界の歴史小説や歴史書を手あたり次第に読みあさった。現在は経営コンサルタントとして経営戦略の立案・実践や経営課題の解決を支援するなど、100社以上の経営者・経営幹部と向き合い、歴史を活かしたアドバイスも多数行っている。著書に『リーダーは日本史に学べ 武将に学ぶマネジメントの本質34』(ダイヤモンド社)。
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(経営コンサルタント 増田 賢作)

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