※本稿は、平山亜佐子『戦前 エキセントリックウーマン列伝』(左右社)の一部を再編集したものです。
■外国人との華麗なる恋愛遍歴
田中路子(1909~1988年)はオペラ歌手だが、それよりも世界を股にかけた恋多きお騒がせ女性として名を馳せている。富と権力のある男性たちが面白いように惹きつけられるミッチー・タナカの不思議な人柄について深掘りしていこうと思う。
路子が生まれたのは1909(明治42)年7月15日、東京神田の鈴木町(現駿河台2丁目辺)、日本画家の田中頼璋(らいしょう)の長女であり第三子だった。両親は色黒でタレ目の容姿にがっかりしたというが、唯一の女児としてチヤホヤと育てられた(但し、異母兄妹は数人いたらしい)。
父の絵が帝展(現日展)に入選して人の出入りが激しくなり、一家は上野桜木町に引っ越す。路子は根岸小学校に通う傍ら、ピアノ、琴、三味線などを習った。その後、文化学院、雙葉高等女学校(現雙葉中・高等学校)を経て、関東大震災後に広島英和女学校(現広島女学院)に転校。ここで広陵中学(現広陵高校)の野球部エース、銭村辰巳に初恋を経験する。しかし母に引き裂かれ、東京に戻って東京音楽学校(現東京藝術大学)の声楽科に入学した。
■音大に入り、小澤征爾の師と不倫
音大生の路子に二度目の恋が訪れる。相手はチェリストで指揮者、小澤征爾らの師でもある斎藤秀雄である。
実は当時、軍人の次男との縁談があったと『私の歩んだ道』で路子は明かす。それを裏付けるように1929(昭和4)年9月7日付読売新聞「婿えらび【十二】」に登場した際、「どういうおムコさんが望みですか」という記者の質問に「あたし軍人が好きです」と言い、母も「悪いとは思いません」と答えている。それが翌年1月13日付読売新聞には「お嫁入り御免と聖地へ音楽修行」と出ているのだから変わり身が早い。しかも1年の約束だったはずが、3年間行くとまで言っているから驚きである。なお、船中でも恋愛問題で一騒動あったらしい。
■ウィーンの社交界で人気者に
ウィーンに着くと公使夫妻が手厚く迎えてくれ、国立オペラ劇場に連れて行ってくれた。そこでステージで堂々と歌うソプラノ歌手と、オーケストラボックスの暗がりで演奏するハープ奏者を見比べて歌手に転向、ウィーン国立音楽大学声楽科を受験して4年生に入学することになった。
はじめは日本公使館に下宿していたが練習ができないため、警視総監の未亡人の家に移る。
■60歳過ぎの大富豪に求婚され…
しかし1931(昭和6)年初め頃から在墺日本人の間で路子の評判が悪くなった。ぽっと出の小娘がウィーンの上流階級に溶け込んでミッチー、ミッチーと持て囃されていることがやっかまれたのだ。さらに3月半ばには「コーヒー王」とよばれる60歳過ぎの大富豪が路子に一目惚れして求婚。路子がいかに目立っていたかがよくわかる。
やがて、公使館が路子を本国に送還させるとの噂がたった。路子はショックを受けた。まだ日本に帰りたくはなかったし、何より両親の名誉を傷つけることになる。そのとき頭に思い浮かんだのは「コーヒー王」だった。彼と結婚すればオーストリア国籍になって日本公使館の管轄外になる。
路子はすぐに「コーヒー王」ことユリウス・マインルに連絡。
■オーストリアでセレブリティに
マインルは「コーヒー王」と呼ばれてはいるが、名前をそのまま店舗名にした高級食料品店の御曹司である。世界最古のコーヒー焙煎者のひとりといわれるマインルの父が1862年にウィーンで創業した(路子の夫は正確にはユリウス・マインル二世)。以来、発展を続け、公式ウェブサイトによれば“Julius Meinl an Graben”は現在70カ国に拠点を置き、「1秒あたり63杯のマインル・コーヒーが飲まれてい」る由。また、マインルは政治にも深く関与し、大蔵大臣にも何度か推挙された大立者だった。路子は強制送還から一転、押しも押されもせぬオーストリアの重鎮の奥様に収まったのだ。
結婚後に住んだマインル邸はドルンバッハ地区ポインテンガッセにある広大な土地に建った壮麗な邸宅で、多数の使用人がいた。ここでの路子は家庭教師について教養や作法を身につける傍ら、乗馬をしたり別荘に行ったりのびのびと暮らした。
そうこうするうち、路子の兄が単身ウィーンにやってきた。新聞で結婚を知って驚愕した両親が偵察に寄越したのだ。
■夫の支援で「蝶々夫人」にも主演
1932(昭和7)年、路子が音楽学校を卒業するとマインルは金に糸目をつけずいい師につかせ、熱心に学ばせた。その甲斐あって初舞台の「蝶々夫人」は大きな話題となった。しかし、打ち上げパーティーで中国と日本の区別もつかない西洋人たちに衝撃を受けた路子は、自分の役目は正しい日本を伝えることだと決意する。
1933(昭和8)年、路子は半年の予定で単身帰国。近衛秀麿率いる新交響楽団と日比谷公会堂でベートーヴェン「第九交響曲」の独唱をしたのを皮切りに関東、関西各地でリサイタルを開き、好奇の目もあって話題をさらった。
1935(昭和10)年には初の映画出演を果たす。オーストリア映画『恋は終わりぬ』で日本人留学生ナミコを演じた。演技はイマイチだったが、大富豪マインルの日本人妻、話題の「蝶々夫人」の歌手ということで映画は大ヒットとなった。
■オーストリア併合前に不倫
この年の秋、『恋は終わりぬ』で共演したアルベルト・バッサーマン、『嘆きの天使』原作者ハインリヒ・マン、建築家のグロピウス、作家ベルトルト・ブレヒト、作曲家クルト・ヴァイルらが次々と亡命した。しかし、路子は邸宅の外を吹き荒れる嵐には気が付いておらず、有閑マダムらしく「何十年の後まで覚えているような相手じゃなかった」人と関係。嘘が嫌いな路子はすぐにマインルに電話をして、裏切ってしまったから離婚して欲しいと言った。
しかし、何の後ろ盾もない路子が一人で生きていけるはずもない。マインルは「若いあなたを妻にした私が悪かった」と逆に謝り、今離婚をすれば路子はどんな目に遭うかわからないのだから、恋人がいるとしてもスキャンダルに気をつけて今まで通りの暮らしを続けようと説得した。どこまでも心が広いマインルである。それからも路子には数人の男性が登場したようだが、どれも続かなかった。
この頃、米MGMから映画出演のオファーが来る。パール・バック原作『大地』の主演である。路子は是非とも出たかったが、エキストラを斡旋する華僑たちが反日感情から強く反発して実現しなかった。実は路子、ウィーン国立音楽大学卒業間近にもパラマウント映画からオファーを受けているが、マインルが嫌がって断っている。その後もダグラス・フェアバンクス企画の映画『マカオ』のオファーを舞台公演中という理由で断るなどしたため、結局ハリウッド映画進出はならなかった。
■イケメンの作家と「灼熱の恋」
1936(昭和11)年春、路子に運命的な出会いが訪れる。夫婦で観に行った芝居の後、原作者のカール・ツックマイアーが挨拶に訪れた。ツックマイアーは売れっ子の作家で路子好みの精悍な男性だった。
路子はキャリアのうえでも充実していた。ジョージ・シドニー作の芝居「ゲイシャ」が大当たりをとり、路子のために書き下ろされたオペレッタ「ジャイナ」でも好演した。そしてマレーネ・ディートリッヒをはじめ、エリザベート・ベルクナー、コンラート・ファイトなど演劇仲間の輪に入り「ミチー」と呼ばれて親しまれた。
1937(昭和12)年夏にはロンドンのナイトクラブ「カフェ・ド・パリ」に毎晩出演、週に一度イギリス国営放送BBCの番組でも歌っていた。ツックマイアーもロンドンに亡命していたためふたりの仲を邪魔するものはなく、我が世の春を謳歌する路子だった。
----------
平山 亜佐子(ひらやま・あさこ)
文筆家
文筆家、挿話収集家。戦前文化、教科書に載らない女性の調査を得意とする。著書に『20世紀破天荒セレブ ありえないほど楽しい女の人生カタログ』(国書刊行会)、『明治大正昭和 不良少女伝 莫連女と少女ギャング団』(河出書房新社、ちくま文庫)、『戦前尖端語辞典』(編著、左右社)、『問題の女 本荘幽蘭伝』(平凡社)、『明治大正昭和 化け込み婦人記者奮闘記』(左右社)など。
----------
(文筆家 平山 亜佐子)

![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 昼夜兼用立体 ハーブ&ユーカリの香り 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Q-T7qhTGL._SL500_.jpg)
![[のどぬ~るぬれマスク] 【Amazon.co.jp限定】 【まとめ買い】 就寝立体タイプ 無香料 3セット×4個(おまけ付き)](https://m.media-amazon.com/images/I/51pV-1+GeGL._SL500_.jpg)







![NHKラジオ ラジオビジネス英語 2024年 9月号 [雑誌] (NHKテキスト)](https://m.media-amazon.com/images/I/51Ku32P5LhL._SL500_.jpg)
