米プロ野球ナ・リーグMVP発表の場で、大谷翔平選手と並んで注目されたのが真美子夫人が着用していたワンピースだ。ファッション関係者らの間で予想されていたブランドについて、ブランド戦略コンサルタントの江上隆夫さんは「イタリアの農村発の高級ブランドで、売上高はエルメスやグッチに及ばない。
しかし世界の著名人、トップ経営者から強い支持を集めている」という――。
※本稿は、江上隆夫『スロウ・ブランディング 記憶から価値をつくる これからのブランドの教科書』(朝日新聞出版)の一部を抜粋、再編集したものです。
■妻の故郷の古城で開業
「人間の尊厳を守るために生きて働くと固く決意」したブルネロ・クチネリ氏が始めたのが、世界中を席巻するイタリア発のファッションの高級ブランド「ブルネロ クチネリ」です。
彼は、土地測量士の学校を終え、大学こそ工学部に入学しますが、そうした分野には情熱を注ぐことができず、バールに通い続け、いろいろな人との議論をしながらさまざまな人生模様を学んでいました。
婚約者フェデリカさんの父親が布地や小間物を売るお店をやっており、彼女もまた衣料の仕事を始めようとしていたこと。そして、ブルネロ・クチネリ氏自身が24歳のときにペルージャ市にあった世界的スポーツアパレルメーカーのモデルに採用されたこと。これらのことをきっかけに、25歳のときに最高級の市場セグメントに的を絞った女性用カシミアセーターの製造販売事業をわずかな資本金で立ち上げます。
1978年のことです。さらには地元のニット職人の存在。そして、マーケティングの大家であるセオドア・レビットの「先進国は高品質の製品に特化すべきだ」という考えにも後押しされ、簡単には捨てられないカシミアという素材を選んだことに意を強くし、事業に邁進するのです。7年後、彼は結婚した妻の故郷であるソロメオ村の古城を修復し、本社とします。
■過剰な利益は求めない
ソロメオは、ペルージャ市から西へ15キロメートル程度、車で30分ほどのところにある丘陵地に広がる村です。
成功しつつあった、この新興のラグジュアリーブランドは、本社を都市に移すのではなく、妻の実家がある小さな農村に移すのです。
つまり、この世界的なブランドはイタリア中部の人口わずか16万人のペルージャ市を「都会」だと感じる感性によって、都市とは真逆のはるかな田舎町で大きくなっていったのです。私はここに素晴らしい逆説を感じてしまいます。
当然、ブルネロ クチネリでも資本の論理は働いているわけですから成長を目指さないわけではありません。ただ優先順位が違うのです。このブランドは「倫理的にも経済的にも、人間の尊厳を守るために生きて働く」と決意した経営者によって「過剰な利益を求めず、正当な成長、正当な利益、すべてにおいて穏やかであることを目指しながら」順調に成長していきます。
これは本当に驚くべきことです。売上、利益、シェア。これらを拡大することを最高の善として資本主義は拡大に次ぐ拡大を続けてきました。しかし、ブルネロ クチネリは、そこに穏やかに反旗を翻しているのです。静かな微笑みを浮かべながら。
■理想と現実のバランス
とても高価でありながら、どこにもブランドのロゴがない普段着。
何年でも大切に着てほしい服。これは丁寧に手入れをすれば親から子へ、あるいはその孫の代まで着ることができる和服の思想と一緒です。
高価ではあっても「着捨てる」という側面を、考え方を、捨ててしまったのです。つまり、フローではなくストックとして、資産として受け継ぐことを秘めた服。
ブランドのプロダクトとしてのコンセプトは「ジェントル・ラグジュアリー」。基本は「日常に寄り添った服」であり「自然と共生する服」です。色の名前も、たとえばハーブや野菜の名前が付いていたりします。
ブルネロ クチネリは、こうしたアプローチで、自らが掲げる理想と資本主義との間で絶妙なバランスを保っています。ひょっとしたら、この絶妙なバランスこそが、このブランドの本質なのかもしれません。
■やわな理想主義じゃない
「理想を掲げること自体は難しいことではない」という考え方があります。一方「現実はそんなに甘いものではない」「現実を直視せよ」と現実主義的なことばがあります。要するに「夢見がちな甘っちょろい若者の理想主義」と「リアルな現状に立脚した大人の現実主義」という対立の構図です。

しかし、理想主義と現実主義とは本当に相反するのでしょうか。理想主義は甘い妄想のような夢物語で流れ去るのみ。現実主義はシビアな認識に基づくおかげで効果的な施策を打てるものなのでしょうか。
確かにスプーンで突けば崩れてしまうプリンのように、甘くはかなげな理想主義はあります。それこそ過去と現状を直視せず、自らのビジョンを歴史と倫理に即して鍛えていない理想主義は、タフな現実の前にはもろく崩れ去るでしょう。しかし、透徹した思索と歴史の認識、そして固い決意によって鍛え上げられた理想主義ほど強いものはありません。
なぜなら歴史上の転換点の偉業の数々、たとえばフランス革命、明治維新、アメリカの独立、奴隷解放などは理想を描き、掲げることがなければ為されなかったと断言できるからです。
■ブルネロ・クチネリの本物の理想主義
逆に現実主義は、現状への対応を重視しすぎるあまり、その場その場のリアクションに終始することがあります。ビジョンを描かず、未来へ向かう強靭な意志を持ちきれないがゆえに行き当たりばったりになる。
同じところで停滞し続けていることさえ気づかない。そんな状態に陥りがちなのではないでしょうか。たとえば、ここ数十年の日本は、その典型でしょう。
事が起こっても、その対応のリアクションに終始するだけで何を指針として物事を判断するのか、目指す場所を描けないことで、いま何を為すべきかさえはっきりしません。
歴史観や哲学を骨格に、目指す場所を明確に置いた現実主義は「有り」だと思います。ぜひ出てきてほしいものですが、最近の現実主義的な主張の多くは、私にとっては「理想を掲げることができない弱さ、脆弱さ」に見えてしまいます。
ただし、分かりやすい理想ほど、皮肉交じりに言われるものはないでしょう。理想とは現実からある程度遊離したものだからです。その遊離の量だけ訝しがられ、時に嘲笑すらされる。
それらのネガティブな反応と攻撃を引き受けつつ、それでもなお笑顔で皆さんこちらへ行きましょう、と呼びかけ続ける力を持つ者だけが、理想を掲げることができます。鍛えられた本物の理想主義は鋼のような芯を持っているのです。
■実現した12の成果
ネット上や書籍にあるブルネロ・クチネリ氏の容貌は穏やかで、また口にすることばも重い課題を語るときでさえ過激になることはありません。彼の理想に邁進する姿は、強い意志とストイックさを感じます。そして、その理想は現時点で結果として次のような果実をもたらしています。
・徹底して労働の価値を重視し、手仕事を行う職人をアルチザン(職人的芸術家)としても大切にしている。


・従業員の給与はイタリアの国家規定よりも最大で40パーセント高い。

・ソロメオ本社にタイムカードはなく、全員が8時には仕事をスタートする。

・ソロメオ本社では全スタッフに美しい自然の景色を眺めながらの、地元食材を使った健康的な手づくりの郷土料理とワインが楽しめるランチが提供される。また、1時間半のランチタイム中、自宅で家族とともにランチが取れる。

・夕方5時半には終業。

・勤務時間以外はネットへのアクセスを控えるよう推奨されている。

・利益の一部がブルネロ&フェデリカ・クチネリ財団を通じて社会貢献活動に適切な形で用いられている。

・建築家マッシモ・デ・ヴィーコとともにソロメオ村の施設が人間の幸福と精神の高揚を目的に改修されている。

・芸術や文化のためのソロメオ劇場を本拠地に設立。

・職人を養成するためのソロメオ現代高度芸術工芸学校を設立。学費は奨学金で賄われ、学生には給与も支給されて、集中しながら、職人の技術とその価値を深く学ぶことができる。

・ソロメオの約100ヘクタールの土地を「産業の園」「育成の園」「農業の園」に分けて造園。
本社、スポーツ施設、果樹園、小麦畑、オリーブ園、葡萄園、ワイナリーなどを併設。

・世界中の古典を中心に集めた「普遍的図書館」の建設を本拠地に予定している。
■世界的大ヒットドラマで脚光を浴びる
「セックス・アンド・ザ・シティ」というドラマをご存じでしょうか。1998年から2004年にかけてアメリカで放映された大人気ドラマシリーズです。ニューヨークを舞台に、サラ・ジェシカ・パーカー演じるキャリー・ブラッドショーと彼女の親しい友人たちの恋愛、友情、キャリア、そしてライフスタイルを描いて世界中で多くの視聴者から熱狂的な支持を受けました。特に、キャリーのファッションは当時のトレンドをつくり、視聴者に大きな影響を与えました。
このドラマの新シリーズが2021年に配信開始された「AND JUST LIKE THAT...」です。
50代になった主人公たちを描くシリーズですが、シーズン2エピソード3「あなたとの第3章」に、主人公のキャリーが、知人に関する悩みを、友人ミランダに電話で愚痴るシーンが出てきます。その知人の転職先を探し出したキャリーが言うのが次のセリフです。
『転職したみたい「ニーナ・ミネッティ*」にね。このブランドは言うなれば「ブルネロ クチネリ」のさらに高級版なの』『カシミアの会社なの』

*「ニーナ・ミネッティ」はドラマ上での架空の高級ブランド名。
世界的に大ヒットしているドラマです。ニューヨークのお洒落好きな女性たちの中で、ブルネロ クチネリがブランドとして、しっかりとしたポジションを確立していることが分かります。つまり、このセリフはブルネロ クチネリが、世界的なブランドとしての名声を獲得していなければ成り立ちません。
■ジェフ・ベゾスらも熱視線
現在、ブルネロ クチネリはクワイエット・ラグジュアリーの代表的なブランドと目されています。クワイエット・ラグジュアリーとは、ロゴや特徴的なデザインを前面に押し出すのではなく、素材や仕立ての良さなどにこだわった控え目なスタイルを指します。それがイタリアのウンブリア州にある小村を本拠地とするブランドというのが、皮肉ではなく、逆説的で、とても興味深く感じてしまいます。
そして、ブルネロ・クチネリ氏はさらに自社の立ち位置を「ジェントル・ラグジュアリー」ということばで表明しています。これは「節度のある美」がテーマ。ブルネロ クチネリはブランドとして「内面の調和が『節度』を生み、『美』は英知によって削ぎ落とされた簡潔なものであり、勇気や強靭さと一体のもの」と考えます。つまり、美しさが人々にもたらす幸福感を大切にしつつ、周囲の環境や他者に対して敬意を払い、その節度と尊重によって表現される「美」が、このブランドの製品の数々なのです。
ちなみにブルネロ クチネリは世界的ブランドとしての売上の規模は小さくはありませんが、それほど大きいほうでもありません。
有名ブランドの集合体であり、ファッションでは世界TOPの会社なので比較するには不適切ですが、ルイ・ヴィトン、ディオール、セリーヌを抱える「LVMHモエ・ヘネシー・ルイ・ヴィトン」の年間売上高は847億ユーロ(2024年)です。
個別ブランドであれば、いずれも2024年の売上高ですが「エルメス」は152億ユーロ。「グッチ」は77億ユーロ。「イヴ・サンローラン」は29億ユーロ、「ボッテガ・ヴェネタ」で17億ユーロ。一方、ブルネロ クチネリは約12.7億ユーロです。日本円で2000億円超の立派な売上ですが、それほど巨大ではないことが分かります。
しかし、世界中のTOP経営者から注目を集めているのは、ファッションの世界ならブルネロ クチネリでしょう。
人間主義的経営』の訳者・岩崎春夫氏が、この本のあとがきで述べているところによると、2019年5月にひっそりと開催された「ブルネロ・クチネリ氏を囲む3日間の対話集会(魂と経済のシンポジウム ※筆者注)に集まったのは、アマゾン・ドット・コムのジェフ・ベゾス氏を始め、ツイッター、セールスフォース、リンクトイン、ドロップボックスなど、アメリカのシリコンバレーからやって来た、名だたるIT企業の創業者やCEOなど16名」だったそうです。

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江上 隆夫(えがみ・たかお)

ディープビジョン研究所 代表取締役 ブランド戦略コンサルタント

長崎県五島列島出身。慶應義塾大学大学院システムデザイン・マネジメント研究科修了。20年近く大手広告代理店ADK(旧アサツーディ・ケイ)のクリエイティブ部門でコピーライター、クリエイティブ・ディレクターとして数多くのブランディング、広告キャンペーンを手掛ける。独立後、ベンチャー企業から1千億超までの理念構築・浸透、ブランド構築・運営にかかわるほか講演、企業内での研修・ワークショップも多数行っている。著書に3万部超のロングセラーとなっている『無印良品の「あれ」は決して安くないのに なぜ飛ぶように売れるのか?』(SBクリエイティブ)〈中国語版、韓国語版あり〉のほか『降りてくる思考法』(同)〈台湾版あり〉やはりロングセラーを続ける『THE VISION あの企業が世界で急成長を遂げる理由』(朝日新聞出版)がある。(著者近影 提供=朝日新聞出版)

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(ディープビジョン研究所 代表取締役 ブランド戦略コンサルタント 江上 隆夫)
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