NHK「ばけばけ」では、トキ(髙石あかり)の最初の夫が松江を訪れるシーンが描かれている。史実では、何があったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献や資料などから迫る――。
■“最初の夫”と離婚後も、縁は切れていなかった
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」。2025年の最終週は、ヘブン(トミー・バストウ)が、日本滞在記を書き終えれば帰ってしまうかもしれない。そんな不安で複雑な想いを抱くトキ(髙石あかり)の姿から始まった。そこに、届いたのはかつて東京で別れた元夫・銀二郎(寛一郎)からの手紙。いったいどうなってしまうのか。
作中の手紙が来たというのはまったくの創作であろう。だが、史実でも銀二郎のモデルである前田為二とは、まったく縁が切れたわけでもなかった。
離婚はしたものの、セツが八雲に女中に出た時点でも為二はセツの養家である稲垣家に籍が残っていた。為二との離婚後に、セツは生家の小泉家に復籍し小泉セツとなっている。一方別れた夫は、稲垣為二として籍が残っているという複雑な関係である。(参考:1年で失踪、3年で離婚したはずが…「ばけばけ」モデル・セツの“最初の夫”が14年も“婿養子”のままだった理由
八雲が事実婚の状態を解消して、セツと正式な結婚をするためにはこの問題を解消しなければならなかった。
「山陰新聞」1895年9月19日付では、八雲の結婚をこう報じている(広瀬朝光『小泉八雲論:研究と資料』笠間書院1976年)。
かつて本県第一尋常中学校に雇われ、後熊本高等学校に赴き、更に神戸の外字新聞主筆となれるラフカジオヘルン氏は、小泉節子(当地人)との間に一子を設け、遺産相続等の都合ありしを以て、過日同家の入婿となるの手続きをおえたりと。
■手続きの世話をした「セツの遠縁の老人」
ここからは、出会ってから5年あまり、子供も生まれたことで八雲はいよいよ日本に根付くことを決めたことがわかる。報道では「遺産相続等の都合あり」とあるが、この時点で八雲はセツの家族も含めて、面倒を見ることを覚悟したのであろう。
この時に手続きの世話をしたのがセツの遠縁の高木苓太郎という老人であった。この人は明治維新の後に易学を学んで占い師を始めたという奇人で、常に髪も髭も伸び放題。常にあちこちを放浪していて、家に帰ってくるのは年に一度くらいだが、占いがよく当たると評判の人物であった。
八雲がそんな奇人に興味を持たないはずがなく、彼に取材して「占いの話」という短編を記している(白上一空軒『東西文明を結ぶ新しい易の世界』中野出版企画、1990年)。またセツと結婚後に雇った女中はこの老人の娘であった。西田千太郎の日記にも、高木が何度か訪ねてきて、入籍の成り行きを報告してくれたと記されている。
さて、こうなると気になるのは、この時点で為二がセツの再婚について知っていたのか。そして、復縁を求めていたのかだろう。
実のところ、その後の為二がどうなったか詳しいことはわからない。
■「為二は岡山で会社を経営して財を成し、家族もいた」
ここで注目したいのが「ばけばけ」の放送にあわせて松江市が発行した小冊子『一から知りたい小泉八雲とセツの物語』である。ここには、為二のその後について、こう記している。
セツの遠縁が後年、為二と会いました。その人物によれば、為二は岡山で会社を経営して財を成し、家族もいたそうです。
松江市の担当部署に尋ねたところ、実際、研究者によって冊子の記述の通りに為二の消息を綴った手紙は発見されているが、現状では未発表で公表されるには至っていないという。
これまでの資料だと大阪への出奔後、最後は失踪届を出されて稲垣家から籍を抜かれた(代わりに八雲の次男・巌が養子に)ことから、あたかも零落して終わったかのように思われていたが、そういうわけでもなかったようだ。
松江市の小冊子が引用する「遠縁」とは誰か。現時点では非公表だが、状況証拠からいくつかの可能性が浮かび上がる。
一つは、セツの入籍手続きを世話した高木苓太郎その人である可能性だ。彼は「常にあちこちを放浪して」おり、岡山を訪れたことがあっても不思議ではない。占い師として様々な人脈を持っていた彼なら、為二の消息をつかむことも可能だったかもしれない。

もう一つの可能性は、稲垣家あるいは小泉家の親族である。当時の士族社会は狭く、「元婿養子」の消息が完全に途絶えるとは考えにくい。特に、戸籍上の整理が必要だった1895年前後には、為二の所在確認が必要だったはずだ。いずれにせよ、この「手紙」が発見されているという事実は重要だ。それは、為二が少なくとも稲垣家出奔後も生存し、ある程度の社会的地位を得ており、連絡自体は取れていたということだ。
■なぜセツとの入籍に5年を要したのか
ただ、ドラマのように復縁を求める気は毛頭無かったのだろう。
では、なぜ八雲は、セツとの入籍に5年もの歳月を要したのか。
愛する女性を得た。子供も生まれた。それでも、正式な入籍まで5年もの時間がかかっている。八雲にとってセツが、かけがえのない運命の相手だったことは間違いない。
ここでまず、注目したいのが、八雲がついに結ばれることのなかった憧れの女性エリザベス・ビスランドの結婚の報告を聞いたときに、奇妙なほどに高揚して踊ったことである。
ビスランドが結婚したのは1891年10月のことだ〔Frances E. Willard and Mary A. Livermore, eds., A Woman of the Century: Fourteen Hundred-Seventy Biographical Sketches Accompanied by Portraits of Leading American Women in All Walks of Life (Buffalo, N.Y.: Charles Wells Moulton,1893),accessed via InternetArchive.〕。
八雲がこの知らせを聞いたのは、1891年11月、松江から熊本へ移る前後のことであろう。つまり、すでにセツに運命を感じて夫婦になってからのことであった。
そう考えると、八雲が高揚して踊ったのは未練ではなく、覚悟の表れだったのではなかろうか。
セツとの事実婚は感情の決断だった。日本に来て、この女性に惹かれ、子供が生まれた。だがそれは、いつでもアメリカへ帰ることができる「仮の生活」でもあった。ビスランドという憧れの女性がまだ独身である限り、心のどこかで「いつか」という可能性を残していたのかもしれない。
■セツこそが「八雲の居場所」
しかしビスランドの結婚は、その最後の可能性を完全に閉ざした。もはや八雲には、アメリカで待つ人も、帰るべき場所もない。
いうなれば、既に40歳を迎えていた八雲だが、この時にようやく青春期の終わりを感じたのだ。中年期、当時ならば初老の年齢になっても、まだ青春? とは、いささか奇妙にみえるだろうが19世紀的にはまったくおかしくない。

ゲーテの『ヴィルヘルム・マイスターの修業時代』の主人公は30代になっても放浪を続けている。ヘルマン・ヘッセの小説『青春彷徨』の主人公は終盤で年老いた父親の面倒をみるために故郷に帰ることを決意するまで、タイトルどおり40歳を過ぎても青春のままで彷徨している。
八雲もまた、そうした「永遠の放浪者」だった。西インド諸島、ニューオーリンズ、そして日本……どこへ行っても根を下ろさず、次の土地へ、次の物語へと渡り歩いてきた。だがビスランドの結婚という知らせは、皮肉にも八雲を解放した。
「もう迷わなくていい」
アメリカに帰る理由も、別の土地へ旅立つ理由も、もはや何もない。目の前にいるセツこそが、自分の居場所だった。憧れの女性ビスランドではなく、日本の片田舎で出会ったこの女性が、放浪の終着点だったのだ。
■八雲は「セツの実家をまるごと」引き受けた
着物姿で踊った「インディアンの戦いの踊り」は、だから歓喜の表現だった。ようやく青春が終わる。ようやく定住できる。ようやく、自分にも帰る場所ができた――その喜びを、彼は全身で表現したのである。

ただし、感情の決断と法的な決断の間には、まだ5年という時間が必要だった。セツがかけがえのない女性になったことは間違いない。
しかし、現実は二人の恋の燃え上がりだけではどうにもならない。
現に、セツと夫婦になるにあたって八雲は初っぱなから現実的な対応に追われている。それは、セツの家族をどうするか。そう、為二が耐えられなくて出奔する原因になった問題だ。実際、松江で旅館を出てセツとともに貸家で暮らすにあたっても、稲垣家からは援助を求められ西田が処理にあたっている。
その後、熊本に移る時には、実母のチエは松江に残り、八雲が月々の生活費を送ることになった。一方で、稲垣家は両親に加えて祖父まで一緒に熊本に引っ越している。
つまり八雲は、セツ一人を妻にするのではなく、稲垣家という家族システムごと引き受けることになったのだ。セツ、稲垣の祖父母、そして松江に残したチエへの仕送り……少なくとも6人分の生活を支えなければならない。恋に落ちることと、一家の家長になることは、まったく別の覚悟を必要とした。
■「作家」と「一家の家長」との狭間で
それまで一種のアウトローとして生きてきた八雲にとって、これは耐えがたい混乱をもたらしただろう。自分が「そんな生活」のために、家族のために生きる存在になれるだろうか。いや、それ以上に恐ろしいのは、作家としての自分が死ぬことではなかったか。
なにしろ、八雲は机にむかって想像力を高めるタイプの作家ではない。取材しなければ書かないタイプのノンフィクション志向だ。常に「よそ者」として、どこにでも捨て身で飛び込んできた。
だが家族を養うために定職につき、月給のために働き、小市民的な生活を送れば、たちまち筆が鈍ってしまうのではないか。生活の安定と引き換えに、自分が自分でなくなってしまうのではないか。優れた作家であれば、そんな恐れがないはずはない。そこに折り合いを付けるのは、やはり時間が必要だった。
しかし、時の流れとともに、八雲にとって家族は、自分の作家活動の原動力となるかけがえのないものになっていった。
もっとも大きかったのは1893年に長男の一雄が生まれたことであろう。八雲が長男の誕生を喜んだのは当然だが、その生活を支えたのは、最初は無心をしてきた稲垣家の面々だった。とりわけ、セツの養母であるトミは律儀な働き者で、女中達の指示や食事の用意などの家事一切を引き受け、子供たちの世話までした。
■放浪者を諦め、覚悟を固めるために必要だった5年
これによってセツは八雲の作家活動のサポートや身の回りの世話に専念することができた。皮肉なことに、八雲が恐れた「小市民的な生活」は、彼の創作活動を支える基盤となったのである。
セツの献身、トミの働き、そして一雄の成長――それらすべてが、八雲に「日本の家族」という新たな題材を与え続けた。
こうして1895年、ようやく八雲は入籍を決意する。ビスランドの結婚から4年、一雄の誕生から2年。作家としての恐怖も、経済的な不安も、完全には消えなかったかもしれない。だが、この家族なしには、もう自分は書けない……その確信が、ついに法的な決断をもたらしたのではなかろうか。
5年という歳月は、40歳の男が「永遠の放浪者」であることを諦め、「一家の家長」として生きる覚悟を固めるために必要な時間だった。その覚悟の先に、小泉八雲という作家の真の誕生が待っていたのである。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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