※本稿は、康熙奉『日韓の古代史にはどんな謎があるのか』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
■「日本の国宝第1号」と朝鮮半島の深い関係
京都の太秦(うずまさ)にある広隆寺。南大門は、時の風をまといながら堂々たる風格を備えていた。門をくぐると、静寂の中にひときわ輝く存在が待っていた。あの名高い弥勒菩薩半跏思惟像(みろくぼさつはんかしゆいぞう)である。
実物を見ると、右足をそっと左足の膝に乗せ、右手は頬に触れるように寄せられている。薄暗い空間の中で、柔らかく、どこか憂いを帯びたまなざしが浮かび上がっていた。
実は、弥勒菩薩半跏思惟像が日本の国宝第1号になっているが、韓国のソウルにある国立中央博物館に所蔵されている半跏思惟像と類似している。制作年次はソウルのほうが古いという。
2つがあまりに似ているので、広隆寺の弥勒菩薩半跏思惟像は新羅から贈られたものに違いない、という学術結果もある。あるいは、渡来してきた仏師が本国と同じ仏像をつくったという仮説もある。
いずれにしても、弥勒菩薩半跏思惟像は仏教が盛んだった朝鮮半島の影響を色濃く反映している。
■広隆寺は渡来系氏族が建立した
広隆寺が発行している小冊子を手にとる。そこには広隆寺の歴史が、簡素でありながら丁寧に記されていた。
「広隆寺は、推古天皇十一年(六〇三)に建立された山城最古の寺院であり、四天王寺、法隆寺等と共に聖徳太子建立の日本七大寺の一つである。この寺の名称は、古くは蜂岡寺と云い、また秦寺、秦公寺、葛野寺、太秦寺などと云われたが、今日では一般に広隆寺と呼ばれている。広隆寺の成立に就いて、日本書紀に次のように載っている。十一年十一月己亥朔。皇太子謂諸大夫日。我有尊仏像。誰得是像以恭拝。時秦造河勝進日。臣拝之。
広隆寺は、これまで度々火災にあっている。それでも、国宝級の多くの仏像が残り、よく保存されている。そのおかげで、こうして弥勒菩薩半跏思惟像を見ることができるのである。
■「千年の都」成立の立役者は日本人ではない
小冊子を読んで興味を持ったのが、秦河勝(はたのかわかつ)という人物である。調べてみると、彼は京都と深いつながりをもった秦氏の有力者だった。京都と秦氏の関係を考えてみよう。
794年に桓武天皇が平安京の造営を始めてから1869年に東京遷都が行われるまで、京都は1000年以上にわたって日本の都であり続けた。
たとえ、政治の中心が鎌倉や江戸であったとしても、京都は歴然と日本の都だったし、今は伝統と歴史を誇る古都として世界中から多くの観光客を集めている。
しかし、そんな京都が原野であった頃のことを想像できるだろうか。たとえば6世紀。
秦氏が大人数で日本にやってきたのは、『日本書紀』によると「第十五代応神天皇の十六年」とされている。
以後、秦氏は渡来系として急速に勢力を拡大する。何よりも、当時の日本にはなかった技術を持っていた。
■首都が奈良から京都に移ったワケ
たとえば、養蚕機織。あるいは、農業灌漑技術。特に、川に堰を作って水を分散させて各地に供給するという土木技術は、京都盆地を豊かな農地に変えていく礎となった。
そうした段階を経て、太秦(この地名も秦氏と関係がある)から嵯峨野にかけての土地が順次開拓された。それにしたがって秦氏の勢力はどんどん強くなり、朝廷が資金的に頼るほどだった。
その中で、有力者として君臨したのが秦河勝である。
しかも、秦河勝は聖徳太子のために太秦に広隆寺を建立し、聖徳太子が仏教の教義を深めるうえでも協力を惜しまなかった。
そんな秦氏の影響力は長く続いた。後に桓武天皇が都を平城京から移す必要を痛感したとき、遷都の場所として京都を選んだのも、そこが秦氏の勢力下にあったからだ。
こうして、784年に長岡京の建設が始まったが、後ろ楯は秦氏の財力だった。いわば、日本で1000年以上も都となった京都の誕生には、渡来系の人々の力が欠かせなかったのである。
■太秦に「蛇」の名がつく古墳があるワケ
広隆寺から10分ほど歩く。住宅が密集する町並みの中に、ぽつんと現れる前方後円墳――それが、蛇塚古墳だった。その姿は控えめながら、悠久の記憶をたたえていた。
この古墳は、京都府において最大規模の石室を誇るもので、築造は7世紀ごろと考えられている。近づくと、積み上げられた巨石の間に幅が2間ほどの空間がぽっかりと開き、そこでしばらく佇んだ、
天井は巨大な石が覆っているが、正面の壁にあたる部分は、横たわった巨石の上がすっぽりと空いていて、光が差し込んでいた。説明文には、次のようなことが記されていた。
「この古墳が築造されたころ、この太秦一帯は、渡来系氏族である秦氏が機織や農業など営んで栄え、広隆寺の創建や平安京造営費用の一部を負担するほどの財力をもっていました。この蛇塚古墳はその秦氏一族の墓ではないかといわれるもので、もとは全長約75メートルの南西向きの前方後円墳でしたが、はやく封土が失われ、後円部中央にあった石室だけが露出して、前方後円墳の形をした周囲の畑の部分だけがやや高いという状態でありました。昭和40年ごろから石室部分だけを残して周囲に家が建てられましたが、新興住宅街の輪郭をたどると今も前方後円墳の形を残しています。(中略)蛇塚の名称は、かつて石室内に蛇が多く棲息していたのでこの呼び名が付けられたものです」
■渡来人が嵐山の基礎をつくった
説明を読みながら、私は深く納得した。なぜ太秦という地名の中に、突如として「蛇」の名を冠した古墳があるのか。そのことを不思議に思っていたからだ。
名の由来は単純でも、この場所が秦氏一族の墓である可能性が高いという事実は、彼らの広大な影響力を如実に物語っている。
さらに、秦氏一族にゆかりがある場所に行くなら、それは松尾(まつのお)大社がふさわしいだろう。
松尾大社に向かう前に、嵯峨野に出て渡月橋の近くで休憩した。向こうに嵐山が見えている。なぜか京都に来るとここに来たくなる。やはり、渡月橋の先に嵐山が見えているという風景は、心がとても和む。
川の岸辺に佇んでいると、堰がよく見える。こうした堰の数々も、秦氏が開拓したときの痕跡だと推定されている。
灌漑技術を持たなかった古代の人々にとって、朝鮮半島からやってきた秦氏の一族は頼もしい存在であったことだろう。
■秦氏の起源は中国の「秦」という説も
阪急の嵐山駅から電車に乗り、一つめの松尾駅で降りた。駅前に松尾大社があり、大勢の人で賑わっていた。
松尾大社の背後にあるのは、標高223メートルの松尾山であり、秦氏が「氏神の山」として崇めた霊峰だ。その山を背にして川を眼前に抱いた立地は、朝鮮半島の風水思想における理想形「背山臨水」にぴたりと重なる。
そうした神聖な地に築かれた社こそが松尾大社なのである。つくったのは、秦氏の有力者であった秦都理(はたのとり)と言われている。
境内の木陰でひと休みしながら、古代の京都を築いた秦氏の姿を想った。その勢力は、実に広範囲に及んでいた。
神奈川県にある秦野市の地名も、秦氏に由来するとされる。東国へと勢力を延ばした彼らの一族が、そこに根を下ろしたのである。
そもそも秦氏の起源は、中国大陸を初めて統一した「秦」にさかのぼると言われる。一族の一部が朝鮮半島に渡り、やがて日本列島へと渡来してきた。
当初の秦氏は京都を拠点にしながらも、年月を経て九州から東北まで居住地が広がった。それゆえ、日本各地に秦氏に関する来歴が残っている。とはいえ、京都が拠点だったという事実は変わらない。
土を耕し、水を引き、寺を建て、社を興した秦氏の痕跡は、静かなる声として今も京都の風の中にまぎれている。
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康 熙奉(カン・ヒボン)
作家
1954年東京生まれ。在日韓国人二世。韓国の歴史・文化・韓流や日韓の歴史交流を描いた著作が多い。『知れば知るほど面白い 朝鮮王朝の歴史と人物』などの歴史シリーズはベストセラーになった。他の主な著書は『1冊でつかむ韓国二千年の歴史と人物』『朝鮮王朝「背徳の王宮」』『韓国ドラマ! 愛と知性の10大男優』『韓国ドラマ! 推しが見つかる究極100本』『宿命の日韓二千年史』『日本のコリアをゆく』『悪女たちの朝鮮王朝』『韓流スターと兵役』『マンガでわかる! 韓国時代劇のすべて』(共著)『韓国ドラマ究極ベスト選 史上最高の韓流傑作は何か』など。
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(作家 康 熙奉)

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