※本稿は、康熙奉『日韓の古代史にはどんな謎があるのか』(星海社新書)の一部を再編集したものです。
■1300年前に朝鮮半島からの渡来人が開拓した埼玉の地とは
西武池袋線・高麗駅の広場に降り立てば、そこには異国の風を運ぶような二つの塔が立っている。高さおよそ7メートル。真紅に染め上げられたその姿は、まるで時空を超えてやってきた守護神のようである。
向かって右に立つ塔には「天下大将軍」、左の塔には「地下女将軍」と、それぞれ力強く刻まれ、その頂には人の顔が彫られている。怒りを見せる表情は、魔を威嚇し、悪しきものを寄せつけぬ決意の現れであろう。中でも「地下女将軍」のつり上がった眼差しには、深い覚悟と悲しみの余韻すら感じられる。
そばに立つ案内板には、こう記されていた。
「将軍標(チャンスン)は朝鮮半島に古くから伝わる習俗です。胴に記された『天下』『地下』の文字は目に見える世界から目に見えない世界まで、すべてを守る事をあらわし、村の入り口で魔を威嚇し、その侵入を防ぐことから、人々は魔よけ、災害防除、家内安全を祈願してきました。高麗地域の歴史、文化、観光の活性化を図るために、高麗駅前広場に将軍標を再建しました」
この塔が高麗駅に建てられている理由は明白である。
■彼岸花の群生地「巾着田」ができた理由
高麗の地は、海抜60~90メートルほどの穏やかな丘陵地帯であり、その曲線的な起伏がもたらす風景は、まるで古代の桃源郷を連想させる。高麗川はその大地を縫うようにくねくねと流れ、その外縁は断崖となって自然の防壁を成していた。そのため、住民は水害のことを心配することなく、安心して暮らせたのではないだろうか。
高麗川が大きく弧を描く場所が巾着田である。まるで大地がそっと握った手のひらのように、川がU字に沿って広がっている。
もともとは川原田という名であったが、上から眺めたその形から、人々は親しみを込めて巾着田と呼ぶようになった。
この地はまた、曼珠沙華の聖地でもある。長さ約600メートル、幅約50メートルにわたって広がる真紅の花々の群れ――その規模は全国屈指であり、秋の彼岸には一面が燃えるような紅に染まり、人々がその光景に引き寄せられて集まってくる。
曼珠沙華は種を持たず、球根で増えるという性質を持つ。おそらく、上流から流れついた球根が大地に根を下ろし、時を重ねてこの神秘的な景観をつくりあげたのであろう。
■聖天院に祀られる渡来人とは
巾着田をあとにして一般道をしばらく歩けば、やがて立派な山門をもつ聖天院へとたどり着く。
けれど、ここに立つ「女将軍」の表情は、高麗駅前のそれとは異なり、どこまでも穏やかで優しい。「いらっしゃい」と微笑みかけるようで、まさに御仏の慈悲が宿っている感じであった。堂々たる山門に見惚れながら、その右手に進めば「高麗王廟」がある。
祀られているのは、高さ2.3メートルの石塔で、5つの砂岩を積み重ねて構成されていた。その前には、漆黒の御影石でできた立派な碑が立っていて、「高句麗若光王陵」と記されていた。
この王廟に祀られている若光とは、大磯に上陸し、のちにこの高麗の地へと導かれた渡来の英傑である。
幾多の試練を越え、日本という新天地で多くの人々を率い、命の種をまいたその人物は、今なお風と大地の記憶としてこの地に息づいている。
■大量の渡来人が日本に来たワケ
武蔵国への渡来人の移住はどのように行われていただろうか。移住が本格的に始まったのは、7世紀後半以降である。その前提になったのが、663年に「白村江の戦い」で百済復興軍と日本が壊滅的に敗れたことだった。
百済の亡命移民は大挙して日本に逃れることになり、彼らは主に畿内に移り住んだ。
この666年には他にも重要な出来事があった。高句麗国王が日本の朝廷に対して救援を依頼する使者を送ったのである。その使者の一員として二位玄武若光という人物もいた。
しかし、668年に高句麗は新羅・唐連合軍の攻撃によって滅亡してしまい、2年前に日本に来た使者たちは帰る場所を失ってしまった。それによって、若光をはじめとする使者たちは、引き続き日本で居住することになった。
■移住政策を主導した朝廷の驚くべき配慮
その後、畿内にいる渡来人の東国移住が活発になっていく。684年、宮廷は百済人23人を武蔵国に移した。687年には、高句麗人56人を常陸国に、新羅人14人を下野国に移住させ、さらに、新羅人22人を武蔵国に送っている。
こうした動きは689年も続き、下野国への新羅人の移住があり、690年には新羅人12人が武蔵国に移り、新羅人若干が下野国に移住している。
記録に現れているだけでもこうした移住がある。実際には記録に残らない人々もこぞって東国に移って行ったと想定されている。
結局、朝廷が主導した移住政策は、関東一帯に渡来人の命脈を広げていった。注目すべきは、その記録が彼らを単に「渡来人」とひとくくりにせず、「百済」「高句麗」「新羅」という出身国を明記している点にある。
これは、朝鮮半島で争いを繰り返した背景を踏まえ、敵対する民族を混在させぬよう、朝廷が慎重に配慮した結果であろう。
■「高句麗人の地」ができたワケ
こうした東国への移住政策の中でも、ひときわ大規模で歴史的な転換点となったのが、716年に実施された高句麗人の移住である。
駿河、甲斐、相模、上総、下総、常陸、下野といった広域に点在していた高句麗人1799人を朝廷は武蔵国へと移し、新たに「高麗郡」を設けた。
当時の武蔵国は現在の東京都、埼玉県、神奈川県の一部を含む大きな行政区域であり、19の郡が設置されていた。その一つが入間郡であった。
716年、入間郡の中の比較的未開な土地を割愛して、開拓のために高麗郡が設置されたのである。なぜこの時期に、あえて大規模な高句麗人の集団移住が必要とされたのか。
確かに、朝廷はこの頃、全国に新たな郡を設けることに熱心であったが、それだけではなかろう。むしろ、東国に散らばる高句麗人を一カ所にまとめたいという、内からの強い要請があったのではないか。おそらく、高句麗系の貴族たちが、朝廷内部で働きかけたのに違いない。
移住の当事者たちはすでに各地に生活の基盤を築いていたため、戸惑いや反発の声も多かった。そうした不安を包み込み、指揮する強い存在が求められていた。そこで、朝廷が高麗郡の初代長官に任命したのが、大磯から移ってきた若光であった。この人事には、朝廷が彼をどれほど深く信頼していたかがうかがえる。
■貴族として扱われた渡来人
そもそも、若光が日本に渡ってきたのは666年のことだ。そして、716年の高麗郡設立の時点では、すでに50年の歳月が流れており、若光は老齢になっていた。それでもなお、彼はその卓越した統率力によって、多くの配下を導き、未開の地を切り開いていった。
若光の死後、その霊を弔うために、751年に聖天院が創建された。江戸時代には「高麗郡の本寺」として隆盛を誇り、その格式は「諸公に準ずる」とまで記されていた。
再び、聖天院の山門をくぐり、静けさに包まれた本堂に向かう。総欅造りの本堂は、荘厳な美しさを持ち、威風堂々たる佇まいを見せている。
その左手に置かれているのが、鎌倉中期の作とされる梵鐘で、これは国の重要文化財にも指定されている。
その奥へと足を進めれば、ひときわ目を引く慰霊塔が現れる。高さ16メートルに達するこの塔は、日本最大級の石塔であり、在日コリアンの方々が同胞の無縁仏を弔うために建立したものである。
塔の説明には、「昔渡来した高句麗の同胞たちと共に永遠の安らぎを得てください」という、やさしくも力強い願いが込められていた。
■築400年の住宅を前に考えたこと
若光にまつわるゆかりの地は、聖天院だけにとどまらない。むしろ、そこから北へ500メートルほど歩いた先にある高麗神社こそが、彼の崇高な遺徳を今日に伝える神聖な場所である。
なぜなら、この社こそが若光を主神として祀り、しかもその宮司の家系は、1300年近くも若光の血を絶やすことなく受け継いできた由緒正しき一族なのである。
時を超え、いのちを繋ぐという荘厳な営みの前に、誰もが静かな驚きと畏敬の念を抱かずにはいられない。
二ノ鳥居をくぐり、木漏れ日に包まれた参道をゆっくり歩いて本殿の前に出た。そして、静かに祈った。
境内の奥へと足を進めると、そこには高麗家住宅がある。茅葺きの入母屋造りで、どこか懐かしく、ぬくもりに満ちた佇まいである。
この家は慶長年間(1596~1615年)頃に建てられたと伝わっており、代々の宮司を務めてきた高麗氏の住居でもあったという。
木の香りが今も残るその古き家屋を前にして、若光を祀る神社がいまも現存し、その子孫がここで生き続けているという事実に驚く。これほど長く血脈が続いてきたこと自体が、もはや奇跡に等しい。
■1300年続いた「高麗郡」の寂しい末路
なお、古代の高麗郡出身者としてよく知られているのが高麗(背奈)福徳である。彼は武蔵国に居住していたが、その高麗福徳の孫が高麗(背奈)福信だ。
若いときに平城京に入り、友人と相撲を取ってその強さが語り草になっている。高麗福信は次々に官位を上昇させるほど出世を果たし、武蔵・近江両国の守にも任じられ、さらに官位を上げた後の789年に81歳で世を去っている。
由緒ある「高麗郡」の地名は、明治後には寂しい経過をたどっている。徐々に消えていってしまったのだ。
かつての高麗郡は現代で言えば、埼玉県の日高市、鶴ヶ島市の全域、さらに飯能市、入間市、狭山市、川越市の一部にまたがる広大な地域だった。
ところが、1896年に高麗郡は入間郡に統合され、「高麗」という名前は「郡」という行政区分から消えてしまった。
その後も村の名に「高麗村」や「高麗川村」として残っていたが、1955年には両村が合併して「日高町」となり、1991年に市へと移行した時点で、ついに「高麗」は自治体名としては埼玉県から姿を消した。
とはいえ、駅名として残っている。前述したように、西武池袋線には高麗駅があるし、JR八高線には高麗川駅がある。もちろん、高麗川そのものは、日高市を中心に流れていて、やがて入間川に合流している。いわば、入間川の支流の一つだ。
このように、自治体名では消えてしまったが、駅や川の名前として高麗郡にゆかりがある名称は今も近隣の人たちに親しまれている。
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康 熙奉(カン・ヒボン)
作家
1954年東京生まれ。在日韓国人二世。韓国の歴史・文化・韓流や日韓の歴史交流を描いた著作が多い。『知れば知るほど面白い 朝鮮王朝の歴史と人物』などの歴史シリーズはベストセラーになった。他の主な著書は『1冊でつかむ韓国二千年の歴史と人物』『朝鮮王朝「背徳の王宮」』『韓国ドラマ! 愛と知性の10大男優』『韓国ドラマ! 推しが見つかる究極100本』『宿命の日韓二千年史』『日本のコリアをゆく』『悪女たちの朝鮮王朝』『韓流スターと兵役』『マンガでわかる! 韓国時代劇のすべて』(共著)『韓国ドラマ究極ベスト選 史上最高の韓流傑作は何か』など。
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(作家 康 熙奉)

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