1月4日放送の大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)第1話は秀吉(池松壮亮)と秀長(仲野太賀)の兄弟を指して「二匹の猿」というサブタイトルに。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「秀吉が猿に似ていたという記録は多くあるが、あだ名はそれだけではない」という――。

※本稿は、濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)の一部を再編集したものです。
■秀吉は本当にサル顔だった?
秀吉が大河ドラマや時代劇などでよく「猿」「猿」と信長などから呼ばれている光景を見たことがある人も多いだろう。『太閤素生記』や『甫庵太閤記』も秀吉を猿に似た人と記しているが、それは蔑視の感情と言うよりは、親しみや愛着からそのように記述しているようにも感じる。
では秀吉と同じ時代を生きた人々は、秀吉の容貌をどのように記しているのだろうか。李氏朝鮮の文臣だった姜沆(きょうこう)は、秀吉による朝鮮侵略の際に捕虜となり日本に連行されるが、報告書『看羊録』をまとめる。その中において秀吉は「容貌は醜く、身体も短小で、様子が猿のようであったので(猿)を結局幼名とした」と記されている。
また李氏朝鮮の記録『懲毖録』には「秀吉は、容貌は小さく陋(いや)しげで、顔色は黒っぽく、特に変わった様子はないが、ただ眼光がいささか閃いて人を射るようであった」との秀吉に面会した朝鮮使節の感想が記されている。
顔が猿のようだとの文章はないが、身長が低く、容貌が卑しいというところは『看羊録』と一致している。顔色は黒っぽくというのは、よく日焼けしていたということだろうが、年少の頃から身体を使役してよく働き、信長に仕えてからは戦の日々を送ったことが影響していよう。
■眼が輝き、凡人には見えなかった
秀吉の眼が輝いていたということは、他の朝鮮側の史料にも見えている。それをもって秀吉のことを「肝がすわり、知力がある」と言う人もいれば「眼は鼠のようで恐れるに足らず」と言う人もいたという。秀吉は燦々(さんさん)とした両眼でもって、ある時は人を威圧し、またある時は人を魅了したのだ。
フロイス『日本史』にも秀吉の容貌が書かれているが、それは朝鮮の史料と大体同じく「身長が低く、また醜悪な容貌の持主(中略)眼がとび出ており、シナ人のように鬚(ひげ)が少なかった」というものである。
■信長は「はげねずみ」とも呼んだ
なかには、猿とは異なる動物で秀吉の容貌を例える人物がいた。それが、豊臣兄弟が仕えることになる信長である。信長は秀吉の妻・おねに朱印状を与えているが、その中で秀吉のことを「はげねずみ」(禿げ鼠)と形容しているのだ。おねへの書状の中ではげねずみと呼んでいるからといって、信長が秀吉のことを常にそう呼んでいたかは分からない。猿とはげねずみ、両方の呼び名を使っていた可能性もあるだろう。
天正5年(1577)3月15日付の信長黒印状(細川藤孝・丹羽長秀・滝川一益・明智光秀宛)には「猿帰候て」との文言があり、この猿は秀吉を指すとも言われている(猿とは密偵を指すとの説もあり)。いずれにしても、秀吉は猿や鼠など、動物に例えられるような容貌をしていたことは間違いないだろう。よって、面会した人々に強烈な印象を残したと思われる。
■弟の秀長は厳格な性格に見える
では秀吉の弟・秀長の容貌はどうであろうか。秀長の肖像画として有名なものは、菩提寺・春岳院(大和郡山市)所蔵の「豊臣秀長公肖像画」(市指定文化財)であろう。
この肖像画は、秀長の200回忌に合わせて天明8年(1788)に狩野派の画家・梅軒員信(ばいけんいんしん)により描かれたと言われる。
口鬚を蓄え、目つきはどちらかと言えばきりりとして厳しい。温厚な風貌ではなく、厳格さを感じさせる。高台院所蔵の有名な「豊臣秀吉像」(狩野光信・画)と比べたら、秀吉よりふくよかな顔貌だ。
一見するに、猿や鼠といった感じはしない。とは言え秀長の肖像画も江戸後期に描かれたものであり、秀長の真の顔貌を伝えるものではない。兄弟は顔貌が似ることも多いので、秀長も兄・秀吉と同じような顔つきをしていた可能性も考えられる。もしかしたら秀吉同様、外見によって周囲にからかわれていたかもしれない。
■「右手の親指がひとつ多かった」
秀吉は猿か鼠のような風貌で、背も低く、顔色は黒っぽいと同時代人から評されていた。しかし、それだけでなく、秀吉には指が6本あったという話が伝わっている。
信長・秀吉に仕え「加賀百万石の祖」とも称される武将・前田利家。その利家の伝記に『国祖遺言』があるが、そこに「太閤様(秀吉)は、右手の親指が一つ多く六つあった」と記されているのだ。
■複数の史料に記録が残っている
同書によると、ある時、蒲生飛騨守(氏郷)と前田利長(利家嫡男)、金森長近の3人が聚楽第(じゅらくだい)(秀吉の京都における邸宅。
天正15年=1587年に完成)の4畳半の間で夜半まで語り合っていたという。それは次のような内容のことだった。
「上様(秀吉)ほどのお人が六つの指のひとつを切り捨てなかったことを何とも思っておられなかったようだった。信長公は太閤様の異名として「六ツめ」と呼んでいた」
こと等を語り合っていたという。
『国祖遺言』の記述からは、秀吉には生まれつき右手の指が6本あったこと。1本の指を切り落とさなかったことから、信長から「六ツめ」と呼ばれていたことが分かる。
外国人も秀吉の指が6本あったと証言しており、例えば姜沆は「(秀吉は)生まれた時、右手が六本指であった。成長するに及、人はみな五本指である。六本目の指に何の必要があろうと言って、刀で截(き)り落としてしまった」(『看羊録』)とある。『国祖遺言』の記述と違い、『看羊録』では秀吉は指の一本を切り落としたとするのであった。
■秀吉はコンプレックスをバネに
秀吉と会見したこともある宣教師ルイス・フロイスは「(秀吉の)片手には六本の指があった」(フロイス『日本史』)と書いているので、秀吉は長じて後も1本の指を切らず、残していた可能性が高い。仮に指を切断したとしても細菌などが入り、大事に至ることも考えられよう。
そうしたことを考慮すると、切らないという選択肢もあったと思われる。しかし、切らなければ切らないで、他人から好奇の目で見られることもあったはずだ。
信長から「六ツめ」と呼ばれていたとの逸話を紹介したが、秀吉も嫌な思い、辛い思いをすることが多くあったろう。貧困家庭に生まれ、身長も低く、容貌も怪異で指は6本あった。信長や徳川家康と比べて大きなハンディキャップがあったわけだが、だからこそ、天下人となった秀吉の凄さが際立つのである。
そのことは秀吉も自覚していたようで、フロイスに「皆が見るとおり、予は醜い顔をしており、五体も貧弱だが、予の日本における成功を忘れるでないぞ」と語ったという。秀吉にはコンプレックスがあったと思われるが、それをバネにしてのし上がっていったとも言えよう。が、劣等感を持っているだけでは成功することはできない。秀吉には勤勉さと優秀さがあった。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)

歴史研究者

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。
歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(歴史研究者 濱田 浩一郎)
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