大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で注目される天下人・秀吉の若い時代。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「秀吉が最下層の身分だったことは、同時代の史料にも書かれている。
貧しさゆえに他人の召使いとして働くなど苦労も多かったようだ」という――。
※本稿は、濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)の一部を再編集したものです。
■秀長は秀吉と父親が違うのか
秀吉の弟・羽柴秀長は、天文9年(1540)3月2日に生まれたとされる(江戸時代末に編纂された『系図纂要』)。秀長が亡くなる前年・天正18年(1590)10月付の「羽柴秀長都状」(都状とは陰陽道で行われる祭りに奉られる祭文)には「秀長五十一」(歳)と記載されている。
秀長在世時に作成された文書であるし、記述の際には本人(秀長)の確認もとったであろうことから、天正18年(1590)段階で秀長は51歳だったと分かる。
秀長は翌年、(当時の年齢の数え方を基にするならば)52歳で死去しており、そこから逆算すると、天文9年(1540)に生まれたことは間違いない。ただ3月2日という秀長の誕生日については『系図纂要』のみに記述されるものであり、絶対に正しいかは分からない。秀吉は天文6年(1537)生まれなので、秀長の3歳上の兄であった。
秀長の父は『太閤素性記』によると、織田信秀に同朋衆として仕えた筑阿弥だという。同書では秀吉の父を弥右衛門としているので、秀長と秀吉の父は別(異父兄弟)だとしているのだ。
■兄弟の幼名は日吉丸と小竹?
ところが、同書は秀吉の父・弥右衛門は秀吉が「八歳ノ時」に死去したという。『太閤素性記』は、秀吉の誕生年月を天文5年正月(1536)としているので、それによれば天文12年(1543)の時に弥右衛門は亡くなったことになる。

京都瑞龍寺の「木下家系図」における秀吉の姉(日秀)の項目には、日秀の「御父」は「妙雲院殿栄本」であり、彼は天文12年1月2日に逝去したとある。栄本が『太閤素性記』が記述するところの弥右衛門か筑阿弥かは不明であるが、筆者は弥右衛門だと推定する。
弥右衛門が天文12年(1543)に死去したとすると、秀長の父は筑阿弥ではなく、弥右衛門ということになる。秀長の生年が天文9年(1540)であるからだ。
そうなると、秀吉と秀長は異父兄弟ではなく、同父兄弟と言えよう。ちなみに1996年に放送された大河ドラマ「秀吉」では秀吉と秀長は異父兄弟という設定であった。『太閤素生記』は、秀吉は「竹(筑)阿弥」の子ということで幼名は小竹だったと記す。一方で、日輪が懐中に入る夢を秀吉母が見て、秀吉が生まれたということから「日吉丸」が幼名だったとの説も載せている。
秀長も筑阿弥の子どもということで、小竹と幼時に呼ばれていたという。しかし、小竹は渾名(あだな)との記述も『太閤素生記』にはあり、残念ながら秀長の幼名は確かな史料には記されておらず、今も不明である。
■賢い秀吉は8歳で寺に入れられた
秀吉と秀長の生家は貧しく、継父・筑阿弥が「病気」(『太閤素生記』)だったとすると、生活はより厳しいものになったに違いない。『甫庵太閤記』は、幼時より秀吉が聡明であったので、親が出家させようとしたとの記述がある。

当時、百姓・町人の子弟が幼少時に寺院に奉公することは一般的であった。いわゆる「読み・書き・算盤」を学ぶのである。同書によると、秀吉は8歳の頃に尾張国光明寺の門弟となったが、僧侶になるのを嫌がり我儘(わがまま)に振る舞ったという。
同寺の僧侶らは秀吉を僧侶にすることはできないとして、生家に送り返そうとした。
すると、秀吉は寺から追い出されたことが父にバレたら折檻されると恐れ、とんでもないことを寺の僧侶に言い出す。
「自分を追い出した坊主共を打ち殺し、寺を焼き払う」
と怒ったのだ。僧侶らは子どもの言うことではあったが、秀吉の言葉に恐れをなし、美しい扇を贈り、秀吉の機嫌をとったという。
■極貧家庭ゆえ他人の召使いに…
結局、秀吉は生家に戻ったようだが、実家は貧しかったので10歳の頃から「人の奴婢(ぬひ)」(召使)となることを目的とし、流浪の身に。遠江・三河・尾張・美濃国を経巡(へめぐ)ったのだ。
以上は『甫庵太閤記』の内容であるが、同書の記述に拠ると、秀吉は父(筑阿弥)から暴力を振るわれていたことが窺える。貧困が原因で秀吉と筑阿弥との間で喧嘩が絶えなかったとも想像できるだろう。秀吉が家を飛び出したのも、ひとつには継父との生活に嫌気が差したからかもしれない。

秀長と実父との関係については史料がなく、詳しいことは分からないが、後に見るような秀長の温厚な性格から考えれば、父と衝突することはなかったと考える。秀吉を支えたように、父の助けをしていたのかもしれない。
『太閤素生記』にも秀吉の実家からの旅立ちが簡潔ではあるが記されている。同書では秀吉は天文20年(1551)、16歳の時に中村を出たという。秀吉の父が亡くなった時、秀吉への遺産が永楽銭「一貫文」(現在の約10万円)あった。この銭を「少し分け持」ってとあるから、全額ではなく、少しだけ持って家を出たようだ。
■織田家の領国・清洲へ向かう
秀吉がまず向かったのは、清洲であった。清洲で木綿針を購入し、それを懐に入れて鳴海(名古屋市緑区)辺りまで売り歩いたのである。針を売り歩き、食料や草鞋と交換したという。秀吉がはじめに木綿針を買ったのは、銭を持ち歩いたならば重くてかさばるからだと思われる。針ならば軽く、持ち運びやすい。こうしたところからも、秀吉の賢さを垣間見ることができよう。

竹中重門の『豊鑑』は、秀吉が10歳の時に家を出て、遠江国までさすらい歩いたとするが、何をして生計を立てていたかは記されていない。秀吉が流浪し、さまざまな人に使役されていたことは、『甫庵太閤記』の記述からも想像できるが、具体的にどのように生活をしていたかは書かれていないのだ。
そうした時にひとつの導きの糸となるのが、外国人の手になる文献である。フロイス『日本史』には、秀吉は貧しい百姓の倅(せがれ)として生まれ、若い頃には山で薪を刈り、それを売って生活していたとある。古い莚(むしろ)以外に身体を覆うものがない時もあった、とも記されている。衣服がなかったということであり、秀吉がいかに貧しい生活をしていたかが偲ばれよう。
イエズス会(十六世紀にイグナチウス=デ=ロヨラが創立したカトリック教団。キリスト教の日本伝道の中心となった)の報告書にも、若い頃の秀吉の労働が記載されている。それに拠ると、秀吉の生まれは「大そう賤しく」、生まれた土地も「きわめて貧しく衰えていた」ので、そこで暮らしていくことができなかった。そのため、尾張国に住んでいた金持ちの農夫に雇われて、秀吉は働いていたという。
■金持ちに雇われ、薪拾いをして働く
その頃の秀吉の仕事は、森から薪を背負って来ること。つまり薪拾いであった。
秀吉はその仕事に長い間従事していた。単に従事していただけでなく、秀吉はその主人からの仕事を「大そう熱心に、忠実」に務める。単純な肉体労働ではあったが、秀吉は愚痴をこぼさず、怠けず懸命に働いたのである。
これだけ熱心に働いたならば、他の仕事も任せようとなってもおかしくはないが、その主人は少しも秀吉を重んじなかったので、前述の薪に関する仕事ばかりさせていたという。宝の持ち腐れとはまさに、このことであろう。
西洋人の記録のみならず、李氏朝鮮の史書『懲毖録(ちょうひろく)』(16世紀末の書物)にも、秀吉は「薪を売って生計を立てていた」と書かれている。『太閤素生記』には秀吉は針売りをしていたとあるが、海外の文献では薪にまつわる仕事に従事していたとするのだ。ただ薪に関する仕事にいつ頃、従事していたかは不明である。想像を逞(たくま)しくすると、針売りや薪売りなどさまざまな仕事をしていた可能性もあろう。

----------

濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)

歴史研究者

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。
歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

----------

(歴史研究者 濱田 浩一郎)
編集部おすすめ