大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)では秀吉(池松壮亮)が信長(小栗旬)の足軽から大名に取り立てられるという立身出世が描かれる。歴史研究者の濱田浩一郎さんは「侍ではなかった秀吉がどうやって信長の家臣となったのかについては諸説ある」という――。

※本稿は、濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)の一部を再編集したものです。
■村の仲間のツテで仕官した説
秀吉は織田信長に天文23年(1554)に仕えたとされる。秀吉が信長に仕えたことは、弟・秀長の運命をも後に大きく変えることになる。
では、信長と秀吉の出会いはどのようなものだったのだろうか。『太閤素性記』は「一若(いちわか)」という人物にスポットを当てる。同書によると、一若は秀吉と同じ中村の出身。秀吉の父(弥右衛門)と一若も知り合いであったとする。が、重要なのは一若が信長の小人頭(雑役に従事した者の頭)だったことだ。
遠江の松下氏から暇を申し渡された秀吉は尾張中村に帰ると、そこで一若と対面する。かつて村を出た秀吉が突然帰ってきたので一若は驚き、次のように言った。「この三年、どこの国に行っていたのだ。そなたの母は嘆き悲しんでいるぞ。
急ぎ行って会ってやれ」と。秀吉の母は、帰郷した秀吉を見て大いに喜んだという。
一若が信長に仕えていたことから、秀吉も一若の伝手で信長に「草履取(ぞうりとり)」として仕えることになったというのが『太閤素性記』が記す仕官の経緯である。ちなみに同書によれば「ガンマク」という男も信長に小人頭として仕えていた。ガンマクも秀吉と同郷だったと思われる。ガンマク・一若・秀吉の三人が小人頭になったと同書は記す。
■叔父が「横領もアリ」と勧めたか
『甫庵太閤記』は『太閤素性記』とは異なる仕官の経緯を載せる。
仕えていた松下加兵衛から秀吉は黄金を渡され、尾張国で流行する胴丸という鎧を買って来るよう言い付けられた。しかし秀吉は尾張への道中、黄金で「丈夫の身と成べき支度」をし、有能な主君に仕えることを希望する。とは言え、秀吉も一抹の不安があったのであろう。自らの構想を叔父に相談していた。
叔父は「良いのではないか」と秀吉の構想に賛意を示す。
それだけでなく、信長に仕えることを勧めたのである。その理由は「武勇」の道を昼夜を問わず嗜み、「権謀」(臨機応変の謀)を専らとし「信」を守るということであった。叔父はさらに語る。「信長公を謗(そし)る者もいるが、実は賢く度量が広い人である。百姓を虐げるような小人を殊の外、憎まれておる。この人は天下の主となるであろう」と。
叔父の話を聞いた秀吉は信長に仕えることを決意する。そして、刀・脇差・衣服を購入し、身なりを整え、秀吉は清洲城にいた信長に次のように直訴したのだ。
「それがしの父は、織田大和守殿に仕えし筑阿弥入道にございます。愛知郡中村の住人です。代々、武家でございましたが、父の代に至り家貧しく、それがしも微小にして方々で使令(召使)の身となっておりました。願わくばお仕え致したく」
と、父と織田家との縁を持ち出して、仕官を申し出るのだ。

■通りかかった信長に直訴して採用
信長は秀吉を召し抱えることにした。そのわけは「面構えは猿に似ているが、気が利いて使えそうだ」とのこと。信長は秀吉を筑阿弥の子ということで「小筑(こちく)」と呼んだという。
『豊鑑』における秀吉仕官の様は『甫庵太閤記』に若干似ている。
遠江国までさすらい「松下石見守」に暫く仕えていた秀吉だったが、思い定まらず、また故郷の尾張国に帰った。織田信長に仕えたいと思った秀吉ではあるが、これといった伝手もない。どうしようかと考えた結果、秀吉は仕官を信長に直接訴えることに。
信長が川を逍遥(しょうよう)し、帰る途中に「宮仕えの望みがあります」と秀吉は叫んだのである。
すると、信長は秀吉の仕官を許す。その後、秀吉は清洲にて朝夕、宮仕えすることになったという。
さて、愛知県江南市の吉田家(旧前野家)に伝わる家伝記で、信長、秀吉に仕えた前野一族の古記録に『武功夜話』があるが、同書は秀吉の仕官についてユニークな説を記述している。ちなみに同書は偽書との見解があり、史料的価値は低いと見做されてきた。
その一方で「信長や秀吉に関する一次史料の空白を補う参考史料としては、貴重なものである」との歴史家の主張も近年出ている。同書には秀長に関する記述も多いため、本稿では積極的に活用していく。
■秀吉は信長の側室に気に入られ…
話を元に戻そう。『武功夜話』は秀吉を中村の村長の倅とする。若い頃に志を立てた秀吉は実家を出て、駿河・遠江・三河を流浪。弘治2年(1556)頃に「生駒屋敷」(織田家に仕える土豪・生駒氏の邸)に出入りし、そこに滞留するようになった。
その生駒氏の娘が吉乃であり、吉乃は信長の側室となる女性。口巧者の秀吉は色話等を面白おかしく披露し、吉乃に大層気に入られていたという。そこで吉乃は信長が屋敷を訪れた際、秀吉を御前に召す。
秀吉は信長の御前にもかかわらず、普段吉乃に話しているような馬鹿話を語った。普通に考えると激怒されそうなものだが、それでも信長の機嫌は良かったとのこと。その時、秀吉は武者奉公を信長に直願したのである。

その場にいた吉乃の兄・生駒家長は「お前のような小兵、力もなく太刀振りも覚束なかろう。勘違い致すな」と秀吉を難詰。それでも秀吉は諦めずに「御大将(信長)の馬の口取りでもよいので」と信長への仲介を依頼した。熱意が通じたのか、吉乃の仲介があり、秀吉は信長への仕官が叶ったというのが『武功夜話』の見解である。
■抜群の行動力で直訴したのでは?
秀吉が信長に仕えるために幼馴染の伝手を頼った説と、直訴した説、そして吉乃仲介説があることが分かる。秀吉が信長にどのようにして仕えるようになったかは信頼できる史料がなく、残念ながらよく分からない。しかし秀吉の積極性から考えると、直訴説に筆者は魅力を感じている(縁故で仕官というのも十分有り得ることなので捨て難いが)。類稀なる行動力と滲み出る勤勉さが信長にも伝わったのではないだろうか。
『甫庵太閤記』には、信長に仕えることになった秀吉のある工夫が描かれている。
仕えるとは言っても、秀吉は新参。当然、信長の側に近寄ることはできない。そこで秀吉が着目したのは、近習(きんじゅう)であった。
信長の近習に近付いて、その近習から御用を承っていたのである。秀吉は1、2年はそのようなことをして暮らしていたという。
秀吉は近習の御用を何度も果たすことによって、近習から信長に秀吉の名を出してもらうことに期待したのだろうか。例えば「殿、猿(秀吉)は懸命に御用を果たしております」のように。
■秀吉が信長に信頼された理由
2年ほど経って、秀吉は直接行動に出る。ある時、信長は犬山城の近くを焼き払おうとして、未明に出陣せんとしていた。そのような時に馬を整えている者を発見。「誰か」と信長が問うと「木下藤吉郎秀吉」との名乗りがあった。後日、信長は鷹狩のため、早朝に出立しようとする。「誰かある」と信長が尋ねると「藤吉郎、ここにおります」との答えがあった。
主君を敬い、懸命に仕える者は少しの弛みもないと、信長は秀吉の勤め振りを見て感心したのだった。熱心に勤務していたお陰で信長の信頼が深まり、直に御用を命じられるようになる。
どのようにして主君に接近し、信頼を得るか。『甫庵太閤記』のこの記述は一種の処世術としても読めるだろう。後に秀長も出世を果たすが、兄・秀吉のようなことをして上位者の関心を得たとの逸話は管見(かんけん)の限りない。秀吉がさまざまな努力をして信長の信頼を勝ち得たからこそ、秀長も出世できたのではないだろうか。

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)

歴史研究者

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(歴史研究者 濱田 浩一郎)
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