結婚、出産は、女性のキャリア形成にとって大きな分かれ道だ。アテネ五輪のなでしこジャパンにおいて、「澤穂希よりも重要な選手」と指揮官から評された宮本ともみさんは、キャリアの最盛期で出産によりプレーヤーとしてのキャリアを中断することを選んだ。
その決断に後悔はなかったのかという問いに彼女は笑いながら、「産んでいなかったら、それ以前にサッカーをやめていた」と答えた――。
■結婚=引退が常識だった
小雨が降りしきるなか、六甲アイランドにあるサッカー場を訪れた。ちょうどアップも兼ねたリフレッシュゲーム「サッカーバレー」が行われているところで、グランドには選手たちの楽しげな声が飛び交う。そのなかで誰よりも大きな声をあげ、持ち前の負けず嫌いを発揮して真剣勝負を挑み、ミスをすれば誰よりも悔しがる長身の女性の姿があった。今シーズンから女子サッカーの名門クラブ・INAC神戸を率いる宮本ともみ監督だ。
「奥様ボランチ」。いまから20年以上も前、宮本監督はそう呼ばれていた。まだ「なでしこジャパン」という愛称ができる前の話だ。
いまでこそ、結婚後も競技を続けるアスリートが少しずつ増えてきたが、当時の女性アスリートは結婚したら引退するものだと思われていた。23歳で結婚した宮本は「『結婚します』と報告するたびに『サッカーやめちゃうんだ』と言われましたね」と苦笑いする。
しかし宮本は結婚後も競技を続け、アテネ五輪に出場。その翌年に長男を出産した後も現役を続け、「ママさんボランチ」としてワールドカップ出場を果たすなど第一線で活躍してきた。

■INAC神戸監督に就任、首位を走る
引退後は、指導者としてキャリアを重ね、2024年のパリ五輪ではなでしこジャパンのアシスタントコーチを務めた。今シーズンからは、かつて澤穂希なども所属した名門クラブ・INAC神戸レオネッサ(以下、INAC神戸)の監督に就任。プロチームを率いるのは初めてにもかかかわらず、「WEリーグ」では開幕から快進撃を続け、堂々の首位を走る。一方、母としては、今春一人息子を名門私立大学に合格させた。
ママと選手。ママと指導者。宮本はなぜ前例のない“二刀流”の道を選んだのか。そしてどのように両方の道で成果を出してきたのだろうか。
■原点は「花の中3トリオ」への強烈なライバル心
神奈川県相模原市出身の宮本ともみは、小学校1年のときに父がコーチをしているチームでサッカーを始めた。相模原市は小学生の女子チームが10チーム以上ある女子サッカーの盛んな地域で、「サッカーかドッジボールかみたいな感じで、女子がサッカーをすることが珍しくなかった」。
6年生のときに初めて少女の全国大会が開催され、そこで3位になる。その頃の関東圏の上手い女子選手は、中学からは読売クラブ女子・ベレーザ(現日テレ・東京ヴェルディベレーザ)の下部組織メニーナに進むケースが多かった。
宮本と同級生の澤もしかり、大野忍、近賀ゆかり、宮間あや、宇津木瑠美、永里優季、丸山桂里奈、岩渕真奈もメニーナの出身。川澄奈穂美選手がメニーナのセレクションに落ちて入団できなかったことは有名な話だ。宮本もセレクションを受けていれば、合格した可能性が高かっただろう。
しかし、「周りにメニーナをライバル視している選手が多かったので、もし私が行ったら裏切ることになるし、向こうから来てほしいと言われる選手になりたい」と、セレクションを受けず、中学からは地元の女子社会人チーム「相模原SC」で競技を続けた。
ところが、中学3年のある日、宮本のライバル心に火をつける出来事が起こる。メニーナでプレーしていた澤、加藤(酒井)與恵、原歩の3人が「花の中3トリオ」として、サッカー雑誌の表紙を飾ったのだ。
自分が選ばなかった道で輝く同級生に強烈な嫉妬を覚えた宮本は、サッカーに急激にのめり込んでいった。高校の制服をリュックに詰めてランニングで登校し、男子サッカー部の朝練に参加。放課後は再び男子サッカー部の練習に加わり、そのまま帰宅せずに、夜19時から21時まで相模原SCで大人に混じってボールを蹴った。「とにかくメニーナの中3トリオに負けたくないという気持ちが強かったんです」。
■ライバルが仲間になった
そうして、全国でも指折りの選手に成長した宮本に、三重県伊賀市に本拠地を置くプリマハムFCくノ一からスカウトの声がかかる。当時のプリマハムFCくノ一には中国やカナダ女子代表選手が所属し、日本人も代表選手ばかり。
宮本が加入する前々年の1995年には全勝でリーグ優勝を果たしている。加えて、手入れの行き届いた天然芝のピッチやトレーニングルームがあり、社業に従事する必要もない、日本トップクラスの環境が整っていた。
高校卒業後、プリマハムFCくノ一に加入した宮本は、その年初めて日本代表に選出される。澤は既に代表入りしていたが、中3トリオの一人、加藤とは同じ国際親善試合で代表デビューを飾った。ライバルはともに世界と戦う仲間になった。
1999年、アメリカで開催されたワールドカップに初めて出場。そして、そこで見た光景が、宮本のその後の人生の新たなモチベーションになる。
■「澤穂希よりも重要」と評された選手
宮本は23歳のときに結婚。当時は結婚後も競技を続ける女性アスリートはほとんどいなかった。「結婚します」と周囲に報告したら、100人中100人に「引退するんだね」と返された。けれど、宮本にはサッカーをやめる選択肢は全くなかった。
「1999年のワールドカップに出場していたアメリカ代表選手にはお母さんが2人いて、ベビーカーをコロコロと転がしてホテルの食事会場に来たり、家族が一緒にホテルに滞在して子どもの面倒を見ていました。
それが、すごくカッコよく見えたんです」
恵まれていたのは、当時には珍しく、夫も彼の両親も「スポーツがすごく好きで、『家事をやるよりもサッカーをやれ。代表として頑張れ』と応援してくれた」ことだ。ただ、実家の母は、嫁が練習や取材で家を空けることを非常に恐縮していたという。
家族に支えられ、宮本はワールドカップに続き、アテネ五輪にも出場。攻守の要であるボランチとしてチームの中心を担った。「奥様ボランチ」として話題となっただけでなく、当時なでしこジャパンの監督を務めていた上田栄治女子委員長には、「澤穂希よりも重要な選手」と評された。
■妊娠を知ったときの複雑な感情
宮本が長男を出産したのは、アテネ五輪の翌年、26歳のときだった。「結婚してから、ずっと子どもをほしいと思っていたし、アメリカの選手のように出産して競技に復帰することに強い憧れがありました」。所属していた伊賀FCくノ一の監督には、「アテネ五輪が終わったら子どもを作りたいと思っている」と事前に伝えていた。
五輪が終わり、リーグ戦が再開してすぐの9月に妊娠が発覚。望んでいたことではあったが、「そんなにすぐに授かるとは思っていなかったので、分かった時は嬉しいのが半分と、『これでサッカーができなくなるのか』と残念な気持ちが半分で複雑でしたね。五輪を目標に心身ともに準備をしてきて、ノリに乗っている時期だったので、妊娠・出産によってそれがゼロになるのは『もったいないな』と思いました」
女子サッカーもアテネ五輪の8強入りで注目度が上がっていた。
国内リーグの観客数は、アテネ五輪前年の平均200人から激増。多いときには2000人以上の観客が駆けつけるフィーバーぶりだった。だから、チームメイトに伝えるのには少しためらいがあったと振り返る。「『えっ? もう一緒にサッカーできないの?』って泣いた選手もいましたね。だから『すぐに復帰するから』と伝えました」
■10カ月のブランク、「復帰は絶対に無理だ」と思った
2005年5月に第1子・耀大くんを出産。「最初の3カ月間は、寝られないし、本当に大変で、育児に疲れ切っていた。『私は生きていけるのか?』というレベルだったので、復帰するしないを考える余裕すらありませんでした。うちのお母さんはよく3人も育てたなと、本当に尊敬しますよ」
生後6カ月を過ぎて、耀大くんが夜まとまって眠るようになったころ、ようやくサッカーのことを考えられるようになった。ただ、すぐに復帰へと気持ちが向かったわけではない。
「小学1年生からサッカーを始めて、それ以来20年間、10カ月もの長い間ボールを蹴らなかったことはただの一度もなかった。だから『絶対に復帰は無理だ』と思っていました。いま引退しても誰もが納得するところだし、やめたいなと思う日とやりたいなと思う日の繰り返し。
毎日気持ちが変わっていました」
■10分のジョギングすらできなかった
海外には妊娠中から出産後までアスリートの復帰をサポートするプログラムがある。しかし当時の日本に出産後復帰したトップアスリートはほとんどいない。「ママでも金」で知られる谷亮子さんが出産したのは宮本と同年の12月で、出産も復帰も宮本のほうが早い。まして、チームスポーツでのママアスリートは宮本が日本で初。復帰するにしても、何からどう始めていいかもわからなかった。
女子サッカーのリーグは通常3月に開幕する。それに向けて、1月の中旬ごろからチーム練習が始まる。もし次のシーズンから復帰をするのであれば、1月までに他の選手と同じトレーニングができる身体を作らなければならないのだが、宮本は11月になっても気持ちを決められないでいた。
「一番の不安は動けないんじゃないかということ。だったら、とりあえず一回動いてみようと。やってみてダメだったら、引退すればいい」
そう考えた宮本は、以前お世話になっていたトレーナーに連絡を取り、1月中旬までの2カ月半の分のトレーニングメニューを作ってもらった。
初日のメニューは「10分のジョギング、ストレッチ、10分のジョギング」だった。「でも、10分走れなかった」。歩いているんじゃないかというスピードで10分間足を前に進め、何とかメニューをこなした。翌日は休み。3日目は「15分のジョギング、ストレッチ、15分のジョギング」。4日目は休み。無理をしないようにゆっくりと、でも着実に負荷を上げていった。「10分が15分になって、30分になって。『ものすごくしんどかった』が、『ちょっとしんどい』になって。それを繰り返すうちに、『え? 1時間も走れる!』って。そういうちょっとずつの成長がすごく楽しかったんです」。
■自主トレ中だけは育児から離れられた
自主トレをしている時間、育児から離れることができたことも、サッカーの楽しさを倍増させた。それまでは一日中子どもと一緒の生活で、「育児ノイローゼになる人の気持ちがわかる」くらいにストレスを抱えていた。トレーニング中は、同居している義母や夫に息子を預ける。そのわずか1時間ほどの時間がストレス解消になった。
「一人の時間を作ることができたのも、サッカーが楽しかった理由の一つです。トレーニング時間が長くなるほど、子どもを預ける時間が長くなる。サッカーがリフレッシュになって、その相乗効果で育児も楽しくなってきました」
■「ママさんボランチ」として子連れで世界へ
トレーニングは順調に進み、2006シーズンに宮本は再びなでしこリーグのピッチに戻る。アウェーでの試合の日は、夫が休みを合わせ、チームバスとは別に自分の車で遠征先に向かった。翌シーズンからは耀大くんもチームバスに乗って同行するように。幸運なことに、宮本が所属していた伊賀FCくノ一には、子育て経験のある女性スタッフがおり、試合中は彼女が子どもの面倒を見てくれた。「チームメイトもみんな可愛がってくれて、バスの中でも耀大は日替わりでいろいろな人の隣に座っていましたね」と宮本は懐かしそうに振り返る。
練習する時間は出産前より格段に短くなった。チーム練習の始まる15分前に来て、すぐに着替えてグラウンドに飛び出す。2時間の練習が終わると、一目散に帰宅。「それでも、産休前よりパフォーマンスが良くなった。時間じゃなく、集中力が大事なんだなと思いました」。
復帰して4カ月後の10月、当時のなでしこジャパンの大橋浩司監督から代表合宿に招集したいとの打診が届く。「嬉しかったし、行きたいけれど、1週間も子どもを置いていくことは難しい」と回答すると、日本サッカー協会は議論の末にベビーシッターを雇用して支援することを決定。「いろいろな意見が出たようですが、川淵三郎会長(当時)と上田栄治女子委員長がすごく応援してくれて、合宿に参加することができました」。
国内合宿に続き、海外遠征にも子どもの同行が認められた。ただしベビーシッターではなく、実母が同行する形に。「初めての海外はキプロスでの国際親善試合、耀大が1歳8カ月でした。衛生面などでいけない場合を除いた7カ国に一緒に行きましたね。他の競技の選手から羨ましいと言われました」。
■「残念ではあるが後悔はない」
しかし、なでしこジャパンの指揮官が佐々木則夫監督に変わると、自身の怪我も重なり、宮本は代表から遠ざかるようになる。2008年北京五輪、優勝した2011年ドイツワールドカップ、銀メダルに輝いた2012年のロンドン五輪に宮本の姿はない。人生にたらればは禁物だが、「もしもサッカーに専心していたら」と後悔することはなかったのだろうか。
「もちろん代表に選ばれなかったら悔しいし、北京五輪の前に若い選手が代表に入ってきて、自分が外れてしまった。育児しながらで自分の時間が取れなかった影響はあるとは思います」
実はそのころ、義父が亡くなっている。看病で夫や義母に耀大くんを預けることができず、十分なトレーニングができなくなったことも重なった。
「ただ、どんな事情があっても、ピッチに立ったら選手として評価される。それも含めて自分の実力だと思っています。残念ではあるけど、後悔はありません」と宮本は表情を引き締め、キッパリと言い切った。
■産んでいなかったら、それ以前にやめていた
「それに、出産をしていなかったら、それ以前に選手をやめていたと100%言い切れます。子どもを産むまでは、サッカーを楽しいとは思っていなかったから。『やらなきゃいけない』と義務に近い感覚で、オフの日も『休んでちゃダメだ』と考えていました。とにかくサッカーをやり続けなければと自分を追い込んでいたんです」
10カ月間サッカーを離れたことで、「心からサッカーを楽しいと思うようになった」。だからこそ、宮本は引退後もサッカーに関わり続けている。
■子育てで最も後悔していること
宮本は34歳で現役を引退。解説者を経て、三重県の高田短期大学女子サッカー部の監督に就任し、本格的に指導者の道に進んだ。2016年にはU-16日本代表のコーチに就任。U17、U19、U20、なでしこジャパンのコーチへ順調に階段を上がり、パリ五輪にはコーチとして出場を果たした。2023年には国内最高位の日本サッカー協会公認S級コーチライセンスを取得している。
順調に指導者としてのキャリアを重ねていく一方で、愛息を有名大学に合格させている。ピッチの上でも、家庭でも結果を出し続けているように見えるが、子育てでは多くの失敗も経験した。
最も悔やんでいるのは、耀大くんをサッカー嫌いにしてしまったことだ。宮本がピッチを去ったとき、耀大くんは小学校1年。「ママの代わりに、次は僕がサッカーをやるよ」。その言葉が嬉しかった。「だから期待し過ぎてしまって、一番やってはいけない、サッカーのことに口を出すということをしてしまった。それでも中学までは無理してやってくれましたけど、『ママみたいにできない』とサッカーを嫌いになってやめてしまいました。大反省です」。
■だから「横に並ぶ監督」に
その時の反省もあり、宮本は監督・コーチとしても子育てでも「横に並んでいる」ことを大切にしている。「私が引っ張るわけでも、連れていくわけでもなく、選手や子どもが自ら行ってくれるように、私が率先してやっている姿を見せる」ことが宮本流のリーダーシップだ。
「親は子どもに『勉強しなさい』と言うけれど、自分自身は勉強していない。だから、子どもはやらないんです。彼はサッカーはやめてしまいましたが、私がサッカーを頑張っているから、別の何かを頑張ろうと思ったんだと思う。ちょうど私がS級ライセンスを受講している時期は、彼は高校受験だったんですね。彼も私が努力している姿を見て、頑張ろうと思っただろうし、私も彼が受験勉強している姿を見て頑張ろうと思いました」
宮本はパリ五輪が終わって、なでしこジャパンのコーチを退任後、自費で3カ月間イギリスにサッカー留学している。その段階ではINAC神戸の監督就任は決まっておらず、純粋に指導者としての自分を高めるためのチャレンジだった。「反対されるかなと思った」が、義母も耀大くんも手放しで賛成してくれた。「旦那さんは『そしたら俺も3カ月間、ダイエット頑張ろうかな』と言ってくれました。私が努力しに行くと感じてくれたことが何より嬉しかったです」。
■一緒に頑張ってくれたらラッキー
現在監督を務めるINAC神戸でも、同様だ。「『楽しんでサッカーしてよ』と言っても、私が一番楽しんでないと説得力がない」。冒頭のサッカーバレーしかり、試合中もゴールが決まれば飛び上がってガッツポーズし、選手以上に喜びを爆発させる。
「ただし」、と宮本は続ける。「子どもや選手を頑張らせるための努力になるのは違う。私は子どもを頑張らせるために努力してきたわけではないし、サッカーがすごく楽しいと思ってやっている。私の情熱が伝わって、一緒に頑張ってくれたらラッキーくらいに考えています」
今シーズンのINAC神戸は、リーグ戦、カップ戦、皇后杯の「三冠」を目標に掲げている。「これも私が決めたのではなく、みんなで決めた目標です。『私は三冠を取りたいと思っているけど、みんなはどう思いますか?』と話したら、みんなも『三冠を目標にしたい』といったので、チームの目標にしました」
■「チーム一丸になって」は絶対に使いたくない
監督の役割は、引っ張ることでもやらせることでもなく、目指す方向がバラバラにならないように「大枠を決める」ことだと繰り返す。
「例えば、『何でもいいから絵を描いて」といったら、みんな違うものを描きますよね。でも、『海の絵を描いてください』と言えば、それぞれの海を描くでしょ。そういうイメージです。目指すゴールとそのための戦術や大枠はあるけれど、そのなかでそれぞれが自由にプレーするから面白い。『チーム一丸になって』とか『チームワークを大事に』という言葉は指導するうえで絶対に使いたくなくて。それが目的ではないし、言ってできるものでもないから。そういうチームになれるように方向付けるのが監督の仕事だと思っています」
宮本は「自分が一番情熱を持った人間でありたい」と身を乗り出して語る。ただし、決して押し付けることはしない。宮本が道をつけた、出産後も日本代表として活動できる制度を、その後活用した選手は一人もいない。「望むのであれば活用してほしい。だけど、出産後に代表に戻れる保証はないし、世のお母さんもみんなそうでしょ。同じポジションに戻れる保証がないなかで、それぞれが考える幸せを選択している。どんな選択肢も、素晴らしいと思う」

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山田 智子(やまだ・ともこ)

スポーツライター&カメラマン

日本サッカー協会勤務を経て、2013年に独立。フリーのスポーツライター・カメラマンとして、東海地方を拠点にバスケットボール、サッカー、フィギュアスケートなどさまざまなスポーツの現場を飛び回る。『Number』『中日新聞』など各種媒体に寄稿するほか、愛知県のバスケットボールWEBマガジン「愛B café」を運営。競技の魅力だけでなく、アスリートの知見のビジネス活用やスポーツを通じた街づくりにも関心を持ち、現場目線での取材・執筆を行っている。

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(スポーツライター&カメラマン 山田 智子)
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