■天下一統に計り知れないほど大きな役割
羽柴(豊臣)秀長という名前自体は知られていても、「どんな人だったのか?」と問われれば、多くの場合、「秀吉の弟で」といった先が続かないのではないだろうか。実際、これまで秀長にスポットが当たることはあまりなく、史料も少ないために、研究者のあいだでも注目度が高かったとはいえない。
その一方で、羽柴(豊臣)秀吉が「天下一統」を進めるうえで、秀長が果たした役割が、計り知れないほど大きかったことは広く認められている。「秀長が長生きすれば、羽柴(豊臣)政権のその後は違った」とよくいわれるが、秀長の足跡をたどれば、そう思わざるをえない。
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は、そんな人物である。では、秀長が「長生きすれば」、どうして、なにが「違った」と思われるのか。この兄弟の関係をたどりながら考えてみたい。
ところで、「豊臣」とは天正13年(1585)9月に関白になった秀吉が、今後も一族で関白を独占する目的で、朝廷に申請してもうけた氏族としての姓。だから豊臣秀吉という呼び名は、織田信長を平信長、徳川家康を源家康呼ぶのと同等で、秀吉は家の苗字はその後も「羽柴」を使った。このため、本稿では豊臣という姓はカッコ付で表記している。
第1回「二匹の猿」(1月4日放送)は、尾張国中村(名古屋市中村区)の百姓家が舞台。
そこに唐突に現れた藤吉郎は、織田信長の「足軽大将」(実際にはただの足軽)と名乗り、小一郎も次第に信長のもとに引っ張られていく
■「秀長」ではなく「長秀」
秀長の前半生は不明なことばかりだが、大きな流れは「豊臣兄弟!」の展開とそれほどズレていないのではないだろうか。
秀長の名が同時代の史料にはじめて見えるのは天正元年(1573)8月で、「木下小一郎」と記され、「長秀」という花押が書かれている。「秀長」と名乗るのは、小牧・長久手合戦の最中の天正11年(1583)8月ごろで、それまでは「長秀」と記され、「長」は信長の偏諱(貴人の2字以上の名の1文字)を賜ったものと考えられている。
天文9年(1543)の生まれと思われ、同6年(1540)生まれの秀吉の3歳年下で、父は在村のまま織田大和守家(信長の父の信秀にとって主家筋)に仕えていたが、早期に引退して死去。兄弟が幼年だったので家が凋落したようだ。
『太閤記』には、秀吉は永禄元年(1558)から信長に仕えたと書かれているが、当初は奉公人で、『明智軍記』の「秀吉立身之事」には、桶狭間合戦の翌年の永禄4年(1561)に足軽になったと記されている。一方、秀長が信長に仕えた時期は不明だが、当初は兄との別行動が多いので、秀吉の家臣ではなく信長の直臣だったようだ。
■最初は信長の直臣だった
「長秀」の名の初出は、信長の軍勢に浅井家が滅ぼされた直後で、すでに秀吉は苗字を「羽柴」に改めていたが、秀長(本稿ではカッコ付で記すとき以外は秀長に統一)は「木下」苗字を名乗っている。秀吉の与力(有力武将に従う下級の武士)を務めていたとしても、あくまでも信長の直臣として、独立していたということだろう。だが、天正3年(1575)11月には、自分で「羽小一郎長秀」と署名し、そのころからは秀吉と行動をともにする。
以後、秀吉の一門衆、それも一門衆の筆頭になったと思われ、文字どおり秀吉の右腕として八面六臂の活躍を続ける。
翌天正7年(1579)8月、秀吉は黒田孝高に宛てた手紙に「我らおとゝの小一郎めとうせん(自分の弟の小一郎同然だ)」と書いて激励している。この書き方からも、秀吉が秀長をいかに評価していたかがわかる。
一般に兄弟は、嫉妬や野心が原因で対立しやすく、ことに戦国時代には仲がよい兄弟は稀である。百姓の出の秀吉には一門衆が少なかったこともあるが、秀長がよほど優秀でなければ、秀吉はこれほど頼らなかったと思われる。
■重要な局面で仕事を任される男
その優秀さは、天正10年(1582)6月2日に信長が本能寺に討たれたのち、すなわち秀吉が「天下一統」に向けて動き出してから、いっそう際立った。同年11月、秀吉と対立しながらいったん和睦を申し入れてきた柴田勝家のもとへ、使者として派遣されたのは秀長だった。その後は、重要な局面での秀吉の名代はきまって秀長で、外様大名たちを羽柴政権に従属させる「取次」を果たしたのち、その状態を維持する「指南」を務めた。
秀長が最初にその役割を果たしたのは、中国地方の毛利氏に対してだった。続いて、小牧・長久手合戦終結後の天正13年(1585)1月、秀吉のかつての主人である織田信雄のもとに赴き、上洛して臣従するように「取次」をしたのは秀長だった。
天正14年(1586)10月、徳川家康がついに秀吉への臣従を決意して上坂した際、秀長の屋敷が宿所になったことはよく知られるが、これも秀長が家康の「取次」として、臣従するように説得したからだと考えられる。
前後するが、天正12年(1585)の四国出兵では秀長が総大将を務め、長宗我部元親を降伏させると、その後は「指南」を務めている。四国出兵ののち、秀長は秀吉から大和国をあたえられ、大和、紀伊(和歌山県)、和泉(大阪府南西部)の3カ国に加えて伊賀(三重県西部)を加えた83万石(70万石後半という見方もある)の大大名になった。もちろん羽柴一門で最大の領地で、自身の領国支配に勤しみつつ、一門衆の筆頭として取次と指南を重ねていった。
■外様の大大名たちを「指南」できたワケ
秀吉は天正15年(1587)1月以降、九州平定に向けて動き出す。秀長が直接率いるのは秀吉と同数である1万5500の軍勢で、秀吉とは別動隊である総数10万余りの軍勢の総大将として、島津領国へ進攻した。
その前年の天正14年(1586)4月、豊後国(大分県)の大友義鎮(宗麟)が上坂して秀吉に出仕した際、やはり秀長が接待し、義鎮に次のようにいったと伝わる。
「何事も何事も美濃守此くの如くに候間、心安かるべく候、内々の儀は宗易、公儀の事は宰相存じ候、御為に悪しき事はこれ有るべからず候(どんなことにも秀長はこうして親身に対応するので、ご安心ください。内々の事案、つまり私的なことには千利休が対応し、公儀の事案、つまり軍事や政治に関する指南は、秀長がよくわかっているので、あなたにとって悪いようにはなりえません)」(『大友家文書録』)
ここに秀長の役割が端的に示されている。羽柴政権と諸大名の関係に関し、秀長が一手に握っていたということである。九州平定後の島津家との関係も、同様であったことはいうまでもない。
こうした役割が可能だったのは、秀長が秀吉の弟だったのに加えて、地位もあったからではある。秀長は天正13年(1585)10月、まず正三位参議近衛中将に叙任されたが、これは関白秀吉と、元主家である権大納言織田信雄に次ぐ地位だった。
この圧倒的な政治的な地位は、秀長が外様の大大名たちを「指南」できる根拠だった。とはいえ、秀長自身に大名たちを納得させる力量がなければ、戦国時代を生き抜いてきた錚々たる大名たちが、簡単に従ったわけもない。
■もし秀長が長命であったら…
天正16年(1588)8月、小田原の北条氏が秀吉への従属を表明し、当主氏直の叔父の氏邦(実権を握る氏政の弟)を秀吉のもとに派遣した。このとき接待したのが秀長だから、秀長が北条氏への「取次」を行い、従属すれば「指南」を務めるはずだったと思われる。しかし、秀吉と北条家との交渉が決裂したころ、秀長は病気療養中で、小田原の役が避けられなかった。
伊達政宗に対しても秀長は、小田原の役後の天正18年(1590)10月、上洛した際には会談をしようと呼びかけていた。やはり秀長が「取次」を務め、その後の「指南」について心を砕いていたということだろう。だが、このときは病気が小康状態だった秀長は、間もなく重篤な状態に陥る。
天正19年(1591)1月22日、秀長は死去した。その1カ月余りのちの2月28日、すでに記したように、諸大名の「内々の事」に応じていた千利休が、秀吉の勘気をこうむって切腹させられる。時期からしても、秀長の死と無関係とは考えられない。
その後の朝鮮出兵は秀吉の既定路線だから、秀長が生きていても避けられなかったかもしれない。だが、もっと穏当に行われた可能性があるし、秀長が関白を継げば、秀頼が生まれても秀次事件のような凄惨な事態には至らず、政権の求心力が急速に失われるようなことは避けられたに違いない。
和田裕弘氏は、「秀長が存命でも大陸出兵は止められなかったと思われるが、その後、関ヶ原の戦い、大坂の陣と続く豊臣政権の末路は、別のかたちをとったことは確かだろう。家康の野心そのものも芽生えなかった可能性すらある」と書く(『豊臣秀長』中公新書)。そして、多くの研究者が同様の見解を示す。
秀長は羽柴(豊臣)政権と諸大名たちをつなぐ「かすがい」だった。それが失われなければ、江戸時代はなかった可能性がある。すると、日本の首都も東京ではなく、大阪か京都だったのではないだろうか。1人の人物の死が、歴史をそれほど変えるのである。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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