※本稿は、菊地浩之『増補新版 豊臣家臣団の系図』(角川新書)の一部を再編集したものです。
■秀長の「長」は誰からもらった?
秀吉の異父弟・豊臣大納言秀長(1540~91)は、はじめ木下、のちに羽柴を名乗り、通称は小一郎、美濃守。諱(いみな)(実名)ははじめ「長秀」を名乗った。いうまでもなく、信長から偏諱(へんき)「長」の字をいただき、秀吉の「秀」の字をつけたものであろう。当時、同名の丹羽長秀が健在であったが、秀吉には関係なかったようだ。天正12年に秀長と改名。秀吉の指示であろう。
永禄8(1565)年に秀吉が指揮した美濃鵜沼城(岐阜県各務原市)攻めが初陣。その後は秀吉の近江浅井攻めに参陣。中国経略では、その右腕として主に山陰方面を担当。天正5(1577)年2月に紀伊雑賀攻め。
秀長を主将として副将に前野長康、その他に宮部継潤・生駒親正・堀尾吉晴・藤堂高虎ら総勢3200。但馬に入って早々に岩洲城・竹田城(兵庫県朝来市)を降し、生野銀山を接収。竹田城を拠点とした。
また、天正8(1580)年に但馬を平定して但馬出石城主となった。秀吉とともに因幡に侵攻し、翌天正9年10月に鳥取城を落とした。
■豊臣一族で優秀だったのは秀長だけ
賤ケ岳の合戦の後、播磨支配を任され播磨姫路城主。前野長康・蜂須賀正勝・神子田正治・桑山重晴などの播磨・但馬の支城に置かれた豊臣家臣を与力としたらしい。天正12(1584)年の小牧・長久手の合戦に参陣。
翌天正13年3月、秀長は甥の秀次とともに副将として雑賀根来寺(ねごろじ)攻めに参加。和泉・紀伊の2カ国を加増された。同天正13年6月の四国征伐では、秀吉が病気のため、秀長が代行として主将を務め、3万の軍勢を率いて淡路島から阿波(徳島県)に渡った。
ここで副将の秀次軍3万と合流。この他に宇喜多秀家ら2万3000の軍が讃岐(香川県)、毛利輝元ら3万の軍勢が伊予(愛媛県)から土佐(高知県)の長曾我部元親(ちょうそがべもとちか)を攻めた。さすがの長曾我部家も三方からの攻撃は想定外で、あっけなく降参を余儀なくされた。秀長はその功で大和一国を与えられ、郡山(奈良県大和郡山市)城を本拠とした。
同天正13年10月に従三位参議に叙任。翌天正14年10月に権中納言、天正15(1587)年8月に従二位権大納言に叙任され、俗に「大和大納言」と称される。これと併行して、同天正15年2月から7月まで秀吉の九州征伐に参陣した。しかし、帰陣後の11月に京都で発病。闘病生活に入り、翌天正16年に甥・秀保(ひでやす)を養子として、天正19(1591)年1月に死去した。享年52。
和田裕弘氏は「秀吉の一族にはめぼしい人材がいなかったとされる。(中略)唯一の人材は、出色の出来だった弟の小一郎長秀(のち秀長)だけである」と評している(『織田信長の家臣団』)。
■秀長の妻と子は何人いたのか
秀長の妻(?~1622)は大和の秋篠伝左衛門(あきしのでんざえもん)の娘と伝えられ、決して名家ではない。秀長が大和を所領とした天正13(1585)年頃に結婚したと考えられる。
秀長には少なくとも1男2女がいた。
・長男 小一郎
・長女 きく女(1588~1609)秀吉の養女。毛利甲斐守秀元(はじめ毛利輝元の養子)の妻
・次女 豊臣中納言秀保の妻
■秀長が愛した養子・藤堂高吉
唯一の男子・小一郎の生没年は不詳だが、本能寺の変以前に早世したとの説がある(秀長はその未亡人を養女とした)。
そこで、天正10(1582)年の秋頃、秀吉は丹羽長秀(1535~85)の三男・仙丸(のちの藤堂宮内少輔高吉。1579~1670)を秀長の養子に迎えた。
秀吉が丹羽長秀・柴田勝家から一字ずつをとって「羽柴」と名乗ったことから、秀吉VS.旧勢力の丹羽・柴田という構図に誤認されているが、実際には、国人領主層の柴田、信長がカネで傭った旗本衆の丹羽という二大勢力に目配りしたのが、羽柴という苗字だったと思われる。
後者に属する秀吉は、丹羽長秀と意外に仲がよかったようだ。本能寺の変後に旧織田家臣の中で主導権を取っていく過程で、旗本衆出身のボス・丹羽長秀との連携強化の必要に駆られ、長秀の子を羽柴家に迎えたのだろう(「当初は秀吉の養子」だったという説もある『豊臣秀長のすべて』)。
しかし、天正13(1585)年4月に長秀が没すると、高吉の長兄・丹羽長重が父の遺領120万石を継ぐものの、同天正13年閏8月に若狭一国に減封され、さらに9月には加賀松任(まつとう)4万3000石に減封されてしまう。シビアな秀吉は、丹羽家の利用価値が下がったことを石高で明示しているように思える。
当然、高吉の利用価値も低くなり、秀吉は秀長の後継者を一族から選定することに変心。天正16(1588)年に甥の秀保を秀長の婿養子とした。居場所を失った高吉は、当時、秀長の家臣であった藤堂和泉守高虎(1556~1630)の養子となった。
■徳川の時代になってもサバイブ
秀長は高吉の才能を愛して1万石を与え、高虎から与えられた1万石と合わせて紀伊粉河(こかわ)2万石を領した。文禄の役では14歳で初陣を果たし、その勇猛果敢さから「小藤堂」と呼ばれた。
妻は越後新発田藩主・溝口伯耆守宣勝(1582~1628)の娘。宣勝の父・溝口伯耆守秀勝(1548~1610)がもともと丹羽長秀の家臣だったことに由来するのだろう。
高吉は、関ヶ原合戦後も本家・藤堂家から独立した大名として遇されていたが、高虎の子・藤堂大学頭高次(1601~1676)が本家の家督を継ぐと、本家の家臣に組み込まれた。子孫は1万5000石を領した。
■早世した長男の妻を養女にした
小一郎の妻だった那古野因幡守(なごやいなばのかみ)敦順の娘は、秀長の養女となって、森右近大夫忠政(1570~1634)に嫁いだ。
那古野家は那古野今川家の旧臣で、織田信秀によって当主の今川左馬助氏豊が放逐された後、信秀の主家にあたる清須織田家に属したらしい。尾張守護・斯波義逵(しばよしみち)はのちに義敦と改名したとされ、敦順はその偏諱を受けた可能性が高い。
那古野今川家というのは、駿河守護の今川家の支流で、鎌倉時代以来、尾張国愛知郡那古野(名古屋市)の地頭となった。その子孫が戦国時代まで存続し、本家の今川義元の弟・氏豊を養子に迎えたが、信秀によって滅ぼされたのだ。
■「無双の美少年」と呼ばれた兄弟
『群書系図部集』所収の「織田系図」によると、敦順の妻は信長の一族・津田家の出身で、中川八郎右衛門重政、津田隼人正盛月、木下雅楽助の姉妹にあたる。『三百藩家臣人名事典6』によれば、「敦順は信長の従弟(いとこ)」との記述があるが、重政らを信長の従兄弟の子とする説があるからだろう。敦順の子女は以下の通り。
・長男 那古野内膳
・次男 那古野山三郎(1572~1603)
・長女 金森出雲守(可重。長近の養子)の妻
・次女 森右近大夫忠政の妻(?~1607)
・三女 小沢彦八郎(森家に仕える)の妻
次男の那古野山三郎(のち九右衛門、蔵人)は「無双の美少年」「美麗の器量」と称され、歌舞伎の創設者・出雲の阿国を妻にしたとの俗説がある。妹が忠政に嫁いだことにより、その家臣となり、5000石もの高禄を得たが、森家の家臣・井戸宇右衛門に討たれた。ちなみに、妹婿の小沢彦八郎も1000石で忠政に仕えたが、同じく森家の家老・各務四郎兵衛元峯に討たれている。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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