■黒く塗られたシューズ
ロッカールームで、その選手はあるシューズを手に取った。
黒いペンを握り、ロゴを塗りつぶしていく。何度も、丁寧に。アシックスと契約している以上、他社のシューズは履けない。でも、勝つためには――。
2019年、秋。アシックスのスポーツマーケティング担当者は、その光景を目の当たりにして言葉を失った。
「その選手はうちと契約してるんで、他社のシューズは履けない。
アシックスのトップアスリート向けランニングシューズ「メタスピード(METASPEED)」開発チームのリーダー、竹村周平氏は、どん底とも言える当時を静かに振り返る。
選手からは「戦えるものがない」と言われていた。エージェントからは「勝てるシューズを提供できないなら、選手を紹介しないよ」と門前払い。新しい才能との契約交渉すら、させてもらえない。
「たまらないよ」
選手と最も近い距離にいる、スポーツマーケティング担当者からの悲鳴だった。
■「31.9%の栄光から0%」1460日後の転落
数字は、残酷なほど雄弁だった。
2017年、箱根駅伝。アシックスのシェアは31.9%で堂々のトップ。大正9年から続く伝統の駅伝を支える、王者の座にいた。
しかし2018年、ナイキがシェアを逆転する。ナイキは2017年7月、ランニングシューズと言えば「薄底」という常識を覆す厚底シューズ「ナイキ ズーム ヴェイパーフライ4%」を発売、瞬く間に市場を席巻していたのだ。
「2017年、私は中国に駐在していたのですが、香港のお店でヴェイパーフライを持ってみて衝撃を受けました。クッション性の高い厚底シューズはそれまでにもありましたが、それをここまで軽くしてランニングシューズにできるのかと。革新的だったと思います」
箱根駅伝のシェアは2019年、ナイキ41.3%、アシックス22.2%に。さらに2020年には、ナイキ84.3%。アシックス3.3%。崖を転げ落ちるような数字だった。
そして2021年――。
■「1人ぐらい履いてくれても」
1月2日。竹村さんは自宅のテレビで箱根駅伝を見ていた。
1区、2区、3区……。選手の足元を目で追う。ナイキ、ナイキ、ナイキ。
「履いてないな、やっぱりと」
そして、3日。10区が終わり、結果が出た。ナイキ95.7%。アシックス0%。210人の選手の中に、アシックスは1足もなかった。
「これはとんでもないことになった……とうろたえました」
前年の3.3%には、まだ「誰かが履いてくれている」という事実があった。0%には、それすらない。「1人ぐらい履いてくれてもいいんじゃないか」――そう思わずにはいられなかった。
だがその反面、「今にみてろよ」という気持ちもあった。
反撃のための新製品開発チーム「Cプロジェクト」がすでに動き出していたからだ。2020年10月のロンドンマラソンで、試作品を履いたサラ・ホール選手がゴール直前で加速し、2位に入っていた。準備は、整いつつある。
「シェアゼロはもちろんショックではありました。でも、もう準備はできているという感覚もあった」――後に、Cプロジェクトを立ち上げた廣田康人会長(当時社長)も、そう振り返っている。
■なぜ、王者は転落したのか
どうしてアシックスは、ここまで追い詰められたのか。
廣田会長は「言い訳から入った」と率直に認めている。厚底は誰でも履けるものじゃない、怪我をしやすい、一時的なブームだ――そうした声が社内にあり、対抗シューズの開発が遅れた。
皮肉なことに、現場の若手たちは最初から分かっていた。ナイキの厚底が市場を席巻することを、彼らはヴェイパーフライが登場した瞬間から予見していたのだ。だが、その危機感は経営層に届かなかった。
「上の人たちが、一時的だっていうことだったんで、開発に着手できませんでした」
組織の壁。成功体験への執着。ボトムアップの限界――。それを打ち破るには、トップダウンしかなかった。
2019年11月、ボストンで投資家に「ボロクソ」に言われた廣田社長(当時)は、眠れぬ夜を過ごした後、帰国したその日に号令をかける。「世界一速く走れるシューズを作れ。1年で」――Cプロジェクトの始まりだった。
■「ワオ!」と「シューズ愛」で大役に抜擢
「負けっぱなしで終われるか」
復活に向けて、社をあげての反撃が始まった。
新製品開発には通常、2年半から3年はかかる。しかし、そこまで待っていられない。1年に縮め、確実に結果を出すために、法務・知的財産、研究、開発、デザイン、生産、スポーツマーケティングから12人の若手が集められ、社長直下のプロジェクトチームが結成された。「世界一速く走れるシューズをつくる」ことだけを追求する、部署横断のチームである。
その名も、『Cプロジェクト』。Cは、アシックス創業者の鬼塚喜八郎の言葉「まずは頂上(Chojo)から攻めよ」からとったものだ。竹村さんは、そのリーダーに抜擢された。
なぜ竹村さんだったのか?
本人に尋ねると、こんな答えが返ってきた。
「僕は2001年の入社から25年間、サッカースパイク開発から始まり、カヤノ、ニンバス、キュムラスなど、ランニングの主力商品の開発に携わってきました。そのなかで大切にしていたのは、相手を『ワオ!』と言わせることです」。
言われたものだけを作るのは嫌だった。依頼通りのものを1つ作り、もう1つ、「このお客様ならこうした方がいいのでは?」という提案を添えた。毎回相手の要望プラスアルファの機能を用意していたのだ。
「それでうわぁ! って言ってくれたら、よしよし、よしよしと。もちろん、提案したけど却下されたり『余計なことするな』と言われたこともあります。それでも続けていました。僕にとってのものづくりの楽しさは、そこにあるから」
推薦した上司はその様子を見ていて、評価してくれたのではないかと推測している。だから、彼は今もCプロジェクトでもメンバーに、「びっくりさせよう」と常に言っている。
加えて、「純粋に靴が好きだから」かもしれない、とも。実は竹村さんの自宅には、300足以上のスニーカーがある。幼少期から靴好きで、陸上をやっていた学生時代から「靴を選ぶ」楽しさに目覚めた。そして、他社ブランドも含め、あらゆる靴を集めてきたそうだ。
「靴専用の部屋があるんです。でも奥さんから、これ以上増やしたら捨てなさいって言われてます」と屈託なく笑った後、真顔に戻ってこう言った。
「いろんな靴をそうやって集めて履いているからこそ、アイデアを出せるんだと思います」
自称「スニーカーフリーカー」の靴愛が、沈みかけた船を率いるにふさわしいと買われたのかもしれない。
■「10個以上の金型」が教えてくれたこと
Cプロジェクトが実際に動き出したのは2020年の1月のこと。始動してすぐに、大きな転機が訪れる。
タイプの異なる「2つのシューズをつくる」という選択だ。
きっかけはランナーの声だった。新しいシューズをつくるにあたって、底が薄いもの、分厚いもの、つま先の反りが違うものなど、10個以上の「モールド」という金型をつくり、アスリートに見せて意見をもらっていた。
すると、「こういう靴が欲しい」が大きく2つに分かれたのだ。
「それぞれ、ニーズが全く違いました。1つにまとめると、どっちにも選ばれない靴になってしまう……。それで、2タイプつくろうと決めたんです」
2タイプつくると、開発コストは2倍、在庫リスクも2倍。それでも、「勝てないシューズ」を作る意味はない。コスト度外視で「世界一速く走れるシューズをつくること」を一番の目的にしていたCプロジェクトだからできた選択だった。
これが、2021年3月に反撃の狼煙として誕生した「メタスピード」シリーズへとつながる。開発期間、わずか1年。
ストライド型向けの「METASPEED SKY」(以下、スカイ)と、ピッチ型向けの「METASPEED EDGE」(以下、エッジ)。
競合他社が1つで勝負する中、あえて2つのモデル。それが他社との最大の差別化になった。
■反撃のための「3つの武器」
メタスピードの2モデルは、見た目こそ似ているが、設計思想がまるで違う。
「スカイ」は、一歩踏み出す幅が広い「ストライド型ランナー」向けだ。グッと踏み込んだときに反発力が生まれ、ピョンピョンと跳ぶような推進力を得られる。一歩一歩を大きく、力強く踏み出せるシューズだ。一方の「エッジ」は、回転数が速い「ピッチ型」ランナー向け。前へ前へとスムーズな重心移動を助け、足を回転しやすくしてくれる。それも小刻みに、リズムよく。
両モデルに共通するのは、アシックスが開発した「3つの武器」だ。
1つ目は、ミッドソールに使われた「クッションフォーム材」。非常に軽量で、反発性に優れている。着地した瞬間に変形し、圧縮され、そして素早く元の形に戻る。その反動が、「跳ね返るような力」を生む。「踏み込んだ力が、そのまま返ってくる。そういう感覚です」。
2つ目は、カーボンプレート。靴の中間部分、「ミッドソール」内部に挟み込むことで足の動きを安定させ、身体を前方向へ「導く」役割を果たす。
ただし、スカイとエッジでは、プレートの形が違う。
スカイはフラットな形状で、ミッドソールの上部に配置。プレート全体でフォーム材を圧縮し、ダイナミックな反発力を生む。エッジはスプーン状で、つま先に向かって傾斜をつけて配置。蹴り出しの際に、足の前部へ局所的に力を集中させる。少ないパワーで、素早く足を前に出すのだ。
3つ目は、ソール前部のカーブ。靴底の先端を反り上げることで、走行中の足首がぐにゃっと過度に屈曲することを抑え、負担を減らしながら足を前に運べるよう設計されている。また、レース終盤に脚が重くなったときも、このカーブが自然と「脚を前へ進める」サポートとなる。
■履いてもらわなきゃ、はじまらない
開発ではこの3つを中心に、ストライド型とピッチ型に合わせて調整が行われた。フォーム材の厚み、カーボンプレートの形状と角度、ソールのカーブ――すべてを、選手の声に合わせてチューニングしていった。
ちなみに、アシックスでは通常、試作品は1サイズだけ作り、合う選手にだけ試してもらう。だがメタスピードシリーズでは、契約選手100人以上に試作品を作成、ひとり平均2~4パターンを渡した。とにかく選手たちに履いてもらい、声を集め、改良を重ねたのだ。
「靴にランナーが合わせるのではなく、ランナーの走り方に合わせて開発する。それが私たちの特徴的なところかもしれません。大きな大会で応援ブースを作ったり、海外選手が来日したときは一緒に走ったり……。シャイな選手とも膝を突き合わせて信頼関係を築き、リアルな声を聞かせてもらっています」
一方研究所では、ランナーに実際に走ってもらい、縦、横、前後方向で身体にかかる負荷から、身体の動き、可動域、「ランニングエコノミー」までを数値化して分析。その結果も逐一開発に反映した。
ランニングエコノミーとは、一定の速度で走るときのエネルギー消費量を指す。いわば、ランナーの「燃費」だ。42.195キロを走り切るには、この燃費の違いが決定的になる。
「弊社のシューズを使うことでレース終盤まで、エネルギーが減る量をいかに抑えられるか。最後の30キロ過ぎて勝負をかけるとき、ランナーはもう一回スパートをかけます。そのとき、スピードを上げられるだけのエネルギーをどれぐらい残しておけるか。そこが勝負の重要な分かれ目になるのです」
ランニングエコノミーの改善には、軽さも重要なポイントだ。軽さは同時に、アスリートがシューズ選びの際、最も気にする部分の1つでもあった。
次回、プロジェクトチームの「あと1グラム」「あと1ミリ」を削る闘いに迫る。
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笹間 聖子(ささま・せいこ)
フリーライター、編集者
おもなジャンルは「ホテル」「ビジネス」「発酵」「幼児教育」。編集プロダクション2社を経て2019年に独立。ホテル業界専門誌で17年執筆を続けており、ホテルと経営者の取材経験多数。編集者としては、発酵食品メーカーの会員誌を10年以上担当し、多彩な発酵食品を取材した経験を持つ。「東洋経済オンライン」「月刊ホテレス」「ダイヤモンド・チェーンストアオンライン」「FQ Kids」などで執筆中。大阪在住。
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(フリーライター、編集者 笹間 聖子)

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