かつて殺人事件の発生率が世界でもっとも高かった国が、中南米に位置するエルサルバドルだ。しかし、「治安を守る」と掲げたブケレ大統領が就任し、治安が劇的に改善した。
評論家の白川司さんは「ブケレ大統領の政治姿勢を見ると、日本の政治家に欠けているものがわかる」という――。
■「肥だめ」と名指しされた治安崩壊国
2018年、ドナルド・トランプ大統領(当時)が中米やアフリカの一部の国々を指して「shithole countries(肥だめのような国々)」と発言した。
この発言は一部で「人種差別的だ」と批判されたが、不法移民対策の文脈で発せられたこともあって保守支持層を中心に多くの共感を得た。
名指しされた国の中でも、長年にわたり凶悪犯罪組織MS-13などの組織犯罪が存在し、大量の移民流出に苦しんできたエルサルバドルは、特に「肥だめと名指しされた国」として悪名をとどろかせることになった。
国際社会においてエルサルバドルは、「治安が崩壊した犯罪国家」「犯罪組織が政府より強い国」「国家が機能していない国」の代表例として扱われてきた。
■TikTokフォロワーは1100万人超
ところが、エルサルバドル大統領はアメリカ保守派の大会であるCPAC(シーパック)で、「ロックスターのように迎えられた」と報じられるほどの人気を博し、ホワイトハウスでも最大限のもてなしを受けることになった。
その中心にいるのが、ナジブ・ブケレ大統領(44歳)である。2019年6月に就任し、2024年には85%の得票率で再選した。
エルサルバドルの人口は約600万人だが、ブケレ大統領はTikTokで1100万人を超えるフォロワーを抱え、国家元首としてはトランプに次ぐ数を誇っている(トランプ大統領は1500万人超)。「チェーンソーマン」として知られ、日本でも知名度のあるアルゼンチンのミレイ大統領を凌駕する人気を誇る。
かつて「肥だめ」と罵られた国は、なぜここまで評価を一変させたのか。その過程は、日本政治にも大きな教訓を示している。

■「警察よりギャングが強い国」への不満
エルサルバドルには民主的な憲法も裁判所も警察も存在しており、制度上は民主主義国家である。ただ、その制度が機能していたかというと、健全というにはほど遠いほど、機能不全に陥っていた。
ギャングが街を支配し、恐喝が日常化し、警察は立ち入れず、司法は信用されていなかった。夜はもちろんのこと、昼間でさえ安心して街を歩くことができない。国民は「自分の身は自分で守れ」を実践するしかなかった。
政府は国民の生活を守らず、国家よりギャングが強い国である、と多くの国民が認識していた。
それでも、政治エリートたちは「エルサルバドルには民主国家としての制度はある」と言い続けた。国民が国家元首をはじめとするエリートに反感を持つのも当然だっただろう。
そんなエルサルバドルに「救世主」が現れることになる。
■大学中退の非エリートが大統領に
ナジブ・ブケレ氏は、エルサルバドルの伝統的な政治エリートとは違った経歴をもっていた。裕福な実業家の家に生まれ、若くして広告・マーケティング分野で成功。左右二大政党のエルサルバドルにあって、既存政党の中枢でキャリアを積むことなく政治の世界に入った。

2012年、左派政党FMLNから地方都市ヌエボ・クスカトラン市長に当選し、治安改善や行政の効率化で評価を高めた。その後、首都サンサルバドル市長に就任し、SNSを駆使した発信で、知名度と人気を拡げていった。
ブケレ氏は現実主義的な政治家だったが、内には高邁な理想を抱えていた。徐々に既成政党との対立を深め、最終的に党を離脱する。
二大政党がしのぎを削る中、ブケレ氏は新党を作り、2019年大統領選に出馬した。まさに国民の既存政治への不信が頂点に達した時期だった。汚職と治安悪化に失望していたエルサルバドル国民は、そんなナジブ・ブケレに期待し始めた。
そして、エルサルバドルで、大学中退の大統領が選出された。富裕層出身ながら、エルサルバドル政治では珍しい非エリートの国家元首。国民は何かが変わる予感に期待した。
■安全に歩ける街を渇望していた国民
ブケレ大統領が最初にやったのは、エルサルバドルが抱えていた「幻想」を壊すことである。
エルサルバドル国民は、「制度が存在しようとしまいと、国家は機能しない」と思い込んでいた。
政治はいろいろな制度を作った。だが、エリートたちが政治制度を誇れば誇るほど、むしろ「国家は決して自分たちを守ってくれない」と国民は落胆し、政治に期待しなくなっていた。
ブケレ大統領は、その政治と国民の断絶を言語化することから始めた。「国家は国民を守れていない。問題は制度の有無ではない。現実として国民生活を守れるかどうかだ」と明言した。
彼が大統領選挙で勝利できた最大の理由は、国家の課題を一点に絞り、その解決を最優先する突破力が国民の期待をかき立てたことだった。
政策では、たしかに経済も教育も社会保障も重要だ。だが、国民が本当に求めたのは、日常生活に根ざしたことだった。安全に歩ける街、犯罪に巻き込まれることなく、子どもが安心して遊べる環境。
■公約は「治安を守る」に1点集中
多くの政治家は、あらゆる政策を同時に語ろうとする。それは、制度の空虚さを知っている国民にとって「何も決めない」ことと同義である。

これまでエルサルバドルの政策が失敗を繰り返してきたのは、能力が足りないからではない。優先順位を決められず、美辞麗句をちりばめて制度ばかりを作ってきたからだった。魂のない制度はないに等しいものだ。
一方、ブケレ大統領はやるべきことを1つだけに絞って国民に語りかけた。「エルサルバドルの治安を守る」と宣言したのである。
ブケレ大統領は演説が得意ではなく、どちらかというと寡黙な政治家だ。しばしば比較されるアルゼンチンのミレイ大統領が、選挙戦で「すべてをぶった切る」とチェーンソーを振り回しながら叫び、ロックスターの如く舞台を駆け回ったのと比べると、長い演説や複雑な制度説明を好まず、パフォーマンスにも長けていると言えない。
ただ、政治エリートたちがやってきたように専門用語を振り回すことはせず、目指すべき目標だけをわかりやすく提示した。
「夜の街に人が戻ること」

「街から恐喝が消えること」

「誰もが普通に商売できるようになること」
■就任1年で殺人が3分の1に減少
国民は自分の目で奇跡のような変化を実感し始めた。
前政権末期は殺人事件が1日平均12件も起きていたが、政権1年目に4.3件に減少。大統領府は「殺人事件が起きなかった日が22日あり、これは同国史上前例のないこと」と発表した。
2015年に10万人あたり100人を超え「世界最悪」とされた殺人発生率は、2024年には1.9人と欧米諸国を下回る水準まで激減した(日本は0.2人程度)。

ブケレ大統領は、SNSでも言葉を重ねて納得させるのではなく、実際に起こっている変化を見せ、説明は最小限にとどめた。また、その実績を誇ることはしなかった。
雄弁に語る政治家が多い中で、ブケレ大統領の寡黙さは決してマイナスにはならなかった。政治が信用されてこなかったエルサルバドルにおいて、現実に起こっている変化を見せることはむしろ効果的だったのである。
多くの政治家がこう考えている。政治は言葉である。言葉で説得することが政治家の役目だ。たしかにそういう面はある。だが、政治は「どれだけ説明したか」では評価されない。大事なのは「何を変えたか」だ。
政治家の言葉は「何を目標にするか」を国民の目線で説明することに使われるべきである。言葉の氾濫で「やったふうを見せる」ことは虚しい。
国民は見抜いている。
■ギャングが消えた街をSNSで「報告」
ブケレ大統領のSNS戦略について、紋切り型に「若者向け」「ポピュリズム」などと語られることが少なくない。
だが、これはむしろ逆だろう。
ブケレ大統領は発信にショート動画を使っているが、そこで伝えられるのは、政策の内容や理念ではない。もちろん、実績を誇ることでもない。彼は結果だけを発信し続けている。
動画にはギャングが消えた街の様子が映し出される。国民は街が安全になったという変化をそこで改めて実感する。今起こっていることを、そこで再確認する。
これらのショート動画は思いのほか広く共感を得た。エルサルバドルだけでなく、多くの人たちが政治に対する不信と、言葉だけの政治に飽き飽きしていたのである。
ブケレ大統領のTikTokフォロワー数が国家元首として世界2位になったのは、「言葉」ではなく「結果」のおかげだった。
■ビットコインを法定通貨に採用したが…
治安に関しては奇跡のような変化をもたらしたブケレ大統領だが、このまま突き進めるかどうかは、次の課題である「経済政策」しだいだろう。
もちろん、治安の改善は大きな経済的な恩恵を与える。エルサルバドルは治安の向上によって観光や商業活動は回復しており、経済についても明るい兆しが見えている。
また、治安が安定すれば、これまで投資先の対象でなかったエルサルバドルが、データセンターなどの投資の対象になる可能性がある。
そのためには、エルサルバドル政治が長期的に安定している担保が必要だが、依然として「ブケレ大統領後」への不安は残っており、投資の呼び込みに大成功しているとはいえない状態だ。
ブケレ大統領の代表的な経済政策に、ビットコインの法定通貨化がある。
エルサルバドルは、2001年に自国通貨コロンを廃止し、米ドルを法定通貨とする「ドル化」を断行している。
エルサルバドル政府が通貨主権を放棄したのは、慢性的なインフレ不安や自国通貨への信認の弱さ、アメリカ経済依存の強化、金融の安定化などの政治判断があった。
ブケレ大統領はアメリカ依存を良しとはしなかったが、自国通貨に戻すのは時期尚早と考え、ビットコインを法定通貨として採用した。
たしかに、出稼ぎがGDPの2割前後を占めるエルサルバドルにおいて、海外送金がやりやすくなる仮想通貨の採用は恩恵もあるだろう。だが、ビットコインはあまりに変動が激しく、法定通貨に向いているとは言えない。
■経済政策が失敗すれば元に戻るリスクも
実際、ビットコインの法定通貨化は、国民の支持を得ているわけでもない様子だ。
エルサルバドルは裁縫などの労働集約的な産業が中心であり、産業構造そのものを大きく転換する必要に迫られている。
そのためには、「ブケレ後」を保障するような政治制度を確立して、投資を呼び込めるようにしなければならないが、結局、経済を立て直さなければ、それも難しい。
したがって、ブケレ大統領が個人的な信用で投資を呼び込みながら、産業構造を徐々に変革して、長期の政治的安定を実現するしかないだろう。
もちろん、今のところ政権支持が揺らぐ様子はない。経済政策の成否が重要だが、治安の改善によって国家が力と信用を取り戻し、国民に自信がついてきているのが大きい。
先の道はまだまだ険しいが、遠くのほうに明るい光が見え隠れしている。
■日本の政治家に決定的に欠けているもの
ブケレ大統領の改革から、日本が学ぶべきことはいくつもある。
もちろん、日本は治安の良さでは世界屈指であり、司法などの制度が健全に機能している。そういう意味で日本がエルサルバドルから学ぶべきことはなさそうに見える。
ただし、ブケレ大統領という政治家と比べると、日本の政治家に欠けているものが見えてくる。特に日本の政治家には決定的に欠けているのは、マスコミの論調や空気に妥協しない強さだろう。
日本では、政策の是非が国民ではなく、マスコミの評価によって左右されがちだ。その結果、日本の政治家は「どう実現するか」よりも、「どう批判されないか」に走り、政策がいくぶん骨抜きになりがちである。
■「行動するトップ」を選べるかどうか
ブケレ大統領の政治はそれとは正反対である。彼は欧米メディアや人権団体から何度も批判されながら、MS-13など凶悪犯罪組織の解体を進めた。それが最優先課題であり、国民が望んでいたことだからだ。
マスコミに支持されたかったら、何もせず、何も変えなければよい。実際、「憲法を守る」「日本を軍事大国にしない」「外国人の人権を守る」「福祉を守る」ときれいごとを言っていれば、マスコミは褒めてくれるだろう。
でも、それでは着実に政治不信が高まるだけだ。
かつて「肥だめ」と罵られた国は、いきなり奇跡を起こしたわけではない。言葉だけでなく、行動するトップを選び、そのトップが問題を一点に絞り、結果を出し、それを国民に分かる形で示すという、愚直にやるべきことをやっただけである。
すべての政策は、その結果を国民に伝えることで完成する。伝える結果のない政治は、何もしないのと同じである。私たちはブケレ大統領からそのことを学ぶべきだと思う。

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白川 司(しらかわ・つかさ)

評論家・千代田区議会議員

国際政治からアイドル論まで幅広いフィールドで活躍。『月刊WiLL』にて「Non-Fake News」を連載、YouTubeチャンネル「デイリーWiLL」のレギュラーコメンテーター。メルマガ「マスコミに騙されないための国際政治入門」が好評。著書に『14歳からのアイドル論』(青林堂)、『日本学術会議の研究』『議論の掟』(ワック)ほか。

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(評論家・千代田区議会議員 白川 司)
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