■新しい宮内庁長官と高市首相の関係
2025年12月24日に新しく宮内庁長官に就任した黒田武一郎氏(65)は高市早苗首相と極めて親しく、愛子さんを含めた女性皇族たちの“危機”を救う救世主になるかもしれない。
女性自身(1月6・13日号)はそう報じている。
黒田氏は自治省(現・総務省)出身。熊本県副知事や消防庁長官などを歴任した後、2019年7月に総務審議官、同年10月には同省トップの総務事務次官に就任している。2023年12月に宮内庁次長に就任した。
ざっくばらんな性格で調整能力も高く、職員の多くが頼りにする人柄だそうだ。
それに何より高市首相とごく親しいというのである。
高市氏は2014年から2017年、2019年から2020年まで総務相を務めていた。その時の部下が黒田氏なのである。女性自身で霞が関事情に詳しい「インサイドライン」の歳川隆雄氏は以下のように話す。
「黒田氏は省内で、“四羽烏”と呼ばれていた実力者の一人で、高市さんが総務相を務めたときに事務方として支えてきました。
かねて高市さんは霞が関官僚の人脈が狭いといわれてきましたが、数少ない頼れるキャリア官僚の一人です。
じつは高市政権発足後、官僚機構のトップである事務担当の官房副長官の候補として、黒田氏の名前が挙がった経緯もあるほどなのです」
■「ブイチロウさん」と呼ぶ仲
しかし、黒田氏はすでに宮内庁次長に着任して、次は長官になるという立場で、本人もキャリアとプライベートを皇室に捧げる覚悟だったようで、高市首相の願いは叶わなかったというのだ。
黒田氏は官僚としての栄達よりも、残りの人生を皇室を支えることに尽くしたいと思い、両陛下の最側近になると心を決めたそうだ。

黒田氏と高市首相との交わりの深さを示すものがあるという。
高市首相は自身のホームページで、総務相を退任した際に黒田氏から贈られた言葉を全文、載せたことがあったという。
政治家が部下の官僚から贈られた言葉をすべて載せることは珍しいことだと、黒田氏を知るキャリア官僚は述べている。
高市首相は「ブイチロウさん」と親しく呼んでいるという。
もしかしたら、高市首相の深謀遠慮で、自分が首相になった時、愛子さんの天皇実現も含めて、皇室改革をやる際のキーマンとして、黒田氏を宮内庁に送りこんだのかもしれない。
そんな期待を抱かせる今回の長官人事ではある。
■「女性皇族」の先行きは不透明なまま
2022年1月から始まった、皇族数の確保策を巡る国会の議論は、女性皇族の結婚後の身分保持案、旧宮家に連なる男系男子に限った養子縁組を可能にする案の2つを軸に、衆参両院の議長が取り仕切る形で進められてきた。
「女性皇族の身分保持案」はおおむね賛同を得ているようだが、その配偶者と子どもも皇族とするか否かで各党の意見はまとまってはおらず、自民党などが主張する「養子案」も賛否が分かれたままである。
合意のとりまとめは2026年以降になるが、先行きは不透明なままである。
静岡福祉大学の小田部雄次名誉教授はこう指摘する。
「議論の停滞が続けば、将来の見通しが定まらないことで、愛子さまや佳子さまの結婚の自由や、その機会すら奪ってしまいます。
皇室の女性に対して非人間的な生涯を強要するのは、いかに皇族でいらっしゃるとはいえ、民主主義国家のあり方として望ましいこととは思えません。
黒田新長官においては、天皇皇后両陛下の御心、そして国民の一般的な感覚をくみ取りながら、皇室の将来に望ましいあり方を、高市首相に進言することが大切な役目なのではないでしょうか」(=女性自身)
■選挙目当てに「愛子天皇」をぶち上げる
先のキャリア官僚OBは、「黒田さんは、中長期の見通しを立て、かつ物事を先読みすることに抜群に長けています。上役の意向を的確にくみ取ることにも優れていますし、天皇皇后両陛下の最側近としての役割を果たすことができるはずです。さらには、高市総理にも皇室の諸問題の深刻さを、的確に伝えることができるのではないでしょうか」(=女性自身)
私は、高市首相が狙っているのは、選挙目当てに「愛子天皇」実現をぶち上げることではないかと思っている。
今でも70%もの高い支持率を誇っている高市政権だが、それも、日本維新の会や国民民主党の政策を丸呑みして、実効のなさそうなバラマキ政策が今のところ功を奏しているからでしかない。
しかし、インフレがこれ以上進み、円がさらに安くなれば、有権者の不満は高まり、政権への批判も高まるに違いない。
そうなれば、解散総選挙をしたとしても、自民党大勝とはならないかもしれない。しかし、選挙直前、「愛子天皇を実現します」と高市首相がぶち上げれば、自民圧勝まであり得るのではないか。
そうした政治的思惑で、娘の愛子さんが次期天皇に推されたとして、母親である雅子皇后は、果たしてそれを喜ぶだろうか。
■両陛下が愛子さまに受け継いだこと
私は、雅子皇后のここまでの人生を振り返ってみると、彼女は自分の娘を天皇にしたいという「願望」ではなく、「一生の良き伴侶と出会い、平凡だが喜びにあふれた家庭をつくってほしい」と考えているのではないかと推測する。
雅子皇后は天皇とともに、戦争の傷跡の癒えない場所を巡ってきた。時には愛子さんを同伴することもあった。これが将来の天皇になる娘に対する「帝王学のひとつ」ではないかと報じられた。

愛子さんは災害の被災地へも赴き、被災者たちと会話を交わした。初の海外公務にラオスを選んだのも、かの国の悲惨な歴史を学び、国民を晴れやかにする一助になればと考えたのではないか。
天皇や皇后から受け継がれた戦争を二度と起こしてはいけない、平和を守り続けるという強い意志は、愛子さんにも間違いなく受け継がれていると思う。
しかし、それは天皇になるための帝王学ではなく、一人の人間として知っておくべきこととして、父母が娘に手渡していったということではないのだろうか。
現天皇が皇太子の時、外交官だった小和田雅子さんを見初め、プロポーズしたことはよく知られている。
外交官という職業に邁進していた雅子さんは、何度か申し出を断ったといわれる。
だが、皇太子の熱情は、断られれば断られるほど燃え上がった。
■皇室という「過酷」な閉鎖社会
よく知られている天皇のプロポーズは、「僕が一生全力でお守りします」だったという。
柔和で優しい皇太子にしては珍しい激情があふれ、彼女の心を激しく揺さぶる言葉であった。
また、「外交官として仕事をするのも、皇族として仕事をするのも、国のためというのは同じ」という言葉も添えられたという。
皇太子との結婚を決意した雅子さん。1993年6月9日、約19万人が見続ける中、晴れやかな結婚パレードが行われた。

しかし、皇室という世界は雅子さんには「過酷」な閉鎖社会であった。
文藝春秋(2024年1月号)「雅子さま還暦『内なる戦いの30年』」はこう書いている。
「皇室では『お世継ぎを』と頻りに急かされる過酷な現実が待っていた。宮内庁の幹部たちは、雅子さまのご懐妊を最優先する態勢を敷いた。その背景には天皇皇后のご意思があると言われていた。
マスコミが、お世継ぎを期待する記事を報じるたびに、お二人は記者会見で『コウノトリの機嫌に任せる』と答えざるを得ない」
子供ができたかどうかは夫婦の間の「秘め事」であるはずだ。それを会見ごとに聞かれ、答えなくてはならない雅子さんの心境は、推測するに余りある。
■雅子さまが耐け続けた重圧
宮内庁記者によると、雅子さんは「お世継ぎの重要性については、何よりも深く自覚されていましたし、『何人でも産みたい』というご覚悟だったようです」。それでも二人の間には子供ができず、雅子さんは有形無形のプレッシャーに押しつぶされていったという。
前掲の文藝春秋はこんなエピソードを書いている。
「ご成婚から三年目の九五年頃には、こんな一幕もあった。当時の天皇陛下(現・上皇陛下)が雅子さまに『国民みんなが待っているからね』と語りかけると、雅子さまは『私の友達にそんなことを言う人は、一人もいません』と色をなして反論されたというのだ」
朝日新聞が「ご懐妊」と先走って誤報したこともあった。
流産も経験され、1995年から始まった不妊治療が彼女の心に与えた影響もあったのかもしれない。針の筵というのはこのことをいうのであろう。
ようやく結婚から9年目にして待望の赤ちゃんを授かった。雅子さん38歳。
だが、山王病院の堤治名誉病院長によると、「エコーで性別が分かります」と伝えると、皇太子は「教えていただかなくても大丈夫です」と答えたという。
2001年12月1日、3102グラムの愛子さんを無事、出産した。堤院長によると、「分娩室でも『生まれてきてくれてありがとう』とおっしゃったと思います」。
■当時の宮内庁長官による「人格否定発言」
しかし、皇室は、愛子さんを出産してから日を置かずに、雅子さんに「二人目の出産」の相談が持ちかけられたというのである。
プレッシャーはより強くなり、心身ともに疲弊した雅子さんは、2003年頃から発熱や朝起きられない日が続き、抑うつ状態に陥った。ストレスが原因とされる「帯状疱疹」を発症している。
そんな雅子さんの気持ちを逆なでするかのように、当時の湯浅利夫宮内庁長官が、定例会見でこう発言したのだ。
「秋篠宮さまのお考えはあると思うが、皇室の繁栄を考えると、三人目を強く希望したい」
雅子さんの「人格を否定する発言」である。
このような他人の心を推し量れない、心無い人間が傍にいたというのも、雅子さんの病状を悪化させたことは間違いない。
だが、一長官の一存でこのように踏み込んだ発言をすることは考えられない。背後には、当時の天皇皇后の強い希望があったのではないかと想像されているようだ。
四面楚歌の中、雅子妃が頼るのは天皇と娘・愛子さんしかなかった。2004年3月。雅子さんは愛子さんを連れて、実家である小和田家の軽井沢の別荘で療養生活を始めたのだが、母親の優美子さんが目を離せないほど、雅子さんは危険な状態だったという。
皇太子も何度か訪れていたが、泊まるのは近くのホテルで、「離婚の危機」が囁かれた。
■これは第二のプロポーズだった
皇太子が軽井沢から帰京したある夜、天皇皇后両陛下、紀宮さんと食事を共にしたことがあったという。その時の様子を文藝春秋は、こう述べている。
「天皇が席を立ち、御所のベランダに出ると、雰囲気を察した紀宮様も後に続き、食卓には皇太子と美智子さまの二人だけになった。『その瞬間、皇太子は美智子さまの手を握り、涙を流された』(宮内庁関係者)という。おそらく雅子さまの窮状を訴え、理解を乞われたのだと思われる」
その年の5月。皇太子の「人格否定発言」がなされた。
「この十年、自分を一生懸命、皇室の環境に適応させようと思いつつ努力してきましたが、そのことで疲れ切ってしまっているように見えます。それまでの雅子のキャリアや、そのことに基づいた雅子の人格を否定するような動きがあったことも事実です」
私は、これは皇太子の第二のプロポーズだったように思う。妻が適応障害になり、公務どころか日常生活にも支障をきたすようになってきた。離婚しても不思議ではなかったのかもしれない。
だが、皇太子は踏みとどまり、雅子さんと娘の愛子さんとともに生きることを決意した。そのことを雅子さんに向かって高らかに宣言したのである。
ここまで、これまで何度も語られてきた雅子さんの半生を振り返ってきたのには訳がある。
■本当に「愛子天皇」を望んでいるのか
愛子さんは成人会見で、「私からも産んでくれてありがとうといいたい」と語った。母親と娘との間の「産まれてきて、産んでくれて」という言葉には、二人の万感の思いが込められていると思う。
愛子さんが学習院大学を卒業して、日赤に勤めながら公務を軽々とこなす姿に、雅子さんはどれだけ励まされていることだろう。
そこで、愛子天皇である。皇室という因習にまみれた世界に民間から入り、苦労を重ねてきた雅子さんが、娘を天皇につかせたいと望むだろうかと、私は考えるのである。
愛子天皇待望の声は高まり、女性誌の表紙や特集に、雅子さんと愛子さんが登場しない週はない。
愛子さんのカレンダーが飛ぶように売れ、宮内庁広報部が流すインスタグラムの天皇一家の動画は、即座に何十万人が反応するという。2025年9月までの投稿で最も多く閲覧されたのは、天皇一家が2025年8月に「須崎御用邸」で海水浴をした際の写真で、約1473万回もネットユーザーたちに見られたという。
■愛子天皇を阻む最大の壁
今や、雅子さんは「国母」といっていいだろう。
先の高市首相と黒田宮内庁長官との連係プレーで、愛子天皇が誕生する可能性は少し高まったのかもしれない。
しかし、一母親とすれば、日本国民統合の象徴としての天皇になることを娘に望んでいるとは思えないのだ。
天皇の座が、愛子さんの人生を明るくするものにはならない。それよりも、結婚して、平凡だが、幸せな人生を送ってもらいたいと考えているのではないか。
そのために自分に何ができるのか。雅子さんはそう考えているのではないかと、私は思うようになってきた。
意外に、愛子天皇を阻む壁は、母親の雅子さんかもしれない。今はもてはやしているマスコミも、何かあれば一転することは、雅子さんが一番知っている。
そんな世界に身を置くことを娘にはさせたくない。適応障害と向き合い、折り合いをつけながら公務に臨む雅子皇后の笑顔の下には、悲嘆に暮れた日々の残像が隠されている。
そんな雅子皇后が、やすやすと高市政権の延命に手を貸すはずがない。最近、私はそう考えるようになった。

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元木 昌彦(もとき・まさひこ)

ジャーナリスト

1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、近著に『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。

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(ジャーナリスト 元木 昌彦)
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