NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、農民から天下人になったとされる豊臣秀吉と、弟・秀長が描かれる。しかし、2人の前半生には謎が多く、後世の書物やドラマで作られたイメージが“事実”のように広まっている。
歴史ライターの小林明さんが、史実から「豊臣兄弟」の実像に迫る――。
■「日輪の子」として神格化された秀吉
「父は尾張国愛智郡中村の住人、筑阿弥(ちくあみ)とそ申しけるあるとき母懐中に日輪(にちりん)入給ふと夢み、已(すで)にして懐姙誕生しけるにより童名(わらびな)を日吉丸(ひよしまる)といいしなり」
豊臣秀吉の父は現在の愛知県名古屋市中村区(尾張国愛智郡中村)に住んでいた筑阿弥という人物で、筑阿弥の妻の体内に太陽(日輪)が入って妊娠したことから、子は日吉丸と名づけられた――豊臣秀吉の誕生を記した『甫庵太閤記』(ほあんたいこうき)巻第一の一節だ。
『甫庵太閤記』は儒学者・軍学者の小瀬甫庵(おぜ・ほあん、永禄7/1564~寛永17/1640年)の著作で、秀吉の伝記『太閤記』といえば『甫庵太閤記』を指すことが多い。成立は寛永2(1625)年頃から、全20巻以上の力作だ。
とはいえ、その知名度の高さゆえに、戦国史研究家・和田裕弘は「通説の元凶」とも評している(『豊臣秀長「天下人の賢弟」の実像』中公新書)。それだけ信憑(ぴょう)性に欠ける史料なのだ。母親と太陽が交わって子を授かるなど、荒唐無稽な創作を堂々と述べている点からもうかがえよう。
それにもかかわらず、秀吉の誕生記としては有名だ。「日吉」は平成8(1996)年のNHK大河ドラマ『秀吉』(原作/堺屋太一、主演/竹中直人)でも、幼少から青年期の秀吉が名乗り、ドラマ第1回は「太陽の子」と題されていた。「日吉=太陽の子」というイメージを強調し、古くから秀吉が神格化されてきたことを示していたといえる。
■荒唐無稽な「天皇ご落胤説」
この神格化は、実は『甫庵太閤記』以前に始まっていた。
秀吉の伝記は、彼の御伽衆(おとぎしゅう/主君に近侍して雑談の相手をする職)だった大村由己(おおむら・ゆうこ)が著した『天正記』(てんしょうき)の方が古い。
その内容は天正8(1580)年~同18(1590)年の秀吉の合戦を中心としているが、天正13(1585)年の章は『関白任官記』といわれ、奥書に「天正十三年八月吉日」とあることから同年7月、秀吉が関白に任じられた直後に書かれたとわかる。
『関白任官記』は、秀吉の母方の祖父が「萩中納言」(はぎのちゅうなごん)なる貴人だったとほのめかしている。萩中納言は何者かの讒言(ざんげん/人を陥れるため虚偽を告げ口すること)によって京から尾州(びしゅう/愛知県と岐阜県にまたがるエリア)に追放されるも、その後、中納言の娘が復権し宮中に仕え、子を宿した――それが秀吉というのだ。
宮中に仕えたということは、天皇のご落胤である余地を含んでいる。おそらく関白就任にあたり、自らの価値を上げたかった秀吉の強い意向が働き、唐突に「秀吉=天皇ご落胤」の伝説が誕生したと見て良いだろう。
だが、現在では萩中納言などという公家は存在しなかったことがわかっており、完全な"創作"と確定している。また、『関白任官記』は秀吉の思惑が介在していながら、父親に関しての記述が一切ない――どうも父には意図的に触れたくなかった様子がうかがえるのである。
■権威付けに必死だった
一方の「日輪の子」は、秀吉が諸外国に送った外交文書で、自らをそう称している。朝鮮・台湾・スペイン領フィリピン宛など複数の書簡に及び、自身は「神の子」であると、権威づけに必死だった姿が見える。これが『甫庵太閤記』に影響を与えたわけだ。
ただし、『関白任官記』が出自を高貴としているのに対し、『甫庵太閤記』は「農民出身の日輪の子」にすり替えているのが特徴だ。これは『甫庵太閤記』が執筆された時点で、すでに豊臣が滅亡していたため、ご落胤などと過剰に虚飾する必要がなかったからだろう。

こうして、豊臣は「農民の子」という説が定着していった。
寛永2(1625)年には、江戸幕府の旗本・土屋知貞(つちや・ともさだ)も『太閤素性記』(たいこうすじょうき)に着手し始めている。延宝4(1676年)まで約50年間にわたって執筆した聞書(ききがき/人から聞いた話)による秀吉の伝記だ。
■「木下」の名字も謎が多い
『太閤素性記』は、秀吉の父を木下弥右衛門(きのした・やえもん)という、織田信秀(信長の父)の軍に付属する鉄砲足軽だったとしている。戦いで負傷した弥右衛門は尾張国中々村(なかなかむら)に帰郷して農民となり、妻を迎えて2人の子を産んだ。それが秀吉と、その姉(豊臣秀次の母)だという。
だが、弥右衛門は秀吉8歳のときに死去。そこで母は、同じく信秀の家臣で中々村出身の筑阿弥と再婚し、さらに2人の子をもうけた。秀長と、のちに徳川家康に嫁ぐ朝日(または旭)だ。
ここに、「木下」という名字が現れる。秀長・朝日といった、のちの時代の豊臣の主要人物も登場する。
ただし、この「木下」の名字も実に謎が多く、秀吉の妻となる、ねねの母方の名字を継いだという説や、織田家の家臣・木下雅楽助(きのした・うたのすけ)の配下となった秀吉がその名字を賜った(黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』/角川選書)など、見解はさまざまだ。
したがって木下藤吉郎の「藤吉郎」がどこから来た名なのかも、はっきりしない。
また、『太閤素性記』に女性の名は記されていない。秀吉の母は「なか」という名が知られているが、これは後世、中々村から取っただけの可能性を指摘されており、実の名はわかっていない。
■豊臣兄弟の父を特定するのは難しい
『太閤素性記』の著者・土屋知貞は中々村の代官の孫だった。つまり土屋は秀吉の故郷の代官の娘に育てられ、かつ、その娘が秀吉と同世代と考えられることから、一定の信憑性ある史料と見られている。
それでも、間違いはある。たとえば秀吉の生年は天文6(1537)年でほぼ確定しているにもかかわらず「天文五年」と表記しているなどだ。
実父は木下弥右衛門、継父は筑阿弥で、秀吉と秀長を異父兄弟としているのも曖昧だ。
秀吉と秀長の父親を特定するのは、前述の通り秀吉自身が父について触れたことが確認できないため実に厄介なのだ。現時点では秀吉の姉・日秀尼(にっしゅうに)が子の秀次の菩提を弔うために建立した寺の過去帳に、日秀尼と秀吉の父の戒名が「妙雲院殿栄本(みょううんいんでんえいほん) 秀吉公父」と記載されていることのみは、信憑性が高いと考えられている。
■知られたくない黒歴史
過去帳によると、栄本の没年は「天文十二年」。『太閤素性記』にある「秀吉8歳のときに父が死去した」の記載と一致する。
妙雲院殿栄本が秀吉の実父である可能性は高い。
ただし問題は、栄本が木下弥右衛門を指すのか、筑阿弥なのか、あるいは弥右衛門と筑阿弥が同一人物だったかは不明な点にある。
平成8年の大河『秀吉』に登場した筑阿弥(ドラマ上の名は竹阿弥)は弥右衛門とは別人物の継父であり、秀吉と不仲で、何かにつけて口論していた。この不仲説は『太閤素性記』に、「(秀吉は)筑阿弥継父と不合」と記されていることを受けた設定だろう。
一方、歴史家の小和田哲男は日秀尼と秀吉・秀長は同父だったとの見解を示しており(『豊臣秀吉』中公新書)、『豊臣兄弟!』の時代考証を担当する柴裕之も同じ説で、「(弥右衛門と筑阿弥が)同一人物の可能性は強く感じる」と述べている(『秀吉と秀長 「豊臣兄弟」の天下統一』NHK出版新書)。
秀吉と秀長の父親が同じなのか異なるのか真相はいまだに不明だが、どちらにせよ秀吉の父は一時、足軽大将などを務めたものの、戦場で負傷したか病を得たかして帰農。だが、息子たちが幼年のうちに死去したため、大黒柱を失った家は困窮を極めた――というのが実情に近いのではなかろうか。
そして、それは秀吉にとって知られたくない黒歴史であり、生涯、そのコンプレックスに苛まれたと想像できるのである。
■江戸時代に創作されたエピソード
豊臣の伝説は江戸後期の寛政9(1797)年に、新たな展開を迎える。『絵本太閤記』の刊行だ。それまでの史書とは異なり、挿絵をふんだんに使った物語性の豊かな「絵本」だった。
信長の草履を懐に入れて温めるやら、墨俣(すのまた)の一夜城やらの伝説が初登場し、大衆はその面白さに飛びついた。
今も草履と一夜城のエピソードを史実と信じる人が少なくないようだが、すべて18世紀末に流布した創作である。
それらが広まる過程で、本年の大河『豊臣兄弟!』の主人公・秀長も知名度を増していったと考えられる。
秀長は天文9(1540)年3月2日誕生。秀吉の3歳年下だ。幼名は一般的に「小一郎」が知られるが、『太閤素性記』は父の筑阿弥の「筑」にちなんで秀吉・秀長ともに「小竹(こちく)」と呼ばれていたとあるだけで、かつ秀長の「小竹はあだ名に過ぎない」と注釈を入れている。つまり本当の幼名は不明。
『甫庵太閤記』にも登場するが、のちに秀吉によって処刑される甥の秀次同様、「いずれかひとり御用に立給(たちたま)ひつる」――複数いる身内のうちの役に立つ程度の1人――と、にべもない。
書状に初めて名が出るのは天正元(1573)年、「木下小一郎長秀」(ここでは長秀)の署名が見られる。天正元年は、秀吉が近江国(滋賀県)長浜城の城主となった年だ。浅井長政・朝倉義景を滅ぼした信長が彼らの旧領を秀吉に与えたその年、小一郎は歴史の表舞台に顔を出す。
■藤堂高虎の伝記に登場する秀長像
現在、私たちが秀長に持つイメージは、家を出て行った兄が突然舞い戻り、「織田信長様に仕官したから部下となって自分を支えてほしい」と頼まれ、渋々承知して次第に右腕として頭角を現すというもの。決して悪い印象ではない。

といっても、これもたぶんにドラマや小説の産物である。
まったく根拠がないわけでもない。秀長に仕えた藤堂高虎の伝記として編纂された『聿脩録』(いしゅうろく)に次のように一文が見え、こうした史料が秀長の人物像の鍵となっているようだ。
「秀長は温厚であり、よく太閤を助け偉業をなさしめた。それゆえ諸大名は秀長に太閤への取りなし(仲介)を頼み、その恩恵に浴した。もし秀長がもっと寿命を有していたら、豊臣家の天下を永続せしめたことが、あるいはできたかもしれぬ」
秀長が長生きしていたら文禄・慶長の役(天正20/1592年~慶長3/1598年)を抑制でき、また秀次粛清といった暴挙も歯止めが効いたかもしれないといわれるのは、こうした記録がある所以である。
もちろん歴史に"if"はないが、秀吉・秀頼のわずか2代で滅亡した天下人・豊臣の一族にあって異彩を放つ男、それが秀長といって良いだろう。2026年大河ドラマ『豊臣兄弟!』では、どんな人物として描かれるのか――秀吉・秀長2人の出自も含め、期待は尽きない。
参考文献
  • ・和田裕弘『豊臣秀長「天下人の賢弟」の実像』和田裕弘(中公新書、2025年)
  • ・黒田基樹『羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで』(角川選書、2025年)
  • ・小和田哲男『豊臣秀吉』(中公新書、1985年)
  • ・柴裕之『秀吉と秀長 「豊臣兄弟」の天下統一』NHK出版新書、2025年)
  • ・呉座勇一『真説 豊臣兄弟とその一族』(幻冬舎新書、2025年)
  • ・河内将芳編、日本史史料研究会監修『秀吉と豊臣一族研究の最前線 第一章「秀吉の出自はどういわれてきたのか 竹内洪介』(山川出版社、2025年)

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小林 明(こばやし・あきら)

歴史ライター 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。歴史ライターとしてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また
『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(歴史ライター 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)
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