■大阪・関西万博は「成功した国民的イベント」だったのか
2025年4~10月の大阪・関西万博は総来場者数2900万人、日本国際博覧会協会は230~280億円の黒字という結果を残した。ビデオリサーチ社による来場経験者の満足度調査では関東の71.9%、関西の84.4%と大半が「満足できた/やや満足できた」で回答、「満足できなかった/あまり満足できなかった」がそれぞれ14.4%、7.1%という結果からもおおむね来場者の期待値以上の内容になっていたとはいえるだろう。
「満足度が高いパビリオン」のトップにはGUNDAM NEXT FUTURE PAVILIONが選ばれた。モビルスーツが未来で平和利用された舞台で、軌道エレベーターで宇宙へ行くパビリオン体験は、そのままUSJなどで展開されても遜色ないほどによい出来だった。
null²は“いままでにないもの”という万博の象徴的な建物となり、石黒浩氏のロボットがみせる「いのちの未来」も河森正治氏がVRで見せた「いのちめぐる冒険」も印象的であった。
始まる前にあれほど不評・ゴシップが巻き起こっていたイベント、その背景には「待たない万博」「並ばない万博」など当初コンセプトとはあまりに食い違いがあり、チケットシステムの不備から帰宅困難者を出すような致命的な鉄道運休などがあった。
そうした頻発する文句や不平を“なまあたたかく”みていた国民が、夏を越えたあたりから「一度は見なければ」とどんどん殺到するようになり、9~10月の終盤戦はずっと満杯に近い状態であった。結果的には「成功した国民的イベント」として無事184日間の運営を終えた。
■1970年の万博は「人類史上最大の国際行事」
では関西万博は本当に“国民的イベント”だったのだろうか。2900万人とはいっても一般客が平均来場回数2.3回、驚くべきことに近隣で通期パスを購入していた関西在住者の40万人は平均来場が11.8回。
この数字で通算すると、実質的なユニーク来場者数は1100万人。外国人比率5%を除くと国民の8.4%、12人に1人が参加したイベント、ということになる。
こうした結果をみて、大阪万博は「成功だった」と言いきれるのだろうか。近年あったオリンピックやワールドカップなどの“国民的イベント”と比較すれば、もちろん十分な結果を残したものではある。しかし、1970年の大阪万博と比べてみると今回の2倍以上となる6421万人の来場者数だった点はやはり比べ物にならなかった。
1970年版は330haの会場に毎日35万人、ピーク時には83万人が集まった。ちなみに2025年版は155haの会場で毎日16万人、ピークで24.8万人だった。
アプリもないQRコードもない時代に、1億人の国民の(延べ数でいえば)6割が訪れたといえる人の出入りに、当時は「民族大移動」とすら形容されていた。何より、大阪万博は約100年続いた万博史においても圧倒的な結果を残した、「人類史上最大の国際行事」だったのだ。
■ミャクミャクは紅白に出場したが
「岡本太郎記念館」2代目館長で空間プロデューサーの平野暁臣氏は、当時の様子を『』(小学館クリエイティブビジュアル)で回顧している。
「会場にはSFアニメから抜け出たような未来的なフォルムのパビリオンが立ち並び、テレビでしか見たことのない“動く外国人”がウヨウヨ歩いていました……パビリオンに入ると、宇宙船やロボットのような『驚くべきモノ』や、飛行操縦やドーム映像などの『驚くべき体験』が待っていました……60年を生きてきて、あのときを超える感動はいまだ経験がない」
かかっていた金額も桁違いだった。
1889年のパリ万博でのエッフェル塔も有名だが、こうした国際行事で残されたものがそのまま都市のシンボルとなるような、国家的事業でもあったわけだ。一方で、灼熱の炎天下で人々の救済機能も担っていた、今回の万博での象徴的な大屋根リングはすでに撤去・解体が始まっている。
閉幕から2カ月たち、大阪・関西万博の熱は公式キャラクターのミャクミャクがNHK紅白歌合戦に出場したぐらいで、落ち着いたように見える。それにくらべると1970年の大阪万博の熱狂はすさまじかった。なぜ、あれほどの熱狂を生み出しえたのだろうか。
■最初の万博はほぼ物産展
万博の歴史は1851年のロンドンから始まる。水晶宮(クリスタル・パレス)という鉄骨とガラスで建てられた長さ563m、幅124mの巨大なプレハブ建築物が工業化社会の先端的事例となり、世界陸地面積の4分の1、世界人口の6分の1を支配していた大英帝国の覇権国家としての威信を表す象徴的な第1回万博であった。
ただ当時万博を主催していたのは美術協会という民間の団体で、国家の後ろ盾はあれど国費は使われず、あくまで民間主体で物産展のようなものだった。民営となるとその発足や運営形式もカオスそのもの。1851年からの50年間で、欧州中で開催された“万国博覧会”は実に156回。
ここから半世紀、英国主導の万博が続く。展示スペースの半分近くをイギリス1カ国が占め、続くはフランス、オランダなどの欧州諸国で、アメリカですらその一端を担うに過ぎなかった。
この時代の万博の役割は『驚くべきモノ』の力で未来を魅せることだった。新聞印刷(1851ロンドン)、タイプライター(1876フィラデルフィア)、白熱灯(1889パリ)、世界最大の観覧車(1893シカゴ)、歩く歩道(1900パリ)、電話(1915サンフランシスコ)などなど最新鋭の技術とモノの力で牽引された万博は、この当時「テーマ」のようなものも必要としていなかった。
■パリ万博で一番人気だった日本の出し物
工業化のなかで日々の生活リズムが劇的に変わり、生活スタイルも多忙でむしろ困窮していく人々にも「進歩していくこと」に強い動機づけを生み出す重要な役割を担わされた。
明治維新直後の日本は、1867年のパリ万博が日本の初参加となる。だが徳川幕府のみならず、同時に薩摩藩も佐賀藩も個別で出展していたところから、当時まだ「日本」という統一した国家の存在は希薄だった。
一番人気は浅草の商人清水卯三郎が“個人出展”していた「茶屋と3人の芸者」だった。柳橋芸者が煙管をふかしたり、コマで遊んでいるだけなのに、和服姿の芸者がパリ市民をくぎ付けにしたのだ。当時の日本は「遅れている国が、あえて遅れている姿でアピールする」立ち位置にすぎなかった。
だが逆にそれがジャポニズムに火をつけたともいえる。
■ウォルト・ディズニーの本気
1901~1914年の間にも万博は36回も開かれた。最後の植民地時代でもあり、世界中から欧州各国が珍品を集めて並べることにやっきになっていた万博に、開催頻度を管理しようと生まれたのが1928年の国際博覧会条約だった。
これ以降が数年に1回、国別に管理され、現在に近い万博形式になっている。万博が最新のモノを提示する機能から、むしろ各国家単位で財を投じて空間体験やメッセージを伝えていくコンセプト中心になったのが1930年代ごろからの変化だった。
コンセプト中心の時代に、万博を推進するのはイギリスからアメリカに変わる。GM館がみせた高速道路が縦横貫く「未来都市Futurama」(1939ニューヨーク)、「科学文明とヒューマニズム」(1958ブリュッセル)などテーマが掲げられるようになり、万博は未来都市の空間設計を魅せるものになっていく。
特に象徴的だったのは1964年ニューヨーク万博だろう。映画にテーマパークにと戦後アメリカ経済の繁栄を象徴していたディズニー社はここで4つものパビリオンを手掛ける。自動制御ロボットによるオーディオ・アニマトロニクスやその後ディズニーランドにも導入されるペプシ館の「It’s a small world」など。ウォルト・ディズニーの晩年の大仕事だった。
■「太陽の塔」はピークだった
『アストロボーイ(鉄腕アトム)』がNBC放送された経緯で渡米していた手塚治虫が唯一ウォルトと会って話せたのが(およそ1分程度)、このニューヨーク万博での出来事でもあった。
そもそも1955年アナハイムにできたディズニーランド自体がこの「万博」のアメリカ版デフォルメとも言われている。「テーマ性」「非日常化」「消費型文化」「グローバル化」など100年かけて万博が作ってきたコンセプトを、今度は常設型のテーマパークがディズニーによって生み出されていく。
平野暁臣氏は、万博史を前述の書籍で下記のようにまとめている。
「大衆の欲望を掻き立てながら巨大化し、史上最強のメディアとして19世紀世界に君臨した【万博1.0】」、1900年にパリ万博で5000万人があつめられたときが第一のピークであり、それは第一次世界大戦などを機に収束していく。それがむしろ国営の万博としてナショナリズムにも利用され、主戦場も欧州からアメリカに移る中で「空間体験をとおしてヴィジョン=物語を語るメディアとしての【万博2.0】」である、と。
実はこの万博2.0の時代、1970年の大阪万博がピークだったのだ。1970年の大阪万博から実に22年間、万博は一度も開かれていない。
■万博は「もはや絶滅危惧種」
オイルショックなどで環境破壊が問題視され、エコロジー重視型の世論のなかで1988年に国際博覧会条約が再度改正。それにより、よりミニマムな展示で開催頻度の抑制と開催経費の削減が志向されるようになる。
1989年パリ、1992年シカゴ、1995年ウィーン&ブダペストなど決まっていた万博は次々とキャンセルされ、1992年になんとか開催されたセビリアの際には「もはや絶滅危惧種」とコメントされるような状況。もはやテレビとオリンピックとワールドカップが全盛期といえるこの時代に、各国の万博への興味は失われていく。
それを主導する立場でもあったアメリカは、冷戦対立が緩和に向かう中でむしろ退潮傾向、2001年にBIE(博覧会国際事務局)を脱退することになる。
万博3.0の時代は、実はいまだに始まっていないのだ。
2010年上海万博は勃興する中国を象徴する7308万人という大規模な集客となったが「より良い都市、より良い生活」というあまりに教条的なテーマは万博全体の低迷トレンドを覆すものにはならなかった。
2025年関西万博は2900万人とこの低迷していた冷戦後の万博時代においては決して悪い結果ではなかった。だが、「万博の役割」自体がすでに半世紀前に一区切りついて以来、いまだに国際的なコンセンサスが得られていない、ということが根本にある。
■1970年以来、達成していないこと
関西万博は日本がインバウンド大国となり、訪日観光客を年4000万人から6000万人にステージアップする契機にはなった。2029年予定のIR建設への呼び水にもなり、大阪にとっても日本にとってもよい結果であったとはいえるだろう。
しかしイベントというものはどこかアート性を帯びる。この時代、この国で、誰の記憶にも残るようなものを打ち立てることが、そのイベントのコンテクストや意味づけ自体を変えることにもなる。
それが1851年のロンドン万博、1900年のパリ万博、1964年のニューヨーク万博や1970年の大阪万博だった。2025年大阪・関西万博はもとより、人数は過去最高だった2010年上海万博ですら、それは達成しえていない。
建物だけではなく人材を傑出させる機能ももちろんある。1970年版では岡本太郎(当時59歳)があえて科学の未来にアンチテーゼとして縄文色のあった「太陽の塔」でアートとしての強いメッセージを発信した。
丹下健三(当時56歳)や田中千代(当時63歳)などのベテラン勢も擁してはいたが、堺屋太一(当時34歳)が企画を推進し、森英恵(当時44歳)もコシノジュンコ(当時30歳)も横尾忠則(当時33歳)も、当時若くして抜擢されたクリエイターはまさに1970~80年代に中心を担う才能として傑出していった。
■万博の未来が明るいとはいえない
抜擢された若手を傑出させたという意味でも凄かった。横尾忠則の「せんい館」は当時東洋紡社長だった谷口豊三郎が「あなたの芸術論はまったく理解できないが、情熱だけはよくわかった。やりたいようにやってくれ」と全権を委任する。まさにこうした「次の世代に賭ける」という点では、今回の落合陽一氏のように30代を抜擢するようなものだったのではないかと思う。
大局的に見れば、万博もオリンピックもワールドカップも、各国が先を競って巨額の費用をかけて「未来」を見せ、国民を盛り上げていくという国際的イベントそのものが退潮傾向にある。
コロナで全世界が停止する異常事態を経験し、世界が求めているのは単イベントとしての成功・失敗よりも、この大きな「意味づけの変化」に新たなメッセージやヴィジョンを伝えていくことだ。
19世紀の「工業化・近代化」、20世紀の「国威掲揚と未来への動機付け」というように、時代が求める空気と合致するものを生み出さない限りは、今後も決して万博の未来が明るいとはいえないだろう。
喧騒が終わって落ち着き、関西万博と万博史を俯瞰しながら、2026年はそれを考えるタイミングといえるかもしれない。
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中山 淳雄(なかやま・あつお)
エンタメ社会学者、Re entertainment社長
1980年栃木県生まれ。東京大学大学院修了(社会学専攻)。カナダのMcGill大学MBA修了。リクルートスタッフィング、DeNA、デロイトトーマツコンサルティングを経て、バンダイナムコスタジオでカナダ、マレーシアにてゲーム開発会社・アート会社を新規設立。2016年からブシロードインターナショナル社長としてシンガポールに駐在。2021年7月にエンタメの経済圏創出と再現性を追求する株式会社Re entertainmentを設立し、大学での研究と経営コンサルティングを行っている。著書に『エンタの巨匠』『推しエコノミー』『オタク経済圏創世記』(すべて日経BP)など。
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(エンタメ社会学者、Re entertainment社長 中山 淳雄)

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