大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)ではベテラン女優の坂井真紀が秀吉(池松壮亮)兄弟の母親を熱演している。秀吉についての著作がある作家の濱田浩一郎さんは「秀吉の母は夫に早く死なれたが、4人の子を育て上げたたくましい女性だった」という――。

■秀吉・秀長兄弟の母親の名は?
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)は天下人となる豊臣秀吉を傍らで支え続けた弟・秀長を主人公にしたドラマです。主人公・秀長を演じるのは仲野太賀さん、兄の秀吉を演じるのは池松壮亮さんです。
そして「豊臣兄弟」の母である「なか」(のちの大政所)を演じるのは、坂井真紀さんとなります。秀吉や徳川家康を主人公にしたドラマでは必ずといって良いほど、なかが登場しますが、その中でも筆者の印象に残っているのが、1996年に放送された大河ドラマ『秀吉』に登場したなかです。同ドラマでなかを演じたのは『家政婦は見た!』シリーズでもお馴染みの市原悦子さん。大河「秀吉」に登場したなかは、尾張訛(なま)りでしゃべり、秀吉のことを深く想う良き母親として描かれていました。「豊臣兄弟」でのなかがどのようなキャラクターとして活動していくのか楽しみです。
■大政所も正式な名前ではない
さて「豊臣兄弟」の母はなか(仲)として一般に知られていますが、実は彼女の名前(実名)は分かっていません。江戸時代初期の儒学者・小瀬甫庵が書いた『太閤記』(秀吉の伝記)や、旗本の土屋知貞(江戸時代前期の人物)がまとめた秀吉の聞書集『太閤素生記』にも、なかという名前は確認できません。なか(仲)という名は江戸時代後期の寛政9年(1797)に初編が刊行された『絵本太閤記』に登場するとされますが、しかし同書は多くの挿絵が載せられた小説であって、その内容をそのまま信じる訳にはいきません。
よって、なかという名前を本来ならば使用するべきではないのですが、便宜上、これまで記載してきました。大政所というのも当然、彼女の名前ではありません。
大政所とは摂政・関白の母を言う尊敬語であって、天正13年(1585)に秀吉が関白に任官したことから、秀吉の母は「大政所」と称されたのです。
さて秀吉の母を語る上で欠かせない史料が先ほど紹介した『太閤素生記』とされます。同書には誤りも含まれているものの、秀吉の家族のことを伝える「基本史料」と言われているのです。なぜか。『太閤素生記』をまとめた知貞の養母は、尾張国愛知郡中々村(愛知県名古屋市中村区)の代官・稲熊助右衛門の娘でした。尾張国中村は秀吉の生まれ故郷です。知貞の養母は秀吉と年齢が近かったので、秀吉の家族の話を知貞に聞かせたのでした。
■信長の父の足軽と結婚した大政所
では同書には秀吉やその母についてどのようなことが載っているのでしょう。まず、秀吉の母については尾張国御器所村(名古屋市昭和区)で生まれたと書かれています。彼女が嫁いだのが同国中々村の人である木下弥右衛門でした。
同書によれば、弥右衛門は織田信秀(信長の父)に仕えた鉄砲足軽であり、あちこちに従軍し働きがあったようです。しかし鉄砲伝来は一般的に天文12年(1543)のこととされており、弥右衛門が活動していた天文年間の初頭(天文元年は1532年)には鉄砲が頻繁に使われていたとは考えにくいです。
よってこれは何らかの勘違いを記したものと思われます。
■秀吉たちを出産後、夫に死なれる
さて弥右衛門のもとに嫁した後、彼女は瑞龍院(秀吉の姉・とも、大河ドラマでは宮澤エマが演じる)と秀吉を産みました。夫・弥右衛門は織田信秀に仕え戦に出ていた時、負傷。それ以降は合戦に参加することなく、故郷で百姓をしていました。ところが秀吉が8歳の時、弥右衛門は亡くなってしまいます。秀吉の母は未亡人となったのです。それは天文12年(1543)頃のことでした。
『太閤素生記』には、その後、秀吉母は竹阿弥という男性と再婚したとあります。竹阿弥もまた織田信秀に同朋衆(大名に近侍して雑事や諸芸能を司る僧形の者)として仕えていたとのこと。だが、病によってこれまた故郷である中々村に引っ込んでいたのでした。そうした頃に竹阿弥と秀吉母は結ばれたようです。秀吉母は竹阿弥との間にも2人の子を儲(もう)けました。
『太閤素生記』によれば、それが秀長であり、後に徳川家康の継室となる旭姫だったのです。
つまり同書によると、秀吉と秀長は異父兄弟だという事になります。しかしこの説(秀吉・秀長異父兄弟説)は疑わしいと筆者は考えています。秀長の生年が天文9年(1540)だからです。先程、見たように木下弥右衛門の死は天文12年(1543)頃。まだ弥右衛門が生きている時に秀吉母が竹阿弥との間に子(秀長ら)を儲けることはないでしょう。この事から筆者は秀吉と秀長はその父母は同じと考えているのです。
■天下人になった秀吉の誕生秘話
さて『太閤素生記』には日輪(にちりん)(太陽)が秀吉母の懐中に入った夢を見て秀吉を妊娠・出産したことから秀吉の幼名が「日吉丸」であるとの説が紹介されています。また秀長は竹阿弥の子ということで幼い頃に「小竹」と呼ばれていたと記述されています。
日輪が秀吉母の懐中に入った夢を見て秀吉を妊娠・出産したと言うのは「日輪受胎説」と現代で呼ばれていますが、これは天下統一を果たした秀吉が流布させたものでした。秀吉は貧しい百姓の子として生まれたということもあり、天下に号令するには自分の存在を大きく見せる必要がありました。「日輪受胎説」はそのために創作されたのです。

■天皇の子孫だというトンデモ説
秀吉は関白に任官した後は「皇胤(こういん)説」を創作させました。秀吉に御伽衆(おとぎしゅう)として仕えた大村由己は、秀吉の意向に即して『関白任官記』(秀吉の関白就任の正当性を主張する書物)を執筆しますが、そこには次のような記述があるのです。
まず、秀吉の祖父母は朝廷に仕えていた。萩中納言と言った。ところが秀吉の祖父母は、大政所が3歳の時にある人の讒言(ざんげん)(間違った密告)により遠流となり、尾張国飛保村雲にて日々を過ごすことになった。
その後、大政所は幼年の頃に上洛。2、3年を宮中で仕えて過ごす。そしてまた尾張国に戻った。その後に大政所は1人の子を産む。これが今の殿下(秀吉)である。秀でた才能を持つ人物に成長したのは秀吉が「王氏」(天皇の血をひく皇胤)であるからに違いない。
これが『関白任官記』が主張するところの「皇胤説」です。

もちろん、この話はにわかに信じがたく、荒唐無稽なものとされています。秀吉に「軍師」として仕えたことで有名な竹中半兵衛重治の息子に重門がいますが、重門の著作に『豊鑑』(秀吉の伝記)があります。同書は寛永8年(1631)に成立したものですが、その中にも秀吉の出自にまつわる一文があります。
それは秀吉は「尾張国に生まれ、あやしの民の子にてありしが」「郷のあやしの民の子なれば、父母の名もたれかは知らむ、一族などもしかなり」というものです。「あやし」の語に「賤」の字を当て、秀吉は卑賤の出自であったとする見解もあれば、「怪し」の文字を当て「得体が知れない」(卑賤を意味する)とする読みもあります。
■貧しい身分だったことは確実
いずれにしても秀吉が卑賤の出自であることを示すものですが、父母の名も誰か分からないと書かれていることもそれを裏付けるものでしょう。実際、先述したように秀吉母の実名は不明です。また父の弥右衛門にしても「木下」という名字を名乗っていた訳ではありませんでした。「木下」という名字を名乗ったのは秀吉であり、それは永禄4年(1561)に寧(ねね)と結婚した時でした。寧の母が木下家の出身であったので、その名字をもらったのです。
辞典などではよく秀吉を「木下弥右衛門」と書いてあるものもありますが、厳密に言えばそれは誤りなのです。秀吉と秀長の父母については詳しいことは分かりませんが、貧しい階層の出身だったことは確かだと思われます。
大政所にしても3回以上の結婚歴があったとも言われており、それもまた夫を失ったことや生活苦が要因だと考えられます。しかしそうした中にあっても4人の子供たち(とも、秀吉、秀長、旭)を育て上げた大政所はたくましい女性だったと想像できます。
この4人以外にも大政所に複数の子供がいたと言う説もあり(フロイス『日本史』)、大政所の波乱万丈の前半生がそうした説からは浮かび上がってきます。
■秀吉が54歳になっても心配した
天正18年(1590)、秀吉は小田原の北条氏を征伐するため関東に遠征、小田原城を包囲することになりますが、同年の5月1日に大政所に宛てて手紙を書いています(大政所からの手紙の返信になります)。
そこには「我が身の事。御案じなされまじく候」となるので、大政所は54歳にして遠征している我が子・秀吉の身を案じていたのでしょう。しかし秀吉はそんな母に心配する必要はないと書くのです。「一段と息災」で食事も進んでいると秀吉は息災ぶりをアピール。その上で秀吉は老母に対し「貴方は御遊山(ごゆうざん)でもして心を慰めて若返ってください。お願いします」と労りの言葉をかけています。
この手紙からは母を想う優しい秀吉の姿が垣間見えます。秀吉は他人に対し峻厳な態度を取ることも多い人物ですが、母や弟といった身近な親族、若い頃から苦楽を共にしたであろう親族に対しては思いやりの心を見せています。ちなみに前述の母宛ての書状には「大納言息災のよし、何より何より御うれしく候」と病のため小田原征伐に参陣できなかった弟・秀長の病が一時回復したことを喜ぶ文言も記されているのです。

参考文献

・桑田忠親『桑田忠親著作集 第5巻 豊臣秀吉』(秋田書店)

・服部英雄『河原ノ者・非人・秀吉』(山川出版社)

・藤田達生『秀吉神話をくつがえす』(講談社)

・渡邊大門『秀吉の出自と出世伝説』(洋泉社)

・福田千鶴『豊臣家の女たち』(岩波新書)

・濱田浩一郎『秀吉と秀長 天下統一の軌跡』(内外出版社)

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濱田 浩一郎(はまだ・こういちろう)

歴史研究者

1983年生まれ、兵庫県相生市出身。歴史学者、作家、評論家。姫路日ノ本短期大学・姫路獨協大学講師・大阪観光大学観光学研究所客員研究員を経て、現在は武蔵野学院大学日本総合研究所スペシャルアカデミックフェロー、日本文藝家協会会員。歴史研究機構代表取締役。著書に『播磨赤松一族』(新人物往来社)、『超口語訳 方丈記』(彩図社文庫)、『日本人はこうして戦争をしてきた』(青林堂)、『昔とはここまで違う!歴史教科書の新常識』(彩図社)など。近著は『北条義時 鎌倉幕府を乗っ取った武将の真実』(星海社新書)。

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(歴史研究者 濱田 浩一郎)

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