大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で注目される豊臣秀吉(池松壮亮)と秀長(仲野太賀)の家系。系図研究者の菊地浩之さんは「秀吉と秀長の直系は途絶えたが、その姉の閨閥が公家につながり、現在の皇室にもつながっている」という――。

■豊臣兄弟は子孫を残せなかった
2026年の大河ドラマ「豊臣兄弟!」がスタートした。この時期になると、主人公の末裔を取材する記事が散見される。
結果から言ってしまうと“豊臣兄弟”の直系の子孫はいない。兄・豊臣秀吉は、子の豊臣秀頼が大坂夏の陣で自刃し、その子の国松は処刑された。国松の姉妹は尼となり、血筋は絶えた。
一方、弟・豊臣秀長には一男二女がいたが、長男は早世し、二人の娘には子がいなかった。
だから、豊臣家の子孫という場合には、①秀吉の正室・寧(高台院)の実家である木下家、②秀吉の甥・豊臣秀勝(小吉)の娘の子、孫を豊臣一族の末裔とするテレビなどの企画が多い。さらに、③秀頼、もしくはその子・国松が実は生きており、九州に逃亡したという説もある。
■正室・寧の実家である木下家
のちの高台院・寧の実父は杉原助左衛門(すけざえもん)(定利)といい、寧には異母兄が一人いる。
その異母兄・木下家定は秀吉から木下を与えられた(一説には、杉原家が過去に木下を名乗っていたからという説があるが、系図を見る限り、そうした形跡はなく、秀吉が杉原家から木下を拝借したのではなく、秀吉が杉原家へ木下を与えたと考えた方が妥当だろう)。
■寧の兄の五男は関ヶ原で裏切った
家定の子では五男・小早川秀秋(こばやかわひであき)(1582?~1602)が関ヶ原の合戦で西軍を裏切り、大勝利への道筋をつくったことで有名である。この秀秋にくらべ、実兄たちは関ヶ原の合戦で曖昧な態度を見せ、改易(寸前のところ?)までいった。
しかし、長兄・次兄は叔母・寧の取りなしで、三兄は義兄・細川忠興の取りなしで大名に復帰できた。持つべきものはいい親戚である。
その結果、家定の次男・木下利房(1573~1637)の子孫が備中足守(びっちゅうあしもり)藩(岡山市北区)2万5000石の大名、三男・木下延俊(1577~1642)の子孫が豊後日出(ぶんごひじ)(大分県速見郡日出町)藩3万石の大名となり、明治維新後はともに子爵に列した。長男・木下勝俊(1569~1649)の家系は嗣子がなく断絶した。
■明治維新後は子爵になったが…
利房の子孫・木下利玄(1886~1925)は子爵家を継ぐ傍ら、俳号「りげん」を称する著名な歌人であったが、嫡男・木下利福(1922-1974)に男子がなく、足守藩木下家は途絶えた。
そこで、延俊の子孫が豊臣家の末裔を語っている。18代目の木下俊凞(としひろ)(1898~1986)は戦前に陸軍特務機関に所属し、右翼・ヤクザと交流があった自称「ヤクザ殿様」。戦後はパチンコ店を経営。そのキャラクターも相まって、多くの雑誌で取り上げられた。19代・木下崇俊(1934~2022)には娘二人で男子がなく、養子を迎えたいと語っていたが、その後の動向がつかめていない。大河ドラマに関連するテレビ企画などで明らかになるかも知れない。
■秀吉の甥・秀勝の娘の子孫
木下家は秀吉とゆかりはあるが、実際には妻の実家で、血は繋がっていない。
血が繋がっている唯一の事例が公家であり藤原氏摂関家の九条家だ。
秀吉の甥(姉の息子)・豊臣秀勝(小吉)の娘、完子(さだこ)は慶長9(1604)年に五摂家の九条幸家(ゆきいえ)に嫁いだ。伯母にあたる淀殿が縁談を進めたのだという。慶長9年といえば、その前年に徳川家康が征夷大将軍に任じられた年である。完子の縁談は、豊臣秀頼の関白就任を企図した布石だといわれている。
■愛子さまにも秀吉の姉の血筋が
江戸時代に入り、九条幸家が関白に就任。完子は、寧と同じ「北政所」(関白の正室)になった。完子は四男三女を産み、長男の康道は二条家、次男の道房は九条家を継いだ(長男が二条家を継いでいるのは、幸家の父が二条家からの養子だからだろう)。そして、その子孫が今なお続いており、五摂家の内、九条・二条・鷹司家の現当主となっている。
昭和天皇の母親(貞明皇后)は九条家の出身なので、現在の天皇家もその子孫ということになる。ということは、現在の上皇も、今上天皇も、その長女である愛子さまも秀吉の血筋に当たるのだ。
■秀頼の息子が九州に逃亡した説
なお、延俊の四男・木下延由(のぶよし)(1609~1658)は豊臣秀頼の遺児・国松だという異説がある。

あるテレビ番組では、延由の位牌に「豊臣」姓が刻まれていることから、秀頼の遺児である証拠と示唆する場面があったが、木下家は江戸時代も豊臣姓を名乗っており、不思議なことではない。秀吉は有力大名らに豊臣姓を与え、羽柴という苗字を名乗らせた。江戸時代になると、ほぼすべての大名が復姓して豊臣姓を名乗らなくなったが、木下家は豊臣姓を使い続けた。
江戸幕府が編纂した系図集『寛政重修諸家譜』でも源姓松平氏、平姓織田氏……という並びに、豊臣姓木下氏が掲げられている。そのためもあって、先述の木下俊凞は「豊臣の子孫として、木下姓を以って存続している」と主張しているのである。
■昭和に出版された本の主張とは…
その木下俊凞は、1968年に『秀頼は薩摩で生きていた』という書籍を出版している。
同書によれば、俊凞は祖母から一子相伝の秘事を伝えられた。
「相伝の伝えるところによれば、(秀頼の子)国松は真田大助(幸村の子)と共に、四国路をのがれて薩摩(鹿児島県)に至り、伊集院兼貞にかくまわれていた。(中略)伊集院地域に、国松の噂が流漏する事をおそれて、当時の日出藩に来たり藩の東南端の海岸、深江の里より日出城に入城、寄偶している。日出藩初代(木下延俊)はこれを、二代の弟として優遇し、同藩内に五千石を分知して立石藩を起こし羽柴姓を与えたのである」(木下俊凞『秀頼は薩摩で生きていた』、引用にあたり旧仮名遣いを改めた。以下も同じ)。
木下延俊は延由に1万石を与えよと遺言したが、家老・長沢市之丞は3万石の小藩で1万石を分知するのは無謀だと考え、「5000石承り申した」とガンバリ通して分知を5000石に抑えた。
市之丞は主命に背いたことを恥じて切腹して果てたという。
結局、延由は寛永19(1642)年に父の遺領のうち5000石を分知されて旗本寄合となり、将軍・家光にも拝謁している。本当に延由が秀頼の遺児で、それを隠し通そうとするならば、わざわざ敵陣・江戸に赴いて、そんな危険を冒す必要はない。高禄の家臣として、国元に置いておくべきだろう。
■秀頼も生き延び、九州に逃亡?
『秀頼は薩摩で生きていた』によれば、さらに「大坂夏の陣で自刃したはずの豊臣秀頼が九州に落ち延びて島津藩に逃げていた」という。
九州に逃げ落ちたのは国松だけでなく、父・秀頼も一緒だったというのだ。
そして、鹿児島にもほぼ同じ伝承があったと紹介している。すなわち、「秀吉築城の大坂城には斥候(スパイ)などが使用するための秘密の貫道があった。落城前に毛利輝元はひそかに兵を遣わし、智将・毛利勝長は秀頼父子と近臣を救出。京都まで潜行させ、京都の川口より、島津の軍船に乗せて薩摩に落ち延びさせた。秀頼随行の家臣には有名な木村重成、後藤基綱、真田幸綱、大谷吉実、明石全登、伊木達雄等の若武者がいた。
島津領にはいった秀頼主従は、谷村の山野に一時落ち着いたが、その後島津藩主のはからいで、鶏(谿(たに)の誤字)山郡福元村に居住した」という。

「現在の鹿児島県谷山市(鹿児島市に合併)は昔の名を谷村といった。鶏(谿の誤字)山郡の山と谷村の谷をくっつけて現在の谷山市と替えたのである。(中略)谷山市の国鉄(JR)駅谷山から南方約1㎞半くらいのところに木下郷(もん)という部落があったらしい。(中略)夏の陣の戦いが終えてから、この谷村に約二百人以上の集団移住があった。(中略)秀頼を一介の浪人として宗蓮と号し家来数人を伴わせて谷村に安着させ、木下郷といわれる村落を起こさせたと見るべきである」

(木下俊凞『秀頼は薩摩で生きていた』)
■もともと木下という村落があったか
秀頼一行が逃げ落ちたから木下郷と呼ばれるようになった――というストーリーなのだが、実際は逆なんじゃないかと思う。つまり、木下郷という名前が先にあり、「木下一族が来たから木下郷なんじゃないの?」という話が妄想され、それに尾ひれ背びれがついて秀頼伝説が生まれたんじゃないかなと。
そこで、木下郷の名のいわれが大坂夏の陣より先なのか後なのか、地名辞典で調べてみた――のだが、地名辞典の双璧、平凡社の『日本歴史地名大系』、KADOKAWAの『角川日本地名大辞典』では鹿児島県に木下という地名が見当たらなかった。
まぁ、仮にあったとしても、そもそも島津家が秀頼を匿う理由が見当たらない。同じ九州ならば、肥後熊本の加藤家(清正の子)に身を寄せるべきなんじゃないかと思うのだ。
そもそも秀頼が「本当に秀吉の実子なのか」論争があるのだが、こればっかりはわからない。

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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)

経営史学者・系図研究者

1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。
勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。

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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)
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