■心配なのは娘からの仕送りの行方
NHKの連続テレビ小説「ばけばけ」は、年明け最初の第14週(1月5日~9日放送)から後半に入った。ヒロインの松野トキ(髙石あかり)は、昨年の最後の回でようやくレフカダ・ヘブン(トミー・バストウ)と結ばれ、いよいよ2人の暮らしがはじまる。
トキとヘブンは、ヘブンの同僚の錦織友一(吉沢亮)も連れ立って、杵築の大社と呼ばれた出雲大社を訪れ、愛を誓った。ヘブンのモデルのラフカディオ・ハーン(のちの小泉八雲)が、錦織のモデルの西田千太郎と一緒に出雲大社を訪れ、そこにトキのモデルの小泉セツが合流したのは明治24年(1891)7月のこと。ドラマと史実は必ずしも重ねられていないが、第14週の場面は、この年の夏も近づくころなのではないだろうか。
当時、外国人との結婚などほかに例がなかったから、ドラマのトキも家族、すなわち養父の松野司之介(岡部たかし)と養母のフミ(池脇千鶴)、養祖父の勘右衛門が許してくれるかどうか心配だった。そこはなんとかクリアできたが、問題は、これまで女中として働いた報酬として受け取っていた月額20円の給金がどうなるか、だった。
当時の20円にどのくらいの価値があったが、一概には断定できないが、物価水準等から換算すると、70万円から80万円、あるいはそれ以上に相当したと考えられる。
トキは士族の娘ではあるが、養家の松野家は莫大な借金をかかえ、極貧生活を送っている。生家の雨清水家も、当主でトキの実父の傳(堤真一)の病没後、恐ろしいほど零落し、トキの実母のタエ(北川景子)は、一時は物乞いにまで身をやつした。そんな養家と生家の両方を支えていたのがトキの給金だったが、女中でなくなれば、それは支払われない。
給金の行方はどうなるのか。また、トキの家族はこれから、どうなってしまうのか。
■セツ自身が語った結婚秘話
ところで、「ばけばけ」のトキとヘブンの状況は、モデルになったセツとハーンのそれと少し異なる。最初にそこを明確にしておきたい。
「ばけばけ」のトキは、明治23年の秋ごろにハーンの女中になり、ハーンの借家まで毎朝、養家から通ったが、セツがハーンの女中になったのは明治24年の2月上旬ごろで、最初から住み込みだった。どういう経緯で彼女がハーンの女中になり、どうして住み込みだったのか、詳細はわかっていない。
セツ自身は、ハーン逝去25周年(1929)を記念した東京朝日新聞の取材に、「その年(註・明治23年)の十二月私は八雲の許に嫁ぎました。私の実家は古い士族ですが父は亡くなっていましたし別に反対を唱える親族もなかったのです」と答えている。
ちなみに、ここでいう「父」は実父の小泉湊(「ばけばけ」の雨清水傳のモデル)で、明治23年(1890)12月はおそらく旧暦を指す。だから、西暦の同23年(1891)2月、つまりセツがハーンのもとに住み込みで働きはじめた時期のことと思われる。セツは、自分が当初は妾を兼ねた女中、すなわち「洋妾(ラシャメン)」だったのが嫌で、住み込みで働きはじめたことを「嫁ぎました」といいたかったのだろう。
■実母はハーンが家を借りて救済
いずれにせよ、セツはハーンの家に住み込みで働きはじめ、間もなくして女中を超えるあつかいを受けるようになったと考えられている。
そして、ハーンが士族屋敷への転居を希望したため、明治24年(1891)6月22日、松江城の内堀に面した北堀町にある、現在の「小泉八雲旧居」に引っ越した。これについて、セツの口述を筆記した『思ひ出の記』には次のように書かれている。
「私と一緒になりましたので、ここ(註・宍道湖に面した借家)では不便が多いというので、二十四年の夏の初めに、北堀と申すところの士族屋敷に移りまして一家を持ちました。/私共と女中と子猫とで引っ越しました」
この時点ではセツが女中だったどころか、女中はほかにいたということになる。
また、「ばけばけ」では、トキは実母のタエのもとに毎月、給金の半分にあたる10円を渡していたが、セツが実母の小泉チエを救ったのは、給金によってではなかった。北堀町の武家屋敷に引っ越すのに先立って、ハーンに小さい家を借りてもらい、家財道具も調達してもらって、生活を立て直すことができたのである。
では、セツの養家で「ばけばけ」の松野家のモデルである稲垣家は、どうなったのだろうか。
■姑・トミの右頬に残った一生消えない傷
北堀の武家屋敷に引っ越してから5カ月も経たない明治24年(1891)11月、ハーン夫妻は熊本に引っ越した。ハーンが熊本の第五高等学校に転出したからである。そして、セツの家族、すなわち養父母の稲垣金十郎とトミ、養祖父の万右衛門(それぞれ「ばけばけ」の松野司之介、フミ、勘右衛門のモデル)も、少し遅れて熊本の家に同居することになった。
ハーンの月給は松江時代の100円から200円へと跳ね上がり、これはいまの700万円から800万円に相当する金額だと思われる。生活には余裕があったはずで、セツの家族は貧困から完全に脱したといえるだろう。
ヘブンは日本の家族の流儀に従った。日本研究の大先輩B.H.チェンバレンに宛てた手紙には、たとえばこんな記述がある。「一同が座に着く時には、名誉の地位はいつも年齢と親子の順で決められる。その時には、私は四番目、妻は五番目の席です。そして、そういう時には、いつも老人が最初にもてなされる」(長谷川洋二著『八雲の妻』より)。万右衛門、金十郎、トミ、ハーン、セツという順番だったということだろう。
だが、こうしてセツの家族と同居したおかげで、ハーンの仕事ははかどることになった。前掲書から引用する。「当時四十八歳のトミは、無学で迷信にも無批判な女であったが、器用で律儀な働き者で、その無私そのものの心は、ハーンに敬意と愛情を抱かせる。以後は裏方として家の中の一切を預かり、ハーンの身の回りと執筆の世話に、セツが専念することを可能にした」
明治26年(1893)11月17日、セツとハーンのあいだに初めての子である一雄が生まれたが、一雄を背負ったトミが、神社の石段で躓きながら孫を守り、右の頬に一生消えない傷を負ったというエピソードが残っている。
■ハーンの月給は1000万円超に
明治27年(1894)10月から2年近く、ハーンは神戸で暮らし、それに当たって万右衛門だけは松江に帰ったが、その後も金十郎とトミはハーン夫妻と同居した。
そして、明治29年(1896)9月からは東京暮らしがはじまった。
セツは、松江にいる実母のチエのもとには、ずっと仕送りを続けていた。チエはセツに宛てた手紙に、「いながきどの、申なされしにわとふ月から三百に月けふがなりしと申しなられして、ゆめかとばかりよろこび申し」と書いている。つまり、稲垣金十郎殿が申されたことには、今月から月給が300円(註・本当は400円)になったとのことで、夢のようだとよろこんでいる、というのだ。
しかも、セツの養祖父の万右衛門に、100石取りの家の養女が1200石取りの家の奥方になった、と伝えたという。いったん極貧に転落した実母や養祖父、養父母にとっては、セツが「高給取り」の妻になったことが、かなりうれしかったと見受けられる。
■落ちぶれていた稲垣家も復活した
金十郎とトミは、東京でも変わらず同居した。長男の一雄が4歳になるころから、読み書きの学習がはじめられ、もちろん英語はハーンが教えたが、国語の担当は祖父の金十郎だった。婿に養われるだけでなく、金十郎もトミも家のなかで役割を果たしていた。
金十郎は時に、家の近くの空き地で、家族を前にして見事な弓の腕前を披露することもあったという。しかし、胃潰瘍に蝕まれて明治33年(1901)11月に死去した。享年59。
ちなみに、この稲垣家は、ハーンとセツの次男である巌がトミの養子になり、無事に継承された。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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