■お金がない。自由もない20代
【前編のあらすじ】「私は才能があるのに、生まれ育った家が貧乏だったせいで、オペラ歌手になれなかった」。そう思い込む母親は、自分の夢を3人姉妹の中間子に託した。中間子の月安さんは、母親の夢を一身に背負い、姉や妹からいじめられながらも音大を目指し、見事合格。しかし「不眠症を伴う抑鬱状態」と診断され、一般教養の単位が足らず、留年が決定。5年で音大を卒業したものの、その後に大きな試練が待ち受けていた。
現在、関東地方在住の月安花織さん(仮名・50代)は、音大卒業が見えてきたとき、就職活動を始める前に健康診断を受けた。すると、「尿蛋白が基準値の倍以上」と出たため再検査を経て通院加療となり、就活どころではなくなってしまった。その上、教員採用試験を受けたものの、落ちてしまう。
そのため卒業後は、大学時代の知人が立ち上げたカラオケボックスを手伝うことになり、そのまま関西に残った。
ところがそのカラオケボックスでは、他にアルバイトはいたが、従業員は月安さん一人で、休憩なしで10時間働かされた結果、1年ほどで体調を崩してしまう。母親は「私のところに帰ってきなさい」と言ったが、月安さんは父親の家に帰ることにした。
「私が小学校高学年くらいの頃から両親の仲が悪く、同じ空間にいることも避け合っていて、私が教育実習で帰省した時には家庭内別居状態。それでも母は、『娘たちが結婚するときに、片親だと体裁が悪いから』と言っていましたが、私が大学5年の時、母に彼氏ができた途端、父をボストンバッグ1つで追い出して、さっさと離婚しました」
実は父親も月安さんが大学進学のために家を出たあたりから不倫していたが、まだ籍は入れていなかった。
父親と同居を始めた月安さんは、「抑鬱状態」のため何もやる気が起きず、毎日ひたすらぼーっとテレビを見て過ごしていた。
「今でこそ無謀だとわかりますが、当時の私は『薬を飲まないと何もできない人生は嫌だ』と言って、精神科から紹介状をもらって帰郷したのに通院をやめ、自力で治す道を選びました。父はそんな私の気持ちを尊重して、『1日1回は外に出ること』を約束させ、『家にいるなら家事をしてくれ』と言いつつも、1週間に1回は弁当屋さんに弁当を買いに行くだけで許してくれました」
月安さんは、抑鬱状態が少しよくなると、保育士養成講座を受け始めたが、最後の試験の日にうつ症状が悪化し、外に出られなくなってしまった。その後、また少しよくなったため、郵便局の外務の試験を受けたがこれも不合格。簿記の勉強をし始めたが、やはり試験日にうつ症状が悪化して身動きが取れなくなり、ボイコットしてしまった。
最終的に映像制作会社の事務員の仕事に就くと、半年後には一人暮らしを始めた。月安さんは、奨学金を高校・大学と借りており、毎月の返済があった(音大卒業までの学費は計1000万円近く)。
そんなある時、勤め先での雑談中に出会い系サイトの話が出た。興味を持った月安さんが登録してみたところ、東京都内に住む6歳年上の男性から連絡が来て、時々連絡し合うように。
■「お金がないなら夜の仕事でも何でもすれば」
その男性に、「お金がない。自由もない」とぼやくと、男性はこう言った。
「お金がないなら夜の仕事でも何でもすればいいじゃん」
びっくりした月安さんが、「夜の仕事ができるほど、私は美人でもなければ、才能があるわけでもない」と否定すると、
「自分にはできないとか、勝手に思い込んでない? 才能があるとかないとか、周りは気にしないよ」
と男性が言う。
「そんなもんか」と思った月安さんは、昼間は事務員の仕事を続けながら、夜はキャバクラで働き始める。アルコールに強かった月安さんは、20時から深夜2時までキャバクラで働いて帰宅して眠り、朝、事務員の仕事に出かけた。追加でスナックで働く日もあった。当然、体力的につらかったが、水商売だけで月計15万円以上稼ぐことができた。
月安さんは思い切って事務員とキャバクラを辞めてスナック1本にしたが、収入は月15万円を超えない。
しかし、次なる問題が発生する。
■「この人が生きてたら誰も幸せにならない」
故郷の九州地方に戻ってからというもの、月安さんは、母親からの執拗な連絡に辟易していた。母親は、「あなたが実家に置いていった荷物を送る」と言って月安さんの現住所を突き止めようとしたり、「お父さんがこう言っていた」などと嘘を吹き込んで、父親との仲を引き裂こうとした。
「母は、父の悪口を近所や親戚中に言いふらして歩きました。父と同居して初めて知ったのですが、母は私が大学に行っている間に、私の分の養育費をよこせと言って父からお金をむしりとった上、父の不倫相手にもこっそり接近して、慰謝料を脅し取っていたようです。もちろん、私は母から養育費なんてもらっていません。もらっていたら奨学金の返済もなく、夜の仕事なんてしなくて済んでいたでしょうね」
故郷に戻って3年。ある日57歳の母親宅に呼び出された27歳の月安さんは、信じられないことを言われた。
「あなたが音大を出られたのは私のおかげ。でも、もう音楽の道には進まなくていいわ。あなたの性格ならきっと介護が合ってると思うの。
身勝手な物言いに怒りに震えた月安さんは、無意識にテーブルの上にあったガラスの灰皿を手にしていた。しかしすんでのところで我に返る。
「一体、何を言っているんだと……。この人が生きてたら誰も幸せにならない。むしろ不幸になるだけだと思い、これを頭に投げつけてやろうかと思いました」
それからというもの、毎晩のように自分の手で母親を殺す夢を見始める。
「このままでは本当に殺してしまうかもしれない」
不安になった月安さんは、出会い系サイトで知り合った男性がいる東京に出ることにした。
■「娘のランドセルを買うからローン組んで」
28歳で上京した月安さんは、電話帳を見ながら「今日面接してくれて、今日から働ける寮があるキャバクラ」を探し、片っ端から電話をかける。2軒面接に行き、1軒に決まると、その日から働き始めた。
「居酒屋は体力的に無理かもしれないけど、キャバクラなら座っていられますから」
と平然と言うが、ものすごい勇気と行動力だ。
しばらくすると、出会い系サイトで知り合った男性と交際が始まったが、この男性が問題だった。交際当初は飲食店を経営していたが、だんだん月安さんにお金を無心するようになり、翌年には無職になってしまったのだ。
「一緒に出かけると、飲食代にしても何か買うにしても、必ず私に出させて、そのうちに『店のバイトに給料払わなきゃならないから』とか言って数万。
月安さんは彼に貸した金額をメモしていたが、300万円を超えたところで怖くなり、メモするのをやめた。
さらに信じられないことに、彼は既婚者だった。
「上京する前から分かっていたんですが、『妻とは別れる』と言っていました。付き合い始めてから妻が妊娠していることを知らされ、『父親が自分かどうかあやしい。DNA検査する』とか言ってたくせに、女の子が生まれたら『俺の子だ』と……。落胆しました」
ここで筆者は、月安さんの母親と彼がよく似ていることを指摘。すると月安さんは言った。
「はい、彼とは結局10年近く付き合って、ようやく『あれ、誰かに似ている?』と気付きました。子どもの頃、母や姉や妹から反論されると諦めちゃうように、彼ともそうだったんですよね。『私はこう思う』っていう自分の意見を理解してもらうことにエネルギーを費やせない。だからたぶん、他人と親交を深めたり、信頼関係を構築したりするということがうまくできないんです」
ある日、「ハローワークに行こう」と言う彼に付き合ったところ、訪問介護の職業訓練のパンフレットが目に留まる。
「何歳までこんな暮らしを続けるんだろう」と不安になった月安さんは、職業訓練を申し込むと、ホームヘルパー2級(現在の訪問介護員)の資格を取得。
いずれはキャバクラを辞め、訪問介護一本にするつもりだったが、それを阻んだのは“ヒモ男”の存在だった。
「お金がなくなれば縁が切れるのは明白でした。一人で生きていく自信がなかったんです。でも、『娘のランドセルを買うからカードローン組んで』と言われたときは、『さすがにもうダメだな。別れよう』と思いました」
■「扶養照会するなら、生活保護は申請しません」
36歳で彼と別れた月安さんは、さらに介護の知識を深めるために、訪問介護の仕事をしながら通信制の大学に通い始める。
月安さんは自分のキャパシティを超えて頑張りすぎるきらいがある。おそらく、生まれた時から母親から頑張ることを強要され続けてきたせいで、頑張ることがデフォルトとなってしまったのだろう。
しかしいずれ限界がくる。案の定、うつ症状が再発し、働きながら大学の勉強を続けることが難しくなったため、精神科に相談。病院の精神保健福祉士に繋いでもらうと、生活保護を勧められた。
月安さんは勧められるままに福祉事務所に足を運び、ケースワーカーに事情を話すと、扶養照会をすることを説明される。その途端、
「我が家は一家離散していますし、まかり間違って私が母に引き取られた日には、刃傷沙汰に発展します。扶養照会(親族への連絡)するんでしたら、生活保護は申請しません。野垂れ死んだほうがマシです!」
と言って立ち上がった。面食らった様子のケースワーカーはゆっくりと諭した。
■生活保護の受給額は月13万4410円だった
「あなたがしていることは生存権の放棄です。つまり、遠からず死ぬということですけれど、それでよいのですか?」
「構いません。それが私の限界なのでしょうから、受け入れるほかないです」
その後、何度か福祉事務所へ出頭要請されたが、月安さんは応じなかった。すると、月安さんが通院する精神科の精神保健福祉士から何度も促されたため、やっと福祉事務所に足を運ぶ。その結果、通常より時間はかかったが、最初の相談から約3カ月後に保護費が下りることになった。
「今思うと、とんでもない困ったちゃんでしたが、ケースワーカーさんたちが(扶養照会なしでの生活保護受給のために)尽力してくださったおかげで今の私があります。当時の基準生活費は月13万4410円(うち住宅扶助5万3000円、単身者)で、住んでいた家は家賃が住宅扶助より1万7000円高かったため、引っ越しました」
生活保護受給者となった時、月安さんは38歳になっていた。
■「身内か、国の生き血を吸うダニになるよ」
現在54歳になった月安さんは、41歳で障害者手帳を取得。障害者雇用のフルタイムで働けるようになり、48歳で生活保護を卒業することができた。
だが卒業するまでの道のりは、楽なものではなかった。
「生活保護受給中に働き始めると、毎月『収入申告』をしなければなりません。申告すると、『過払金を返還してください』と福祉事務所から郵送物が届きます。過払金を支払いに行くのは、経済的にも精神的にもとてもしんどかったです」
生活保護受給者が収入を得ると、収入認定額を計算し、保護費との差額(収入が保護費を超えた分)が返還対象となる。だが、勤労控除などが適用され、全額返還ではなく一部返還になることもあり、具体的な計算は福祉事務所での収入認定(過去3カ月平均収入から控除を引く)で決まる。そのため、まずはケースワーカーに相談し、収入が増えた経緯と金額を正確に申告することが重要だ。
この時月安さんは、「中途半端に働いていたら、過払金が発生するだけで、しんどい状態が永遠に続く」ことに気付く。だからフルタイム勤務に舵を切り、生活保護卒業を急いだ。
「フルタイム転職後に初めてもらった夏のボーナスは6万円でしたが、それを申告して過払金を払ったら、手元に残ったのは9000円でした。ガックリ落ち込む私にケースワーカーさんが、『冬のボーナスは満額手元に残るように、今から準備しましょう! なるべく手元にお金を残して生活してください』と知恵を授けてくれたおかげで、冬のボーナス手前で卒業することができました。初めから『生活保護は通過点』という認識がなかったら、心が挫けてしまっていたかもしれません」
■「生活保護は通過点」という認識を持ち続ける
生活保護受給者の過払金の返還は、「生活保護受給者から働く意欲を奪う」としてしばしば議論されている。確かに、働いて収入を得ても、まるまる自分のものになるわけではなく、減らされて悔しい思いをするのだとしたら、「働くのをやめよう」とか、「ほどほどに働けばいいか」となる気持ちは理解できる。これについては月安さんも、「生活保護から抜け出せない事情のひとつではないかと思います」と問題視する。
では、しんどい状況の中、月安さんが「生活保護は通過点」という認識を持ち続けられたのはなぜだったのか。その理由は「父と、父の後妻さんのおかげ」だと話す。
父親は月安さんが27歳の時に57歳で再婚。一方、55歳で再婚した母親は、58歳で2度目の離婚をした。
「臨床検査技師だった父は、『障害者もそうでない人も等しく人間』という認識で、『健常者』という言葉や、九州男児にしては珍しく『女子どもを半人前のように扱う』ことを忌嫌っていました」
女性も子どもも一人前として扱う父親を、母親や姉妹は「厳しすぎる」と煙たがっていたが、月安さんだけはそのほうが「居心地がよい」と感じていたという。
「そんな父が選んだ再婚相手は、竹を割ったような性格で、とても情の深い人です。仕事も家事も決して手を抜かず、父のことを常に第一に考えてくださり、人を褒めることのない父方の祖母がベタ褒めしていました。でも、私のうつがひどくて資格試験をボイコットしまくっていた頃、後妻さんから、『そんなに逃げてばかりいると、身内の生き血を吸うダニか、国の生き血を吸うダニ(生活保護受給者のこと)になるよ』と言われてしまい……。尊敬する人に失望されてしまった悲しみと、不甲斐ない自分に対する怒りで大泣きしてしまいました」
実は後妻は、生活保護費支給決定に携わるケースワーカーだったのだ。
「厳しい言葉の裏には、ケースワーカーである後妻さんの苦労があったと思います。田舎あるあるだと思いますが、世帯分離して生活保護を受給しているくせに、実態は家族一緒に暮らしていたり、収入申告しなくてもバレないように身内の会社で働いていたりと、法の抜け道を利用している受給者と接しているからこその『ダニ発言』だったのだと想像します」
確かに不正受給者には頭を悩ませていたのかもしれないが、当時のうつ症状に悩まされていた月安さんに対する言葉としては、いささか厳しすぎるように感じる。だが、ここで月安さんは、厳しい言葉を真正面から受け止め、生活保護を卒業することができた。
■「恥で人間は死なない」
後妻の言葉に傷つき、泣きながら大学時代の友人に電話すると、友人は、
「逃げたらええやん。逃げて、逃げて、逃げまくった先に何があるか見つけたらええやん」
と言ってくれた。
月安さんが“逃げまくった先”で“逃げずに”見つけたのは、居心地の良い職場と、素の自分でいられるBar、そして讃美歌を歌うことのできるキリスト教会だった。
「“国の生き血を吸うダニ”になった私だからこそ言えます。恥で人間は死なない。どんなに赤っ恥をかいても、諦めさえしなければ、いつからでもやり直しはできます。失敗する事は誰だって怖いです。でもその失敗は確実にあなたの糧になります。一歩踏み出すことに躊躇している方には、このことを伝えたいと思っています」
子ども時代から自分の意見を言うことを諦めてしまっていた月安さんだが、居心地の良い職場や素の自分でいられる場所を見つけることができたということは、以前よりは他人と親交を深めたり、信頼関係を構築することができるようなったということだろう。
月安さんは生活保護により「生きる自信」を取り戻すことができたのだ。
一度は詰みかけた人生の「再スタート」を切ることができ好転し始めた。
1人で苦しんでいるだけでは、誰も気付いてはくれない。月安さんがどん底から這い上がることができたのは、最後の最後に勇気を振り絞り、助けを求める声を上げることができたからだ。
「生活保護」は、利用したことがない人にとっては、自分とは無関係の遠い世界のもののように感じられる。筆者も、一度利用したら二度と戻れないのではないかという恐怖のようなものを感じていた。しかし実際に利用し、卒業した人は存在する。
賃金は上がらず、物価が異常に高騰する昨今、生活が困窮する人が増えている。生活保護とはどんなものなのか。どんな人が利用し、どんな生活をして、どんな人が卒業し、再び社会に戻っていくのか。
生活保護の実態を明確にすることで、生活保護に対する批判や恐怖を減らし、救われる人や機会を増やしていきたい。
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旦木 瑞穂(たんぎ・みずほ)
ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー
愛知県出身。印刷会社や広告代理店でグラフィックデザイナー、アートディレクターなどを務め、2015年に独立。グルメ・イベント記事や、葬儀・お墓・介護など終活に関する連載の執筆のほか、パンフレットやガイドブックなどの企画編集、グラフィックデザイン、イラスト制作などを行う。主な執筆媒体は、東洋経済オンライン「子育てと介護 ダブルケアの現実」、毎日新聞出版『サンデー毎日「完璧な終活」』、産経新聞出版『終活読本ソナエ』、日経BP 日経ARIA「今から始める『親』のこと」、朝日新聞出版『AERA.』、鎌倉新書『月刊「仏事」』、高齢者住宅新聞社『エルダリープレス』、インプレス「シニアガイド」など。2023年12月に『毒母は連鎖する~子どもを「所有物扱い」する母親たち~』(光文社新書)刊行。
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(ノンフィクションライター・グラフィックデザイナー 旦木 瑞穂)

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