老後を充実させるには、どうすればいいのか。作家の林望さんは「現役時代の肩書きや成功体験にしがみつく人は、寂しく悲しい老後が待っている。
豊かな老後を送るためには、精神的に自立した“名誉ある孤立”をおすすめしたい」という――。
※本稿は、林望『リンボウ先生 老いてのたのしみ』(祥伝社新書)の一部を再編集したものです。
■昼から酒を飲み、テレビを眺める老後はつらい
年を取ってくると、人とのつきあい方について考えさせられることが多々あります。たとえばクラス会とか、クラブの同期会とか、若いころの紐帯(ちゅうたい)を再確認するような「懐旧クラブ」のようなつきあいがありますね。
でも、私はどうもそういう懐旧クラブ的なつきあいは好みません。そういうのは、結局、どこかの飲み屋に集まって、おおいに飲みかつ談じ、むかしの綽名(あだな)で呼びあったり、酔って放歌高吟したり、……そういうのはほんとに楽しいだろうかと自問してみると、やはり否定的に考える私がいます。
しかし、だからといって、徹底的にそういう「浮世づきあい」から遠ざかって過ごす、というのも、実際には孤独で寂しいかもしれません。
つまりそういう「世間に背を向けた生き方」を徹底すると、「孤老」というような暮らしぶりに至るであろうと思います。これすなわち、「孤」独な「老」人です。
すると、そこで想像される暮らしぶりは、家族も親友もいない老人が、昼から酒を飲み、テレビを眺める……そんな情景が思い浮かびますが、この孤老ほどつらい老い方はないのではないかと思うのです。
■「おしゃべり」は老いないための能力
誰とも心通わす交流がなく、一人で寝起きし、黙々と食事をし、鬱々と暮らしていく。
仙人のように達観し、自ら望んで山村で一人生きるという道を選んだのなら、それはそれで楽しいのかもしれません。

しかし、人間は社会的な動物です。常に社会的なコミュニケーションの中にありたいという欲求があります。つまり人間は群居(ぐんきょ)する動物なので、それはいわば「本能」ですから、年を重ねたからといって簡単に社会との縁を絶つというわけにはいかないのが現実でしょう。
やはり温かい心の通ったコミュニケーションを失わないで老いていくには、人から嫌われない努力が必要です。
人それぞれ、夫婦であるとか、親子であるとか、友人であるとか、恋人であるとか、地域の人たちであるとか、私の場合では教え子であるとか、大学の先輩後輩であるとか、年齢相応のさまざまな人間関係があるはずです。
つまり一言でいえば、「親しい家族や知友」は、生きていく上では大切な宝物で、そういう人たちとの忌憚(きたん)ない会話の機会を持つこと、これが非常に大事だと思います。
そういう意味で「おしゃべり」であることは、心が老いないための何よりの能力だと言ってもよいのです。
■会話する際の6つの注意点
ただし、いくつか心に留めておきたい注意点があります。
・つまらない「群れ」を作らないこと。

・くれぐれも自慢話をしないこと。

・いたずらに現役時代の自分語りをしないこと。

・相手が話してくれている時に渋面を作ったような表情で聞かないこと。


・求められていないのにアドバイスをしないこと。

・相手が若いからといって、頼まれもしないのに、「人生の先輩として教えてやろう」というスタンスを取らないこと。
会話はキャッチボールのようにやるのが基本です。常に相手がどう受け取ってどう感じているかを意識しながら、たのしく言葉のやりとりをするという態度が肝心です。
■「不名誉な孤立」をする人の特徴
コミュニケーションの機会が失われた孤老はつらい。
かといって、周囲におもねるように群れようとするのも、それはそれで決して楽しくはありません。
そこで、私はこう思っています。老いてからの人づきあいの要(かなめ)となるのは、「名誉ある孤立」です。能動的に、人には親切に、会話は愉快に、と心がけながら、それでも不必要に群れない生き方、とでもいったらいいかもしれません。
反対に「不名誉な孤立」というのもあって、それは、周りの人に嫌われて誰からも相手にされなくなり、のけ者になってしまうことです。
そんな孤立が楽しいはずはないので、これは避けなければなりません。
たとえば、リタイアした男性が「俺は昔、一流商社の重役だった」やら、「銀行の支店長だった」やら、現役時代の成功体験や肩書きにしがみつき、家族や近所の人に対して、ついつい偉そうな態度を取ってしまう。
そういう人を私はいくらも見てきました。
仕事から退いて、その分時間ができたからと、今まで妻任せだった町内会の寄り合いやマンションの管理組合にしゃしゃり出ていって、ついつい偉そうな態度をとってしまう。本人はちっともそんなつもりでなくても、自然に滲み出てくる「俺様意識」。これが一番いけません。
こういう人は結局、誰からも疎まれて孤立していきます。
■リタイア後の“イヤミな老人”にならぬよう注意
そのほか、酒癖が悪く、近所の集まりなどでも深酒をして威張り散らすだとか、あれこれ知ったかぶりをして、他の人を見下すような態度をとってしまうとか、人に嫌われる要素はいくらもあります。そしてそれらの要素を持った人は、意外にも自分がそのような性格であることを自覚していない、というのがまあ致命的なのですね。
かくて、いつのまにか人に疎んじられて、気がつけば孤老路線まっしぐらということが現実にいくらもありましょう。
そういう人は、得てして家庭内でも家族に対して威張り散らしたり、ひどい場合は暴力を振るったり、アルコール依存症であったり、いくら頼んでもタバコをやめなかったり、まあ嫌われる理由などはいくらもあります。
それらの、人から疎まれることを無意識にやっている人は、結局リタイアして社会的地位を失えば、たんなるイヤミな頭の高い老人となってしまい、すなわち、「不名誉なる孤立」に陥って、悲しい孤老への坂道を転げ落ちていく、というわけです。
一方、「名誉ある孤立」というのは、まずは俗世間のヒエラルキーというようなものに心して関わらないという生き方です。
■縄張り・出世競争は「あっ、そう」と思えばいい
言い換えると、組織は組織、自分は自分、そういうふうにきっちりと立場を分けて、「組織から独立した自我」を確立するべく、若いころから努力するということがほんとうは必要です。

この「独立」の自己というものを確立することは、畢竟(ひっきょう)自己を大切にして組織から自己を侵されないようにする、福沢諭吉のいわゆる「独立自尊」ということが、じつは名誉ある孤立を維持するための、基礎的なありようだと私は思っています。
私が長く勤めてきた大学教員の世界で言えば、学会、大学における、助手、助教授、教授といった序列、学部長、学長といったヒエラルキーに拘泥(こうでい)しない。自分の研究、教育はきちっとやっていくけれども、縄張り争い、出世競争には無縁でいたいと思う。
結果的に出世して、それなりの地位になることはあるかもしれないけれど、それはあくまでも結果に過ぎず、地位や栄達に恋々(れんれん)としてオノレを枉(ま)げて出世競争に精を出す、なんてことはつまらないことです。
私の心のなかでは、誰が教授になろうと別に羨ましくも何ともない。「あっ、そう」と思うだけです。ですから、私は東京藝大の先生になりましたが、助教授のときに五十歳でさっさと藝大を辞職しました。私の人生にとって、ほかにもっと大切なことがある、と考えたからです。
■「名誉ある孤立」を選んで生きる
出世競争には興味がないので、常に誰ともつるまないし、誰をも羨まない。いつだって自分は自分、誰々がこうだから自分も……など比べては考えない。自ら主体的に人づきあいのあり方を選んでいく。
かくして私は、心して「名誉ある孤立」を志向して生きてきました。

名誉ある孤立を選ぶ人は、ただ「我が道を行く」というだけで、別に誰とも敵対しようという気持ちなどありません。だから、何かを頼まれたら、できるだけ親切に心を尽くして対応する、とくに自分より目下の人にはいっそう親切にと心がける、そのくらいのつもりでいたほうがよいのです。
親切といっても、目上の人や権勢家に対しては腰を低くしてヘイコラし、しかし、目下の人には横柄不親切……なんてのでは、なにもなりません。そういうのは「巧言令色(こうげんれいしょく)鮮(すくな)し仁(じん)」というので、もっとも嫌がられる人柄、それこそ不名誉な孤立に陥るというものです。
だから誰に対しても悪意でものごとをやらない、そこが要諦であって、その上でしかし、世の中の虚礼のようなことには原則として関わらない、という心がけが名誉ある孤立の一丁目一番地です。
■「やる価値があると思うこと」だけやる
そうすると、やがて人は
「あの人はいつもそうだから、しょうがないよ」

「変わっているけれど、悪意のない人だね」
と見てくれるようになるでしょう。
世の中が、誕生日だ、ヴァレンタインだ、母の日だ、結婚記念日だ、クリスマスだ、なんだかんだとプレゼントなどをやりとりして、しまいにそのことにがんじがらめになっている……そんな風景をよく見かけますが、私は原則として、プレゼントはしない方針です(まあしかし、孫どもへのお誕生日プレゼントくらいはしますけれどね……)。
その分、できるだけ頂かないようにもしています。俗世間に生きている以上、完全にそれを徹底することも難しいので、まずは最低限にささやかに、というのが原則であります。要はそういう「行き方」で筋を通すということなんです。
「彼は誰に対してでも一貫してああいうふうだから、しょうがない」

「ちゃんと一本筋が通っているから、あれはあれでいいんだろう」
と認めてくれる人もやがて現れます。
仕事を頼まれたときには人一倍きちっとやる。
でも仕事以外のどうでもいいことには最初から関わらない。見栄や欲を出さない。一貫してそういうふうにする、この割り切りが大切なのです。
やる価値があると思うことはやる。やる価値がないと思ったらやらない。そういう割り切りというか、独自の価値観を持つことが、特に高齢になってからは非常に重要です。
■「名誉ある孤立」を選んだ“窓際商社マン”
私の大学以来の親友にお公家(くげ)さんのようにおっとりした男がいます。彼は卒業後、一流商社に入ったのですが、生き馬の目を抜くような商社マンの世界にはまったく向いていなかった。早々に閑職へと追いやられて、定時出社定時退社するだけという生活になってしまいます。
ある時、会社で何をしているのかと聞いてみたら、「毎日、『今日は何をしようかな』と思いつつ会社に行って……でもまあ、これといってすることもないからさ。新聞を読んだりかなぁ」とにこにこ笑っている。
こういう人はしょせん商社なんかには向かないよなあ、と私は思いましたが、しかし、彼はそんな日常を苦にする様子もなく、いつも天気晴朗にして無欲恬淡(てんたん)たる日々を送っていました。おそらく彼もまた、名誉ある孤立を楽しんでいたのでしょう。
そんな調子で彼は50歳を前に早期退職。その間、大きな仕事もせず、世俗のヒエラルキーにも全然関わらず、まず家が資産家であることもあって、悠々たる人生を歩んで、今は人間的に頗(すこぶ)る味わいの深い70老人になっています。誰もが真似できることではありませんが、一つの生き方の参考にはなりますね。
そういうのと反対に、往年の栄光が頭に残っていて、いらざる知識を振り回す、すなわち、自分はこんなことを知っている、しかし君たちは知らないだろう、というようなことを喋々(ちょうちょう)する……これを衒学僻(げんがくへき)といいますが、特に年寄りになると、そんなことを振り回す人が多くなってくるように観察されます。これでは周囲に嫌がられ、不名誉な孤立になっていく一筋道です。
■群れず、威張らず、でも信念は曲げない
名誉ある孤立を保つためには、そういう無駄な見栄、承認欲求からすっきりと離れ、俗世の競争意識から身を引き、自分は自分だ、という確乎(かっこ)たる意識を大切にしながら生きるということです。
群れることなく、威張ることもなく、でも自分の信念は曲げない。
そのうえで、70歳なら70歳からなりの、80歳なら80歳からなりのやり方で何かを学ぶこと、いつだって前向きに進歩していこうという心がけこそ、老いてもっとも肝心なところです。
そこで共通の興味や趣味を持つさまざまな年齢の友人ができれば、おもいがけず世界が広がり、現役時代とはまた違った楽しい生活が待っています。
ただし、友だちを作るためになにかしよう、ってのはちょっと違うかな、と感じます。
そういうふうに意図的に人間関係を作るのは、後々心の負担になったりして、結局うまくいかないものです。来るものは拒まず、去るものは追わず、無欲恬淡として、「君子の交わりは淡きこと水の如し」といきたいもの、まさにそういう心がけで自由自在に生きていくことこそ、「老いのたのしみ」そのものであります。

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林 望(はやし・のぞむ)

作家・書誌学者

1949年、東京生まれ。作家。国文学者。慶應義塾大学大学院博士課程修了。ケンブリッジ大学客員教授、東京藝術大学助教授等を歴任。専門は日本書誌学、国文学。著書に『イギリスはおいしい』『節約の王道』『「時間」の作法』など多数。『謹訳 源氏物語』は源氏物語の完全現代語訳、全10巻既刊9巻。

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(作家・書誌学者 林 望)
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