■日本の「ヤンキー」が世界を席巻するワケ
ネットフリックスで配信中の恋愛リアリティーショー「ラヴ上等」が年末年始にかけて話題になっている。公開直後には、非英語のシリーズでは世界ランキング8位、翌週も9位につけるなど日本以外でも注目されている。
なぜヒットしたのか。noteプロデューサーの徳力基彦氏は、「実は日本の『ヤンキー文化』も、日本しか生み出せない日本ならではのコンテンツであることが、今回『ラヴ上等』のヒットによって証明されたとも言えます」とYahoo!ニュースに寄稿している(〈なぜ「ラヴ上等」は海外でも話題なのか。日本のヤンキー文化に秘められた可能性〉2025年12月26日配信)。
徳力氏の記事のサムネイルにも引用されている「水はヤベェだろ」は、エピソード4のタイトルでもある強い台詞である。全部で10あるエピソードのうち、この台詞までが前半の、というよりも、全体の山場であり、視聴者を掴んで離さない。後半は正直やや緊迫の度合いが落ちたように映るものの、それでも、「ヤンキー」の男女による恋リア、は、ありそでなかった発想であり、あらためて見返しても発見が多い。
■好きも嫌いも「喜怒哀楽」を全部出す
ただ、ここでは「ラヴ上等」がなぜはやったのか、とか、どこがおもしろいのか、といった作品論ではなく、徳力氏の記事にある「日本の『ヤンキー文化』」そのものを考えたい。
なぜなら、「ラヴ上等」は、徳力氏のような外からの分析だけではなく、企画・プロデュースを務めたタレントのMEGUMI氏みずからによっても、すでにたくさん語られているからである。
たとえば、「ラヴ上等」のスタジオメンバーで芸人の永野氏との対談で、MEGUMI氏は「ヤンキーの子たちは、好きも嫌いも喜怒哀楽の感情を全部出して、それを世の中に投下する。恋愛を通じてそれを表現するというのは今、必要なことではないかなと思い、この企画を立ち上げました」と、この企画意図を語っている(〈MEGUMI × 永野が語るNetflix「ラヴ上等」 恋愛離れの時代に届けるヤンキーの“本気”と“覚悟”のリアリティーショー〉WWDJAPAN、2025年12月13日配信)。
当事者から、これでもか、と種明かしがされている以上、屋上屋を架すのではなく、なぜ、私たちは「ヤンキー」が好きなのか、を考えたい。その格好の事例が、「ラヴ上等」と同じく、この年末年始にあったからである。それは何か。
■「永ちゃん」は紅白で9分も歌った
2025年の紅白歌合戦での矢沢永吉氏の歌唱時間である。前半95分、後半165分の合計280分間に50組もの出場歌手がおり、さまざまな特別企画があるため、単純に平均しても5分ほどである。
コラムニストの堀井憲一郎氏によれば、もっとも少なかったCANDY TUNEは1分29秒、次のFRUITS ZIPPERが1分30秒だったのに対して、矢沢永吉は、その6倍以上にあたる9分29秒だったという(〈9分以上の歌唱者も出た2025年紅白歌合戦 NHKがもっとも大事にしたのはどの歌手だったのか〉Yahoo!ニュース、2026年1月1日配信)。
永ちゃんこと矢沢永吉氏こそ、いまも昔も「ヤンキー」の憧れではないか。社会学者の難波功士氏は『ヤンキー進化論 不良文化はなぜ強い』(光文社新書、2009年)のなかで、矢沢氏がボーカルだったバンド・キャロルの服装を真似する「キャロル野郎」たちが「ヤンキー」と称されたと述べている(同書、64ページ)。
紅白歌合戦という国民的番組が、2025年に最長の放送時間を割いたのが「ヤンキー」=矢沢氏だったのであり、時を同じくして「ラヴ上等」が耳目を集める。偶然と呼べるだろうか。
難波氏は同じ著作のなかで、「ヤンキーの祭り好き」について「新たな共同性を確保する試み」だと位置づけた上で、次のように推測している。
こうした「祝祭=ジモトづくり」現象の一環に、(20)00年代に世を騒がせるようになった「荒れる成人式」を位置づけることも可能であろう(同書211ページ)。
■「荒れる成人式」との共通点
すでに4半世紀が過ぎた今世紀は、日本にとって、この「荒れる成人式」とともにあったのではないか。「荒れる成人式」をめぐっても、すでにたくさんの解釈がなされてきたものの、難波氏の言うように「祝祭=ジモトづくり」現象だと考えると、腑に落ちる。
「荒れる成人式」にせよ、「ラヴ上等」にせよ、矢沢永吉氏にせよ、「世界何位」といった大きな視線は、まったく意識されていない。彼らや彼女たちが気にしているのは、あくまでも先輩や、同じ出演者、自分のファンといった、いわば身内(だけ)である。
成人式でヤンチャをするのは、マスコミや大人へのアピールでもないし、「ラヴ上等」で派手な言動をするのも、カメラの前での演技でもない。矢沢氏が紅白で朗々と歌い上げたのもまた、一般の視聴者のためではない。なぜか。
精神科医の斎藤環氏が喝破したように「ヤンキー文化にメタレベルはない」からである(斎藤環〈ヤンキー文化と「キャラクター」〉五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』河出書房新社、2009年、263ページ)。「メタレベル」とは、現実を高い視点から俯瞰する立場だが、これがヤンキーにはない。
斎藤氏は「バカやってるけど純情」や「やんちゃだけど真っ直ぐ」、「ワルだけど情に篤い」といった、ヤンキーキャラの二面性を例に挙げ、「メタレベルはない」証拠だとしている。こうした二面性が、「荒れる成人式」や「ラヴ上等」、そして矢沢永吉氏にも通じる「ヤンキー文化」ではないか。
■現代の「ヤンキー文化」は安心?
あの映画『国宝』もまた、こうした「ヤンキー文化」の流れにある。コラムニストの酒井順子氏は、「ヤンキー的精神の源流」に、400~500年前に京都・四条河原で歌舞伎踊りを初めたという出雲阿国(いずものおくに)を挙げる(酒井順子〈女子のヤンキー魂 歌舞伎・ツッパリ・アゲ嬢〉五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』河出書房新社、2009年、57ページ)。
徳力氏の言うように、「日本しか生み出せない日本ならではのコンテンツ」と考えれば、こうした歴史の長さと深さが行き着いたのが「ヤンキー文化」だったのだろう。こうした論者たちの慧眼に敬意を表しつつも、それでも、現代ならではのコンテンツとしての特性があるのではないか。それは、ヤンキーが安堵感を与える、という皮肉である。
まず、「ラヴ上等」にせよ「荒れる成人式」にせよ、そして矢沢永吉氏(のファン)にせよ、「ヤンキー文化」の担い手たちは、自分たちではほとんど発信していない。いや、正確に言えば、まさしく私の書いているこの原稿を含めて、「インテリ」たちが(勝手に)言語化したり、考察したりしているに過ぎない。
■彼らを語るのは「安全圏」にいる人たち
あの「ヤンキー先生」こと義家弘介(ひろゆき)氏でさえ、「ヤンキー」だった時期は、そこまで長くはない(後藤和智〈「ヤンキー先生」とは「何だった」のか 教育言説における「元不良」〉五十嵐太郎編著『ヤンキー文化論序説』河出書房新社、2009年、236ページ)。その長期間とは言えない「ヤンキー」体験は、たしかに、私のような軟弱者には畏怖の対象でしかない。
それでも、あるいは、それゆえに、こうやって「ヤンキー文化」を落ち着いて書き記せるのではないか。
身内(だけ)の視線を意識する、というよりも、それに囚われつづけるほかない「ヤンキー」たち自身は、自分たちについて、饒舌には語れない。言葉を奪われており、また、自分たちで言語化しないし、できない。
それに対して、学者にせよ、コラムニストにせよ、安全圏にいる人たち(だけ)が、「ラヴ上等」をはじめとした「ヤンキー文化」を滔々と言葉にする。「ヤンキー文化をわかっていますよ」と、攻撃されないためのお守りのように、得々と語る。
ここに、現代の「ヤンキー文化」の特徴があるのではないか。
■「危うさ」から遠くなっている
では、なぜ「ヤンキー文化」を語れるのか。「ラヴ上等」で、冒頭の顔合わせから乱闘寸前にまで緊張感が高まっていたように、「ヤンキー」とは、喧嘩上等であり、暴力とセットではないのか。
先日、東京・歌舞伎町の「トー横」で「決闘」により相手を死亡させたとして男性が逮捕される事件が起き、明治時代に定められた「決闘罪」で警視庁は男を逮捕した。当事者が「ヤンキー」だったかどうかはわからないものの、「ヤンキー文化」は、こうした犯罪とともにあったのではないか。
それなのに、なぜ、こうも「ヤンキー文化」を語りたがり、そして、事実、これだけ語られているのか。それは、いまの「ヤンキー文化」は、実は、危うさから遠くなっているからである。
昨今、日本における治安上の最大の懸念は「トクリュウ」と呼ばれる匿名・流動型犯罪グループによる特殊詐欺等の犯罪であろう。
「トクリュウ」には、「ヤンキー」出身者もいるのかもしれない。けれども、たとえば、振り込め詐欺の「受け子」とされる現金の受け取り役が、取り締まる側にいた人間だったケースもある(〈「受け子」になった元検察事務官の女性 「古巣」検事との攻防〉朝日新聞デジタル、2023年12月9日配信)。
■「ワル」だけど「愛すべき」存在
「反社」(反社会的勢力)や「半グレ」といった、犯罪のプロたちが牛耳る世界で手先となって使い捨てられるのは、一見すると「ヤンキー」とは無縁の人間である事例が少なくない。
むろん、厳密に、どこまでが「ヤンキー」なのかどうか、線引きは難しい。犯罪者になるのが、「ヤンキー」由来なのかそうではないのかもまた、数字で裏付けるのは無理だろう。
とはいえ、「ラヴ上等」の出演者にせよ、「荒れる成人式」の若者たちにせよ、そのほとんどは「トクリュウ」のメンバーとは考えにくい。
彼ら・彼女たちは「ワル」だったのかもしれないが、(少なくとも現在では)見ず知らずの人を巻き込むような罪を犯しそうにはない。「バカやってるけど純情」や「やんちゃだけど真っ直ぐ」、「ワルだけど情に篤い」といった、ヤンキーキャラの二面性を地で行く人たちであり、いわば、愛すべき存在ではないか。
矢沢永吉氏もまた「ワル」の印象には事欠かないものの、詐欺の被害者ではあったが、加害者ではなかったし、この先も決してなりそうにはない。
■見える・見えやすい「ヤンキー文化」
私たちが「ヤンキー文化」を愛でるのは、こうした安心感に支えられているのではないか。そして、私を含めた「インテリ」が、これまでも、そして今後も、「ヤンキー文化」を嬉々として論じ(たつもりにな)るのは、日本人の多くを占める人たちへの免罪符を得たいからではないか。
昨年、「残クレアルファード」がネットミームとなった。残価設定型クレジットで購入したトヨタ車のアルファードを愛用する人たちを描写した楽曲と、それを載せた動画が拡散された。
「ヤンキー文化」を論じる人たちは、私をはじめとして、「残クレアルファード」と無縁な場合が多い。実際の生活での切実さは感じようもない。それゆえの高みの見物に過ぎないのではないか。
私たちは、「トクリュウ」という見えない・見えにくい犯罪に怯えているからこそ、それと似通っていながらも、かなり見える・見えやすい「ヤンキー文化」を落ち着いて消費できるのである。
今年の成人式が荒れようが荒れまいが、将来にわたって「ヤンキー文化」は廃れない。少なくない日本人が、その文化のなかで生きているからであり、そして、生きていない人たちにとっては、安定して話題にできる話のネタだからである。
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鈴木 洋仁(すずき・ひろひと)
神戸学院大学現代社会学部 准教授
1980年東京都生まれ。東京大学大学院学際情報学府博士課程修了。博士(社会情報学)。京都大学総合人間学部卒業後、関西テレビ放送、ドワンゴ、国際交流基金、東京大学等を経て現職。専門は、歴史社会学。著書に『「元号」と戦後日本』(青土社)、『「平成」論』(青弓社)、『「三代目」スタディーズ 世代と系図から読む近代日本』(青弓社)など。共著(分担執筆)として、『運動としての大衆文化:協働・ファン・文化工作』(大塚英志編、水声社)、『「明治日本と革命中国」の思想史 近代東アジアにおける「知」とナショナリズムの相互還流』(楊際開、伊東貴之編著、ミネルヴァ書房)などがある。
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(神戸学院大学現代社会学部 准教授 鈴木 洋仁)

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