NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の放送が始まった。ドラマでは織田信長が“冷酷非道”として描かれるシーンがあったが、実際はどうだったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などから史実に迫る――。
■織田信長が冷徹なのは“ずっとピンチ”だから
大河ドラマ「豊臣兄弟!」。無軌道なお調子者感全開の、藤吉郎(のちの豊臣秀吉・池松壮亮)とそれを支える小一郎(のちの豊臣秀長・仲野太賀)がいかにして、織田家で頭角を現すのかが、最初の山場になりそうだ。その第2回(2026年1月11日放送)では、尾張統一を目指す織田信長(小栗旬)が岩倉城攻め(1559年)を決行した。
今回、小栗が演じる信長は、これまでの大河ドラマと比べると際立つ冷徹な支配者感がある。第1回では道路工事の人夫に混じっていたりと、切れ者感も独特だ。
この独特の雰囲気、当時の信長を取り巻く状況をみれば、さもありなんである。信長のピンチといえば、この後描かれるであろう今川義元の大軍との決戦、桶狭間の戦い(1560年)を想像するだろう。
でも、この時、既に信長はピンチの真っ只中だったのだ。
なにしろ、織田家は一族で殺し合う勢力争い、尾張統一は成し遂げたけど、人心掌握はこれから。つまり、家臣団の忠誠心もいまいちわからず「コイツ、裏切るんじゃないか」と常にドキドキしながらの毎日である。むしろ、小栗演じる信長の冷徹な感じは、不安の裏返しとしてみたほうが面白いかもしれない。

なんで、そんなにピンチだったのか?
信長が織田家を継いだ時の状況を知れば、それはおのずと理解できる。
■織田一族は“殺し合う関係”だった
そもそも、織田家は越前の出自だったとされている。室町時代の1400(応永7)年に、守護である斯波氏(しばうじ)が尾張国の守護も兼任することになり、移ってきたと考えられる。もともと、斯波氏でも新参の家臣だった織田家の地位は高いものではなかったが、次第に地位を向上させ、尾張の守護代まで上りつめている(柴裕之「戦国期尾張織田氏の動向」『論集戦国大名と国衆6 尾張織田氏』 岩田書院 2011年)。
ところが、応仁の乱(1467年)がすべてを変えた。
当時、短命な当主が続いていた主君の斯波氏も乱によって東西に分裂。加えて、守護代として現地の支配者となっていた織田氏も真っ二つに割れた。尾張上四郡を支配する織田伊勢守家(岩倉織田氏)と、下四郡を支配する織田大和守家(清洲織田氏)。戦国時代の定番だが、同じ織田の一族同士で、殺し合う関係になったのだ。
さらに悪いことに、周辺の混乱が争いを悪化させた。主君の斯波氏は、越前を朝倉氏に奪われ、遠江を今川氏に奪われ、尾張だけの守護に転落。その尾張すら、二つの織田氏が勝手に分割支配する始末である。
守護の権威は地に落ちた(なお、斯波氏は桶狭間の戦い後に信長に反抗して追放→和解。その後も一族は細々と江戸時代まで生き延び、明治には男爵に)。
■信長の家は“めちゃくちゃ格下の存在”
さて、肝心の信長の家はというと、この二大織田家のどちらでもない。
清洲織田氏(大和守家)の「三家老」の一つ、織田弾正忠家である。つまり、本家から見れば、遠い一族の一員。守護代のさらに家臣という、めちゃくちゃ格下の存在だった。
しかし、信長の祖父・信定と父・信秀の代に、この弾正忠家は急激に台頭する。
織田弾正忠家が経済基盤としたのは、津島湊(現愛知県津島市)であった。津島は木曽三川の交易拠点であり、伊勢湾との物流の要衝として商人たちが集まる一大商業都市だった。ここを押さえたことで、経済力を付けた織田弾正忠家は、信秀の代の1538(天文7)年に今川氏の城であった那古野城を奪い、本拠地とした。
これによって、信秀は三河や美濃にまで軍を出すことのできる大名の地位を獲得したのである。
■走り続けないと倒れる「ベンチャー企業」のようなもの
だが、それは裏を返せば、カネの力で急成長しただけの「成り上がり」ということである。

岩倉城の織田伊勢守家からすれば「清洲の家来の、そのまた家来のくせに」。清洲織田氏からすれば「うちの家臣が調子に乗りやがって」。そして尾張中の国人たちからすれば「あいつら、昨日今日で力つけただけだろ」という具合だ。
従来の大名のように、代々の領地で土豪たちと強固な主従関係を結んでいるわけではない。カネで雇った兵、力ずくで従わせた国人たちに、見せつけるかのように常に戦って領土を奪い、暴力とカネで人心を掌握し続けなければならない。自転車操業のように、走り続けないと倒れる……やたらと新規事業を立ち上げては「成長してます!」とアピールし続けなければならないベンチャー企業のようなものである。
なにより、ベンチャー企業であっても、既得権益と対決するばかりというわけにはいかない。
形式上の主君である守護代・織田達勝(清洲城主・織田大和守家)は、父・信秀の代にはすでに実権を失っていた。それでも信秀は達勝を排除せず、むしろその権威を利用し続けた(『新修名古屋市史』第2巻)。
なぜか?
実権がなくても「守護代」という看板の力は生きていた。なにより、力ずくで成り上がった織田弾正忠家が、伝統的な権威まで否定すれば、尾張中の国人たちが「次は俺たちが潰される」と一斉に反発する恐れがあったからだ。
■「信長の軍事力」は一族や有力家臣に依存
そんな成長過程真っ只中で、信秀は病を得て死んでしまう(1552年とされる)。
そして、家督を継ぐことになったのが信長である。
正直、どんなに有能であっても逃げ出したくなるような状況である。
急成長ゆえに、その内実はハリボテのように脆かったからだ。津島の商業利益を背景に、信秀の代には一時的とはいえ西三河にまで領土を広げた。ところが、急速拡大ゆえに家臣の多くは昨日今日仕えるようになった者ばかり。
おまけに、この時期には東の今川氏との和睦も崩れ、鳴海城を失っている(『新修名古屋市史』第2巻)。拡大どころか、危機が感じられるようになっていた。
つまり、家臣からしてみれば、ここまで調子よく膨張してきたが、跡継ぎの信長は大丈夫なのか? このまま仕えていて、本当に勝ち続けられるのか? 不安でいっぱいだったろう。
しかも、拡大が急激だったため、組織体制に重大な欠陥があった。
軍事力の多くを、一族や有力家臣に依存していたのだ。
信長公記』に「一段武篇者なり」(ひときわ武勇に優れた者)と書かれた叔父・織田信光(守山城主)を筆頭に、一族の織田信次(守山城)、織田信康(犬山城)。そして有力家臣の柴田勝家、佐久間信盛、林秀貞……彼らはそれぞれ自分の城を持ち、自分の家臣団を率いていた。

信秀が生きている間は、彼らを統率できた。
だが、彼らが同じように信長に仕えるという保証はなかった。いわば、家督を継いだ時点での信長は自分の直属軍をほとんど持たない司令官だったのだ。
■「反乱」は次々と起きた
兵を動かせるのは一族と家臣たち。彼らが従わなければ、信長は何もできない。
家督は継いだ。だが、兵を動かせる実力者たちは、信長の下にいるのか、それとも信長を利用しているだけなのか……誰にもわからない。
だから信長がやるべきは、信秀の後を継いで領土を拡大することよりも先に、自分を脅かす芽を全部潰すことだった。
実際、反乱は次々と起きた。
1552(天文21)年、信長が家督を継いだ直後――清洲城の織田大和守家が敵対を鮮明にした。信長は家臣を率いて出陣し、戦いには勝利したものの、以降、清洲城との抗争は続くことになる。
さらにその翌年、父・信秀の代から仕えた重臣・平手政秀が自害。
歴史物語では「信長の奇行を諫めるため」とされるが、実際には信長と一族との確執が原因とされる。政秀の死を皮切りに、戦死や敵対で、信長は信秀の代からの重臣をほぼすべて失う大ピンチに陥った。
そこで信長が取った手段が、正室・濃姫(のうひめ)の父である美濃の斎藤道三との会見だった。
道三の支援でなんとか踏みとどまった信長だが、ここから数年は「俺、勝てるのか?」状態である。今川に寝返った鳴海城との戦い、清洲城との抗争……この二正面作戦を、道三から援軍を借りてなんとかしのいでいた。
■信長の実の弟・信勝ですら反旗を翻す
1554(天文23)年、ようやく守護代・織田大和守家を倒し、清洲城を手に入れる。
だが、これで終わりではなかった。織田が織田を攻撃し、織田が織田を殺す、血で血を洗う抗争は続いた。
そして1556(弘治2)年、決定的な事態が起きる。頼みの綱だった斎藤道三が、息子の義龍と争い、長良川畔の戦いで敗死したのだ。後ろ盾を失ったばかりか、今度は義龍が反信長勢力を支援し、敵対する織田一族が次々と暴れ出した。
さらに追い打ちをかけるように、弟・織田信勝(信行)が反旗を翻した。
有力家臣の林秀貞、柴田勝家らに擁立された信勝は、1556年、稲生(いのう)で信長と激突する(稲生の戦い)。信長は辛くも勝利したが、母・土田御前の仲裁もあり、信勝を赦免した。だが、2年後の1558年、信勝が再び謀反を企てているとの情報が入る。今度は柴田勝家が信長側に寝返り、密告してきたのだ。信長は病気と偽って清洲城に信勝を呼び寄せ、実弟を暗殺した。
実弟すら信用できない。それが信長の置かれた現実だった。
そして、反信長勢力の最大の敵が残っていた。岩倉城の織田伊勢守家(織田信賢とされる)である。
■伊勢守家からすれば“許しがたい下剋上”
伊勢守家からすれば、信長など「分家のそのまた分家の野郎」でしかない。
そもそも織田伊勢守家こそが、織田氏の本家だった。応仁の乱以前から尾張上四郡の守護代を務め、清洲の織田大和守家よりも格上、それが伊勢守家の誇りである。
その本家の目から見れば「最近のさばってる織田弾正忠家って何なの?」である。
信長なんぞは、格下の分家の、そのまた家臣。血筋で言えば、はるか遠い傍系の一族に過ぎない。それが、津島の商業利益とカネの力で急成長し、こないだ家督を継いだ若造が、主家の大和守家を倒して清洲城まで奪った。
伊勢守家にしてみれば、これは許しがたい下剋上だった。「成り上がりの分際で、織田の名を騙るな」そういう怒りがあったに違いない。かくして、義龍をバックにつけた信賢との戦いは、正面激突のみならず、互いに領地の村に火をつけるといった泥沼の消耗戦が続いた。
そして、最終的に1559(永禄2)年、岩倉城を陥落させたことで、信長はようやく尾張の統一を果たした。
■信長の冷たい眼差しは、不安と疑念の裏返し
だが、これで安心できるわけがない。
目立つ敵対勢力が消えただけで、家臣団の忠誠心は依然として不確かだった。清洲織田氏の旧臣たち、岩倉織田氏の旧臣たち、そして信長の父・信秀の代からの家臣たち、彼らは本当に信長に従っているのか、それとも力関係で仕方なく従っているだけなのか。
柴田勝家は弟・信勝を裏切って信長側についたが、それは「信長が勝つ」と判断したからだ。状況が変われば、また裏切るかもしれない(というか、脳筋っぽいのに裏切っては許されてい勝家なんなの?)。
林秀貞は信勝の反乱に加担したが、許された。本当に心を入れ替えたのか?(実際、のちに信長に追放されることになる)
つまり、信長を取り巻く家臣団は、まだ「信長の家臣」ではなく、「織田家に仕える武士たち」だった。信長個人への忠誠ではなく、織田家という看板への忠誠……それがいつ崩れるかわからない。だから信長は、冷徹に振る舞わざるを得なかった。
「こいつは容赦しない」「裏切ったら終わりだ」そう思わせなければ、組織は保てない。小栗旬が演じる信長の冷たい眼差しは、不安と疑念の裏返しなのだ。
そして、この不安定な状況は、翌1560年、今川義元2万5000の大軍が尾張に侵攻してくるまで続くことになる。

----------

昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

----------

(ルポライター 昼間 たかし)
編集部おすすめ