「近年の若者はすぐに正解を求めがちだ」という声を聞く。なぜなのか。
Z世代の行動を研究する舟津昌平氏は「若者が正解を求めるのは今に始まったことではない。重要なのは『正解を持っている人がいるのか』を理解することだ」という――。
■「正解を求める若者」をめぐる声
「近頃の若者はすぐ正解を求める」というフレーズを聞いたことがあるだろうか。ネット番組の「ABEMA Prime」では、昨年12月に「令和の若者なぜ正解を求める? メリデメを議論」と題した特集が組まれ、朝日新聞は2026年の元旦号から「最適解ラビリンス」と題した特集を開始した。
文芸評論家の三宅香帆氏が昨年上梓した『考察する若者たち』は発売1カ月で8万部を超える売り上げを記録し、その帯には「なぜ令和の若者は『正解』を欲しがるのか」と書かれていた。
近頃の若者はすぐ正解を求めるというフレーズはけっこう前から聞いたことがある気がするものの、「正解」は最近になって再燃しているテーマのようだ。
この「正解を求める若者問題」に対するリアクションは二分しているように思われる。短絡的な若者に苦言を呈する向きと、正解があるならさっさと教え(られ)た方がいいという向きである。
■「M-1で勝てる漫才の作り方」も話題に
近年は一定の「正解」が提示されたように思える事象も見受けられる。
お笑いコンテストの「M-1グランプリ」において史上初の連覇を達成した「令和ロマン」の高比良くるま氏は、15万部超の売り上げに及んだ著作『漫才過剰考察』において、優勝のためにいかに考察を巡らせたかについて述べている。三宅氏の著作では、この「考察」と正解とが結び付けて語られる。
かつ、くるま氏の考察はウケを決める観客や審査員をいかに動かすかという環境適応への関心が強く、いわゆる「ハック」に近い。
きわめて優秀なハッカーがM-1連覇を達成したという背景が、いっそう「正解が出た」っぽさを強めている。
2024年に通算20回を数えたM-1は「年々レベルが上がっている」と評され、競技として成熟し高度化している。そうした状況では、ルールに対して最適化された正解が決まっているようにみえることもある。実際に、お笑い界でも「定石」や「勝てる漫才」みたいなものはあるようだ。それを正解と呼ぶなら、また正解がどんなものか分かっているなら、最初から知っておいて損はないようにも思える。
ところで「近頃の若者はすぐ正解を求める」なんて、いつから言われ出したのだろうか。
筆者は知人から、これが「最古典」ではないかと思しき文献を教えていただいた。1972年、当時東京大学教養学部の助教授であった木村尚三郎が寄稿した「現代社会と教育」という論文内に、次のような記述があるのだ。
■かつての若者が大学教授に言ったこと
先だってのことである。私の勤めている教養学部の学生が真顔で反論した。
「だって先生、どうせ分っていることなら教えてくれた方が早いじゃありませんか。」
出し惜しみをするな、とでも言いたげな顔を私はまるで別の星からきた人のようにまじまじと眺めたものであった(※1)。

木村はのちにNHK教育テレビの番組で司会を務める著名人であり、彼の影響で同様の言説が広まったと推察できる。

注1:木村尚三郎「現代社会と教育」P.4より。堀越理菜氏より原典を提供いただいた。
いくつか興味深い事実がある。「答えを求める若者」は、最高学府とよばれる東大の学生であったということ。50年前の東大生の発言が元なのである。そして当時の学生は既に還暦を迎え、後期高齢者くらいの年になっていると思われる。
正解を求めるのは別に「令和の若者」に限った話ではないのである。令和の後期高齢者も、若かりし頃に正解を求めていたのだ。
では、50年前と今とでは、何も変わっていないのだろうか。いや、変わったものもある。周囲が変わったのだ。
上述のエピソードに関して、かつてなら木村を支持する声が多かったのではないか。
ひるがえって現代で同様の投稿を大学教員がしようものなら、異論があふれるのは容易に想像でき、ヘタしたら炎上である。キャンセルカルチャーの一環として大学に告げ口され、謝罪文を出すことになるかもしれない。
■「失敗を許さない社会」とSNSの登場
繰り返すが、若者が変わったのではない。周りが変わったのである。そして、SNSをはじめとするツールの出現も相まって、失敗した者や落ち度をみせた者に、隙あらば攻勢を仕掛けていく。
人々が正解を求める背景には、このような「失敗を許さない社会」の影響があるともいわれる。インフルエンサーとして著名なひろゆき氏は、先述の「ABEMA Prime」の番組内で以下のように発言した。
「(正解を求めるのは)若者の問題ではない。今の時代は1個の失敗で社会的にアウトになる。有名人でもXでの発言で仕事がなくなるため、失敗しないことが重要だ。失敗かもしれないことに挑戦するのはリスクが大きく、正解がわかるならそれをやる。若者ではなく大人でもそういう時代だ」
失敗した人に厳しい時代。
失敗者への仕打ちを目の当たりにした人が、若者に限らず失敗を回避しようとするのは当然であろう。
ちなみに先述の「ABEMA Prime」内において、ひろゆき氏は「失敗を許さない社会だから正解を求めるようになる」と冒頭に述べつつ、自身のキャッチフレーズである「論破」について著書で考察した三宅香帆氏にかみついている。
■スパチャで「正解」を聞く若者たち
三宅氏の新著『考察する若者たち』でも、ひろゆきさんといえば論破、と書かれている……というくだりに対し、自分で論破と言ったことはない、勝手に自分が言ったことにするな、と気色ばみ、番組の本筋に関係なく三宅氏を責め立てるさまこそ、まさに「論破」であった。
最後はおちゃらけてみせたものの、生放送で、番組の進行を無視してでも「失敗」した他者をなじる姿は「過ちを許さない現代」を自ら体現していた。
そしてひろゆき氏は、「正解を与えるビジネス」を営むインフルエンサーの一人だ。ひろゆき氏は自身のネット配信において「スパチャ(スーパーチャット。有料のコメント機能で、配信者に読まれやすくなる)」で投げかけられた質問に答え、累計で1億円以上のスパチャを得ているとも言われる(注2)。一大ビジネスである。
悩める視聴者の問いかけに対し、ひろゆき氏は流麗に答え、視聴者は礼を述べる。それは傍目からみれば、「正解」の授受がなされているようにしかみえない。本人らがそういうつもりなのかはわからないが。
注2:ライブランク!「ひろゆき, hiroyuki」ページより
■「正解を求めること」の正体
ここで、「そもそも正解を求めるって何?」という別の問いが浮上する。
スパチャで配信者から質問に答えてもらうのは「正解を求める」行為だろうか?
先述の高比良くるま氏と三宅香帆氏は「Voice」誌で対談しており、そこでくるま氏は、自身が過剰といえるまでに考察を重ねることは、正解を求めているわけではないと述べている。「勝ち方をあれこれ考えてみる」のと「正解を求める」のは異なるのだ。ヤヤコシイ。
ひろゆき氏は「ABEMA Prime」内で、感想を言う人が多すぎるのに対して自分は根拠を言うことを心掛けている、と述べた。
二人には似た部分がある。つまり、正解なるものは「正解そのもの」と「正解を求めるプロセス」とに分解できる。数学でいえば、最終的な答えと途中式である。
中学や高校の数学を思い出してほしい。与えられた問題について仮に答えだけ知っていても、それで乗り切れる場面はあんまりない。難しいテストほど途中式を書かされる。途中式まで書けて初めて数学ができるのだといえる。実際の採点でも、途中式がでたらめで答えだけ合っている解答は減点対象になるか、最悪「×」である。

途中式をほっぽって答えだけ知ろう、という態度がダメなのであり、それこそが否定されるべき「正解を求める態度」である。そして、正解を提示しているようにみえるくるま氏やひろゆき氏は“途中式を重視している”、と解釈できるだろう。くるま氏は途中式を考察しているのであり、ひろゆき氏は途中式としての根拠を述べているのだ。
■教師は本当に正解を知っているのか
大事なのは途中式なのである。一定の途中式を書けていれば部分点はもらえるし、正しい途中式を知っていれば正解にたどり着けるはずだし。
じゃあ、途中式を無視しない限り、他者に正解を求めても問題ないのだろうか。
実は先述した東大教授・木村尚三郎の論文にはまだ続きがあり、かつ非常に興味深い考察を重ねている。木村はなぜ、「正解を求める東大生」を「別の星からきた人」のように見たのだろう。東大の先生に逆らうとは許せん! と憤ったのだろうか。
違うのだ。むしろ逆である。
「教師はなにごとか『分った』存在であり『分らない』学生に教え込むべき立場にある――ちょうどお茶やお花のお師匠さんが弟子に対するように(中略)学生はわれわれをそう受け取っているようだ」
木村は、自身が学生だった頃、先生方に尊敬はあったけれども、そんなに人間が簡単に「分る」はずがないと思っていたとも述べている。学生が先生に正解を求めようとするのは、当たり前ながら「先生が分っている」つまり「正解を知っている」という前提があるからである。
木村はそうした教師への扱いを「過大評価」と一蹴する。大学教員ごときが正解を知っていると思うな痴れ者、といったところだろうか。
他人から正解を得ようとすることは、正解を与えてくれる他人を権威化することと密接に繋がっている。権威化されると与えられる正解に疑義を挟まないようになり、異論を封殺するようになる。木村は大学教員の立場から敢えて、教員を権威化するなと宣ったのだ。
相手が答えを知っていると思うから訊こうとする。その態度が既に、相手を過大評価し権威づけるという問題を引き起こしているのである。
■ひろゆき氏の回答を実行した結果
先述の「ABEMA Prime」の番組内に出演した若者・わたるさん(仮名)は、ひろゆき氏の配信でスパチャをしたことがあるという。
わたるさんがひろゆき氏にスパチャしたのは、就職活動で悩んでいたときに、就活のために何をやったらいいですか、と聞きたかったからだそうだ。ひろゆき氏は「英語と簿記をやれ」とアドバイスしたらしい。
だが、わたるさんが就活で実際に興味を持ってもらえたのは、「京都の神社でバイトをしていた経験」だったとのこと。わたるさんはこの顛末について「大人からもらった正解が違うこともあるんだ、という気づきがあった」と語る。いかにも若者らしい素朴な気づきながら、「正解を求める若者問題」に示唆を与えてくれるエピソードである。
英語と簿記を頑張ってみたとして、就活はだいたい相対評価であるため、よほど抜きん出た成果でないと差はつかないし、多くの人が取り組んでいるので競争優位もない。反対に、自分としては就活の役に立つとは思いもしなかった話が独自性をアピールする機会になり、役に立ったというわけである。
■他人の回答はただの「補助線」
注意すべきは、別にひろゆき氏の回答が間違っているわけではないという点だ。むしろ何も間違っていない、妥当極まりない一般論である。大学の先生でも実家のオカンでも、誰でも言えそうな一般論であり、正解とすら呼べないかもしれない。
就活のために何をすればいいですか? と訊かれたら、木村ならきっと、そんなことについて他人が正解を知っていると思うな、と答えるだろう。他者のアドバイスはヒントや指針にはなるかもしれない。補助線は引けるかもしれない。しかしそこから「正解」を導くためには、正解をもらった自分自身の試行錯誤こそが必要なのである。
しかも、正解は一定の条件下で成立するものなので、状況や時宜によって変化する。M-1を連覇した令和ロマンさんの漫才は、完璧な途中式をもって最適解を導き出したかのようにみえただろう。
しかしその翌年の2025年にM-1で優勝した「たくろう」さんの漫才は、「途中式」も「解答」も令和ロマンとは全く異なるものであった。最適解らしきものを否定しうる反例がわずか1年で生まれたわけである。
絶対的な強者から正解を見いだしたとて、正解の賞味期限は翌年までもたないかもしれない。そして強者側も、正解を与えたつもりなど自分にはさらさらないのだが、と困惑する。そもそも正解など、ほとんどの問いに対して何ら見つかっていないのかもしれない。数学にも「解なし」の設問がそこそこあるように。
■若者の求める「正解」はどこに
「近頃の若者は正解を求める」と(おそらくは日本最古で)嘆いた東大の先生が戒めていたのは、他者を権威化し、正解を与えうる装置とみなすことであった。それは往々にして他者が過大評価されており、主体の考える力を奪い、依存を生む態度である。
その意味において、ひろゆき氏は決して正解など分かってはいない。それは、ひろゆき氏が正しい根拠を述べているかとか、ちゃんとしたことを述べているかとは全く別の問題である。
正解を導くには途中式が何より大事である。他人のアドバイスは補助線にはなるが、補助線にしかならない。頑張って解こうとしても「解なし」の設問かもしれない。「正解を求める問題」の是非を議論するうえでは、こうした前提を共有しておくことが必須であるように思われる。
この記事に「何の正解も書いていない」と思われた方がいれば、それは至極正しい読解なのである。

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舟津 昌平(ふなつ・しょうへい)

経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師

1989年、奈良県生まれ。京都大学法学部卒業、京都大学大学院経営管理教育部修了、専門職修士(経営学)。2019年、京都大学大学院経済学研究科博士後期課程修了、博士(経済学)。京都産業大学経営学部准教授などを経て、2023年10月より現職。著書に『経営学の技法』(日経BP社)、『Z世代化する社会』(東洋経済新報社)、『制度複雑性のマネジメント』(白桃書房/2023年度日本ベンチャー学会清成忠男賞書籍部門、2024年度企業家研究フォーラム賞著書の部受賞)、『組織変革論』(中央経済社)、『若者恐怖症 職場のあらたな病理』(祥伝社)など。

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(経営学者、東京大学大学院経済学研究科講師 舟津 昌平)
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