50代、60代が幸せな人生を生きるには何をするべきか。精神科医の和田秀樹さんは「『もう残りの人生ぐらい、安楽に生きてもいいんじゃないか』と考えるか、逆に『残り少ない人生で何ができるか』と考えるかで、生き方はずいぶん違ってくる」という――。

※本稿は、和田秀樹『死ぬのも楽しみ』(廣済堂出版)の一部を再編集したものです。
■死に対する恐怖感の根底にあるもの
私は精神科医ですから、死を美化することはできないし、そのつもりもありません。
とくに、自殺防止は精神科医に課せられた大事な任務になります。そうでなくても、うつ病の患者さんのように「死にたい」と訴える人がいますし、高齢者でも「そろそろお迎えが来てくれないかな」とつぶやく人もいます。
そういう人たちに対しても、なんとか生かしてあげようとするのが日本の医者です。
望まなくても人間はいつか死にますが、急ぐ必要はないし、自分から死を早める必要もないからです。
死を美化するつもりはないというのは、私自身の死生観がそうだからです。
死に関して私は唯物論の立場です。信仰している宗教もありません。
死ねばまず意識がなくなり、その後、肉体も腐ってしまいます(実際には火葬ですから骨だけが残ります)。
意識が消え、肉体も消え、この世に自分という存在がなくなるというのはイメージとしては怖いです。
というよりイメージすら浮かんでこないでしょう。
自分という存在の何もかもが消えてしまうという根源的な恐怖感が日本人にはあります。
■死は生の世界から死後の世界に行く中間点
欧米の人たちはそこが違います。ヨーロッパやアメリカのようなキリスト教の国は死後の世界を信じていますし、イスラム教国も死後の世界を信じています。死は生の世界から死後の世界に行く中間点(通り抜ける地点)という考え方です。
だから、生の世界での生き方によって、死後の世界で幸せになれたりなれなかったりすると考えます。ウォーレン・バフェットのように欧米の大富豪は生前に遺産のほとんど、莫大な金額の寄付を実行する例が珍しくないのも、そういったキリスト教の教え、生前の生き方が死後の世界の幸福度を決めるという考え方があるからでしょう。
そういう考え方は、死ねば何もかもなくなってしまうという日本人の絶対的恐怖感からすれば、死に対してはるかにリラックスした感覚を生み出します。それが表れたのが、あのコロナ禍のときでした。
■マスクをつけ続けた日本人
コロナの渦中にあって、死を避けるために日本人は国の指図を何もかも受け容れました。感染しないためにつねにマスクをつけ、旅行どころか外出も控えて家に閉じこもりました。
ヨーロッパは違います。他人と話すときは正面から向き合い、その口元を見て会話する習慣がありますから、コロナ禍でも家族など親しい人と話すときはマスクをつけませんでした。
外出も外食もいつも通りに楽しんでいました。
日本人はどうかといえば、どんなに親しい人と向き合うときにもマスクはつけたままで会話しました。自宅でもマスクを外さない人が大勢いました。友人や同僚との外食も避け、もちろん旅行も控えました。行動の自由を制限されて、それに従ったことになります。
そこにもちろん、他人に迷惑をかけたり不安を与えたりしたくないという気遣いを汲み取ることはできます。周囲の視線を気にする、いわゆる同調圧力を読み取ることもできます。
でもひとりで外出するときも、決してマスクを忘れなかったのがほとんどの日本人でした。根本に感染死への恐怖感があったからだと思います。
■生を愛し、楽しみ尽くすという生き方
私が言いたいのは、日本人はたとえ生きることの喜びや楽しみを封じ込めても、そこまでして生にしがみつきたいのかということです。自由という人間の尊厳を奪われても、生きていることのほうが大事なのかということです。
コロナ禍を生き延びても、どうせいつかは死にます。
がんのような病気でも、治療や手術がうまくいっても、いつかは死にます。
いつか死ぬことは間違いなくても、いつ死ぬか、いつまで生きていられるかはわかりません。死は確実にやってくることですが、生はいつまで確実なのかわからないのです。
だとすれば、生きているときに生を楽しみ尽くす生き方を選んでいいはずです。
死を遠ざけようとして、楽しみを封じ込めたり、やりたいことを我慢したりするより、「そのときはそのとき」と構えて、ゆったりした気持ちで過ごしてもいいはずです。
「死ぬのも楽しみ」という考え方は、楽しく生きることのゴールを穏やかな気持ちで見つめることでもあるのです。
■「蜘蛛の糸」を思い出したコロナ禍
新型コロナウイルスの波状攻撃が続いて、日本中で行動の自由が制限されたとき、ほとんどの人は室内に閉じこもって感染しないように無言で暮らしました。マスクをしないで人前に出たり、不要の外出や旅行をしたりする人もほぼいませんでした。
べつに飛行機や新幹線が運転を取りやめたわけではないし、レストランや居酒屋が休業したわけでもありません。客が来ないから店を閉めたケースはあったでしょうが、すべて自粛です。「感染させるな」「ウイルスをまき散らすな」という圧力がそれだけ強力だったのです。
まず自分が感染しないことが大事ですから、とにかくガードを徹底しました。
マスクはたちまち売り切れて入荷未定、日本中、どこに行ってもマスクの入手に血眼(ちまなこ)でした。ワクチン接種を一刻も早く受けたくて、そのために右往左往しました。
その様子を見て、私が思い出したのは「蜘蛛の糸」でした。
誰でも知っている芥川龍之介の短編小説です。
地獄に住む悪人が、生前にたったひとつの善行として一匹の蜘蛛を救ったことがあると知った釈迦から、一本の蜘蛛の糸、救いの糸を垂らしてもらいます。
それにつかまれば地獄を抜け出して極楽で暮らせます。ところがそれを見た地獄の悪人たちがみな、自分も救われようとしてその糸に争ってぶら下がります。
■死にたくないという恐怖心から不自由を受け入れる
誰でも知っている話ですから、結末もご存じだと思います。
最初にぶら下がった悪人は、自分の下に大勢の悪人がぶら下がっているのを見て、糸が切れたら困るので悪人たちに「手を放せ」と叫びます。
すると、蜘蛛の糸は、その悪人の上で切れてしまいます。蜘蛛の糸で救われたはずの悪人は、自分だけ助かろうとしたために罰が下され、結局、大勢の悪人とともにまた地獄に落ちてしまうという小説です。
私は、コロナ禍で日本人は自分だけ助かろうとしたと言うつもりはありません。
医療関係者の多くは、自分が感染するかもしれないという状況の中で仕事をし、実際に多くの人が感染してしまいました。
けれども、日本全体を見たときに、死にたくないという恐怖心からあらゆる不自由を受け入れ、閉じこもってひたすら感染から逃れようとした人々を、蜘蛛の糸にしがみついているように私は感じたということだけ書いておきます。
■高齢者ほど、自由を最優先させて生きたほうがいい
「人と人のつながりとか移動の自由とか、そんなものは命あっての話じゃないか」という考え方もあるでしょう。それは、生きていることがすべての前提になるという考え方ですから、それなりの説得力があります。
でも、命は必ず絶えます。しかもそれがいつ来るかは誰にもわからないのです。
死ねばすべてが終わるのですから、命は不確かです。確かなことは生きている間だけで、そこを幸せに過ごすことが私たちにはいちばん大切なはずです。
幸せに過ごすためには、好きなことや、自分がやってみたいことを気軽に実行してみるのがいちばんです。食べたいものを食べ、見たいものを見たり、会いたい人に会ったり、訪ねてみたいところを訪ねるといった、自由度の高い生き方を選んだほうがいいはずです。
そこで、「でも」とか「どうせ」とか、自分を押しとどめることなんか考えなくていいのです。
「でも」や「どうせ」を繰り返して高齢期まで生きてきた人は、もう十分でしょう。

「まだ先が長いのだから、いまは我慢しよう」という考え方は捨てていいし、捨てなければいけない年齢になっています。
80代ともなれば、少なくともかつてより、すべてが終わる時期が近づいているのですから、高齢者ほど自由を最優先させて生きたほうが幸せを実感できるはずです。
そして、幸福感に包まれたまま死を迎えることができたら、死を恐れる気持ちも小さくなるでしょう。「楽しい人生だった」と思えて死ねるなら、こんな幸せな死はないからです。
■やりかけのことを終わらせるべきか
高齢になると同世代の死と向き合います。親しかった知人や友人たちの葬儀に出ることが増えてきます。
そのとき、「私に残された時間も少なくなったんだな」とほとんどの人が気づきます。
大事なのはそこからです。そこからどう考えるかということです。
「もう残りの人生ぐらい、安楽に生きてもいいんじゃないか」と考えるか、逆に「残り少ない人生で何ができるか」と考えるかで、生き方はずいぶん違ってくると思います。
たとえばどんな人にも「やり残したこと」があるはずです。
あるいは「やりかけのこと」があります。
それをどうするか?
「何ができるか」と考えれば、やり残したことや、やりかけのことをまず終わらせなくちゃと考えます。残りの時間がどれくらいあるか誰にもわからないのですから、期限は不確実です。こうなると焦ります。生き急ぐような暮らしになります。
■やり残したことは安楽に生きること
でも、「どうせ残り少ないんだからのんびり、好きなことだけやって暮らそう」という安楽な生き方を選べば、焦りはなくなります。こちらはゆっくり生きる暮らしです。
精神科医の立場から見れば、ストレスのない暮らしこそが心身の健康を保ちます。老いにも死にも逆らえませんが、幸せな晩年を過ごせることだけは間違いありません。
「でも、それでは人生に悔いを残す」と思う人もいるでしょう。「やり残したことを悔やんで死ぬことになる」と考えるからです。
そこで大きな人生観を取り戻してください。
やり残したことは安楽に生きることです。
言い換えれば、自分がやってみたいこと、好きなことだけを楽しんで自由に生きることです。それさえできれば、幸せに暮らすことができます。
ほとんどの人にとって、いちばんやり残したことは好きなことを自由に楽しむ生活ではないでしょうか。
■中途半端でもいいから、やり残したことはやってみる
50代、60代であれば、やり残したことの中には人生の目標が含まれているかもしれません。
たとえば都会暮らしを切り上げて山の中で暮らすとか、クルーズ船で世界中の港をめぐってみるとか、絵や小説のような好きな分野で認められて賞をもらうといったようなことです。残りの人生で実現できれば幸せですが、たいていは実現できないまま70代、80代を迎えてしまいます。
「いまからじゃ、無理だな」とあきらめたあと、それでも悔いが残るようでしたら考え方を変えてみてください。
実現にこだわれば焦ります。でも、本当にやってみたかったことならやればいいのです。
バッグに着替えだけ放り込めば数日の山小屋暮らしならできます。世界中はまわれなくても国内の船旅ならできます。賞はとれなくても描きたい絵や小説に挑んでみることならできます。
それがどんなに中途半端でも、やってみたいことができれば、とりあえず幸せな気分は味わえるでしょう。
そんな調子で、好きなことややってみたいことにあれこれ手を出して、とりあえず幸せだと思えるなら、「あとはもう、死ぬまで好きなことやっていればいいんだな」と納得するでしょう。
「死ぬのも楽しみだ」と自然に思えてくるかもしれません。少なくとも、楽しい人生のままで死んでいけます。
■「あいつは勝手なやつだけど、幸せな男だったな」
私自身、がんにでもなって残りの人生が3年とわかったら大きな映画を一本撮りたいと思ったことがあります。ですが、撮影中に資金が続かなくなるかもしれないし、借金してヒットしなければ迷惑をかけてしまいます。
でも、好きなことができて、そのまま死んだら幸せなんだろうなとも思います。たとえ完成が間に合わなくて、途中で死んだとしてもです。
やりたいことはやってみる。中途半端でもどんな形でもいいから、幸せなままで人生を締めくくる。高齢になったら、自分の気持ちに正直に生きても恨まれることはないでしょう。
「あいつは勝手なやつだけど、幸せな男だったな」と思われたら、その通り、その人にとっては幸せな人生のような気がします。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)

精神科医

1960年、大阪府生まれ。東京大学医学部卒業。精神科医。東京大学医学部附属病院精神神経科助手、アメリカ・カール・メニンガー精神医学校国際フェローを経て、現在、和田秀樹こころと体のクリニック院長。幸齢党党首。立命館大学生命科学部特任教授、一橋大学経済学部非常勤講師(医療経済学)。川崎幸病院精神科顧問。高齢者専門の精神科医として、30年以上にわたって高齢者医療の現場に携わっている。2022年総合ベストセラーに輝いた『80歳の壁』(幻冬舎新書)をはじめ、『70歳が老化の分かれ道』(詩想社新書)、『老いの品格』(PHP新書)、『老後は要領』(幻冬舎)、『不安に負けない気持ちの整理術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『どうせ死ぬんだから 好きなことだけやって寿命を使いきる』(SBクリエイティブ)、『60歳を過ぎたらやめるが勝ち 年をとるほどに幸せになる「しなくていい」暮らし』(主婦と生活社)など著書多数。

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(精神科医 和田 秀樹)
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