なぜ明智光秀は「本能寺の変」を起こしたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「現在、光秀の動機については、四国説が有力だ。
そこには光秀にとっては格下のライバルのはずだった秀吉の行動が関係している」という――。
■外様だった明智光秀の出世のきっかけ
天正10年(1582)6月2日、京都の本能寺で主君の織田信長を討った明智光秀と、その光秀に勝利した羽柴秀吉。それまで2人はよきライバルでもあり、ときにポジティブな影響もあたえ合ったが、光秀の晩年、ライバル関係のバランスは崩れようとしていた。そのことが本能寺の変に結びついた、という話を以下にしたい。
秀吉の前半生は、周知のように不明な点が多いが、光秀も前半生のことはあまりわからない。美濃(岐阜県南部)か近江(滋賀県)に生まれ、美濃の守護の土岐氏に仕え、斎藤道三と長男の義龍が戦った長良川合戦に、義龍側として加わったという記録がある(『美濃明細記』)。
その後は越前(福井県北部から東部)の朝倉義景を頼り、そのころ、のちに将軍になる足利義昭と出会い、続いて、義昭を供奉して上京した信長と出会ったようだ。『細川家記』によれば、信長を頼るように義昭に勧めたのは、光秀だったという。そして、義昭と信長に両属するように仕えながら、徐々に重心を信長に移していったようだ。
だから、信長の家臣としては外様だが、武将としても吏僚としても評価が高く、ことに元亀2年(1571)9月12日の比叡山延暦寺の焼き討ちでは、光秀が実行部隊の中心となって武功を挙げた。このため、近江に5万石相当の所領を与えられ、坂本城(滋賀県大津市)を築いている。この坂本城は、羽柴秀吉を大いに刺激したと思われる。

■信長の安土城に次ぐ高評価
光秀が築いた坂本城について、イエズス会の宣教師であったルイス・フロイスは、著書『日本史』に次のように記している。
「明智は、都から四里ほど離れ、比叡山に近く、近江国の二十五里もあるかの大湖(琵琶湖)のほとりにある坂本と呼ばれる地に邸宅と城塞を築いたが、それは日本人にとって豪壮華麗なもので、信長が安土山に建てたものにつぎ、この明智の城ほど有名なものは天下にないほどであった」(松田毅一・川崎桃太訳)
信長の安土城(滋賀県近江八幡市)に絢爛豪華な天守がそびえる6年ほど前、すでに坂本城には、大小2棟の豪壮な天守がそびえていたことがわかっている。しかも、琵琶湖の水運の要に位置し、比叡山と京都の双方を監視する役割を負ったということは、光秀が信長の重臣中でもとくに重要な地位を得たことを意味する。
それに、この時代の城はまだ、要害堅固な山上に築かれることが多かったが、坂本城は違った。琵琶湖沿いの平地に築かれた「平城」で、しかも、城を三重に取り囲む水堀に湖水を引き入れた「水城」だった。守りのうえでも水運を活用できる点でも先駆的な城だった。
そして秀吉は、坂本城が築かれた2年後、それとそっくりな城を築いた。長浜城(滋賀県長浜市)である。
■光秀の城とそっくりな秀吉の城
天正元年(1573)9月に近江の浅井長政が滅ぼされると、秀吉はその功績を認められ、信長から浅井氏の旧領の支配を託された。しかし、浅井氏の拠点であった小谷城(滋賀県長浜市)は、琵琶湖から離れていることなどから避け、琵琶湖沿いの今浜にあらたに築城し、地名を長浜とあらためた。
この長浜城が坂本城とそっくりだった。やはり琵琶湖に面した平地に築かれた「平城」および「水城」で、堀には湖水が引き入れられ、本丸には天守が建った。
また坂本城同様、時代に先がけて石垣で固められた。いずれも湖畔には、城を囲むように城下町が形成され、城下町を統率する拠点としても有効に機能した。
2つの城が築かれるに際しては、琵琶湖の水運を軍事的にも経済的にも最大限に有効利用しようという、信長の戦略的な意図が働いたと思われる。
とはいえ、ライバルたる光秀が築いた坂本城が、フロイスに賞賛されるなど、かなりの評判を勝ちとっていたという事実に、秀吉が刺激されなかったはずがない。よく似た2つの城がともに、光秀と秀吉にとっての出世城と呼べるほど、その後の2人は順調に出世を重ねていった。
■光秀と秀吉の評価が入れ替わったワケ
こうして天正8年(1580)、すなわち本能寺の変の2年前の時点では、「各方面で複数の分国から動員した大規模な軍団を指揮し、麾下(きか)だけで敵対する戦国大名と戦える部将は、中国の羽柴秀吉、北陸の柴田勝家、そして畿内の光秀という三人にしぼられた」(桐野作人『本能寺の変の首謀者はだれか』吉川弘文館)。
しかも、この3人のなかでは、最重要の畿内を任されていた光秀が、織田政権における事実上のナンバーツーだったといえよう。
この年の8月、信長は筆頭家老で長年の功労者であった佐久間信盛に、十九カ条の折檻状を突きつけて消極的姿勢を指弾し、高野山に追放した。その第三条には「丹波国日向守働き、天下の面目をほどこし候。次に羽柴藤吉郎、数ヶ国比類なし」と書かれている。真っ先に光秀、次に秀吉の名を挙げ、2人を絶賛しつつ、比較して信盛を攻めているのだ。
つまり織田家の重臣中、光秀と秀吉が特別で、このライバル2名のうちでは、光秀のほうが覚えはめでたかったことがわかる。
ところが、天正8年(1580)8月ごろから光秀の立場は失われていった。
■信長の四国戦略の変更
信長は10年にわたって大坂本願寺と戦いながら、本願寺方について、水軍を駆使して抵抗する阿波(徳島県)の三好家に手を焼いてきた。このため、土佐(高知県)を拠点とする長宗我部元親を利用して、三好を攻略することを考えた。天正6年(1578)10月には、元親の嫡男に「信」の字をあたえて「信親」と名乗らせ、元親が四国全土を攻略することを容認した。その際、信長と長宗我部家をつなぐ「取次」の役を担ったのが光秀だった。
ところが、天正8年(1580)8月に大坂本願寺との戦いが終わると、信長は一転して、元親の勢力拡大を危険視しはじめた。ちなみに、本願寺攻めの責任者が前述の佐久間信盛だったから、信盛追放と同時に、信長は四国戦略を変更したことになる。
翌天正9年9月ごろ、信長は光秀を通じて元親に、支配地域は土佐と阿波の南半分にとどめるように指示したが、元親は「約束が違う」と拒否。すると信長は、阿波は阿波三好家出身の三好康長の支配下に置くので、元親は土佐1国だけで納得するように、とさらに厳しい条件を突きつけた。
なぜ光秀が元親の取次を務めたのかだが、元親の事績を記した『元親記』によれば、元親の妻が光秀の重臣である斎藤利三の義理の妹で、利三が元親の小舅だったからだという。光秀は長宗我部家が滅ぼされないためにも、信長の命に従うように必死に説得したが、元親からは返答がない。次第に光秀は立場が追われ、元親との縁のきっかけとなった斎藤利三との関係も微妙になっていく。

■秀吉の活躍のせいで追い詰められる
ところで、信長が元親の勢力拡大を危険視するようになったのは、秀吉が進めていた中国地方の対毛利戦略が、思いのほか進展したからだった。天正8年(1580)の時点で、秀吉は播磨(兵庫県南西部)の三木城(兵庫県三木市)を兵糧攻めの末に落とし、弟の秀長の力で但馬(兵庫県北部)を平定し、さらに淡路を制圧して、播磨灘の制海権を獲得していた。
秀吉は淡路の領有化を進める過程で、信長が手を焼いてきた阿波の三好家を麾下に取り込んでいった。すなわち、瀬戸内海の制海権を握る毛利水軍と三好水軍に対し、前者に対しては調略を進め、後者は取り込んでいったのだ。
こうして秀吉が、三好家を服属させつつ瀬戸内海の東半分を確保したおかげで、信長としては、長宗我部の力を借りずに済むことになった。だったら、むしろ長宗我部の勢力が大きくなりすぎないほうがいい。この状況と戦略の変更に翻弄されたのが、長宗我部への取次を一手にまかされていた光秀だった。
そして元親から返答がないまま、光秀は元親への最後の説得を試みていた。ところがその最中に、信長は三男の信孝を総大将として、元親征伐を兼ねた四国出兵の命令を下してしまう。しかも、出兵が予定されていた日は6月3日、すなわち本能寺の変の翌日だった。
■本能寺の変を起こした動機
もっとも、この時点で、光秀が信長の信頼を失っていたとは思えない。金子拓氏は次のように書く。
「しかし言えるのは、本能寺の変直前においても、信長は光秀を強く信頼していたことである。(中略)つまり光秀は、武田攻め、家康らの接待、そして中国攻めのための出陣と、信長の命を受け休む間もなく奔走していたのである。これだけ立てつづけに重要な役目を与えられるのだから、信頼されていないはずはない」(『織田信長 不器用すぎた天下人』河出書房新社)。
そうはいっても、佐久間信盛の例もある。長宗我部元親に対する取次としての立場を完全に無視された光秀が、信長による四国討伐を、明智家の存亡の危機として受け取っても不思議はない。
現在、光秀が本能寺の変を起こした動機については、この「四国説」が有力である。光秀を追い詰めたのは信長である。しかし、信長が戦略を変更したのは、光秀にとっては格下のライバルのはずだった秀吉による、瀬戸内海の制覇があった。
秀吉に光秀を追い詰める意図があったかどうかはわからない。しかし、最後に天下を取った秀吉の力量のほうが、結局は光秀より勝っていた、ということはいえるのだろう。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。
日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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