NHK「ばけばけ」では、ヘブン(トミー・バストウ)とトキ(髙石あかり)の新婚生活が始まった。実際の小泉八雲とセツ夫妻は、どんな生活だったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などから史実に迫る――。
■朝ドラの「広い新居」は創作
正月に松江を訪れたら、地元の人が揃って「あと、どれくらい松江にいてくれるかな」と話していたNHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」。いよいよ、ヘブン(トミー・バストウ)とトキ(髙石あかり)の新婚生活が始まった。
作中で描かれる新居は、司之介(岡部たかし)とフミ(池脇千鶴)も一緒に4人で住める、なかなか広い武家屋敷だ。「ここが居間、ここが台所」「広い~」とはしゃいでいた一同だが、あくまでこれは創作である。
実際、彼らが引っ越した家はどんなものだったのか?
吉沢亮が演じる教師のモデル・西田千太郎の日記によれば、八雲とセツが「小泉八雲旧居」として保存されている北堀町の屋敷に引っ越したのは、1891年6月22日のことである。セツによれば、それまで暮らしていた末次本町の屋敷は、中海と宍道湖を繋ぐ大橋川に面していて眺望もよく気に入っていたが「ここでは不便が多い」と引っ越したという。
実際、末次本町の屋敷跡を訪れてみると、当時は川に面した路地の奥、小さな船着き場もあり朝日も夕日も楽しめる絶景だったことがわかる。
八雲が教壇に立っていた中学校(現在の島根県警察本部あたり)には、旧居よりもこちらのほうが近い。それでも引っ越したのは、やはり冨田旅館ときっぱりと関係を断ちたかったのではないかと想像できる。
(参考:「ばけばけ」では描けない"妾騒動"の知られざる史実…小泉八雲が「送り込まれた愛人候補」を拒み続けたワケ
■生活したのは「八雲・セツ・女中・子猫」だけ
なにしろ、最初は女中として住み込んだはずのセツが、わずか数カ月で妻になっている。当時の松江は人口3万人ほどの城下町、それも外国人教師の動向となれば、噂は一晩で町中に広がったはずだ。
「あの西洋人の先生、女中さんと一緒になったそうだ」と、井戸端でも、料亭でも、話題にならないわけがない。
セツ自身も「洋妾」呼ばわりされることを苦にしていたとされるし、現代に伝わる昭和に入ってからの冨田旅館の証言をみると、女将はかなり噂好きな性格だと窺える。孤独な少年時代を送り、家族の温もりに飢えていた八雲にとって、ようやく手に入れた愛する妻だ。好奇の目に晒すわけにはいかない。引っ越しは、世間の視線から彼女を守るための、八雲なりの精いっぱいの愛情表現だったのかもしれない。
こうして、実際に新居に引っ越したのは、八雲、セツ、女中、そして一匹の子猫だけだった。
この猫には、ちょっとした逸話がある。春頃、子供たちが川に沈めて遊んでいるのをセツが見つけて連れて帰った。仔細を聞いた八雲は「可哀想に」と猫を懐に入れて慈しんだという(小泉節子・小泉一雄『小泉八雲』恒文社1976年)。孤独な少年時代を送った八雲らしい優しさだ。
さて、ここで疑問が湧く。家族はどうしていたのか?
■新居は“狭すぎた”
実は八雲は先立って、西田の仲介でセツの実母チエ(北川景子が演じるタエのモデルとされる)の経済援助を申し出ており、チエは別に家を借りて暮らしていた。

一方、セツの養家である稲垣家については、この時期の西田の日記にも言及がない。ただし後に八雲が熊本へ移る際には稲垣家の面々も同行しているので、なんらかの援助はしていたはずだ。
月給100円の高給取りとはいえ、八雲の給料だけで三世帯を支えるのは、いささか浪費をしているようにも見える。ドラマを見たら「武家屋敷を借りたのだから、全員同居すればいいのでは?」と考える人もいるだろう。
答えは簡単だ。新居が、狭すぎたのである。
この新居の思い出をセツは次のように記している。
湖の好い眺望はありませんでしたが、市街の騒々しいのを離れ、門の前には川が流れて、その向う岸の森の間から、お城の天守閣の頂上が少し見えます。屋敷は前と違い、士族屋敷ですから上品で、玄関から部屋部屋の具合がよくできていました。山を背にして、庭があります。この庭が大層気に入りまして、浴衣で庭下駄で散歩して、喜んでいました。
しかし、庭こそ気に入ったものの、家そのものは正直に言えば、狭かった。

■襖一枚で仕切られただけの日本家屋
それまで、武家屋敷から零落して狭い長屋に家族が身を寄せ合っていたのだから、それに比べると天国かもしれないが、女中を含めて3人で暮らすには決して広くない。
それは、間取り図を見れば一目瞭然だ。
六畳半が2部屋、六畳、九畳、五畳、四畳、三畳……一見、部屋数は多い。だが、これは日本家屋である。襖一枚で仕切られているだけで、プライバシーなどあったものではない。しかも廊下がないから、ある部屋から別の部屋へ行くには、必ず誰かの部屋を通り抜けなければならない。
夫婦の寝室、八雲の書斎、女中の部屋、それだけで手いっぱいだ。
もっとも、現代のように個室とプライバシーの意識が確立していたわけではない。明治の日本家屋では、家族が襖一枚隔てて暮らすのは当たり前だった。狭くても構わないというなら、実母や養父母も一緒に暮らすことは不可能ではなかっただろう。
なお、「狭い」「狭い」と書いてきたが、実はこの家、普通の家族なら十分に暮らせる広さだった。
■「絶妙な狭さ」が、八雲に“家族”を教えたか
この家は2018年に松江市が所有し整備するまで長らく、持ち主の根岸家が管理していた。
聚海書林『わが心わが山陰:小泉八雲の見た神々の里』(聚海書林1982年)には、1982年当時の話として、一部の部屋は公開されているが、当代の根岸家当主が暮らしていることが記されている。
それゆえに、八雲とセツはあえて二人(と、女中+猫)だけの空間を選んだと考えるのが、もっとも自然だろう。
なにしろ、八雲は不幸な結果に終わった最初の結婚を除いて家族というものを知らない。それに、最初の結婚も妻との二人の生活であった。ゆえに、急に妻の家族が増えるという嬉しさはあっても、どう対応してよいのかわからなかっただろう。
(参考:だから「普通の英語教師」になれなかった…ばけばけ・小泉八雲が「最底辺の移民」から「文学の巨人」になれたワケ
それができるようになるためには、時間が必要だった。
この小さな武家屋敷での暮らしは、八雲にとって「家族のリハビリテーション」だったのかもしれない。襖一枚隔てた距離で、妻の気配を感じる。朝起きれば茶を淹れる音が聞こえ、庭に出れば女中が声をかけてくる。猫が膝に乗り、セツが微笑む。
この「絶妙な狭さ」が、八雲に家族というものを少しずつ教えていった。
■初めて体験する「家族の温もり」
もし広い屋敷で、それぞれが離れた部屋で暮らしていたらどうだろう。
顔を合わせるのは食事の時だけ、あとは各自が自分の世界にこもる。それでは、孤独に慣れきった八雲は、また殻に閉じこもってしまったかもしれない。
襖の向こうから聞こえる生活音。誰かがいる気配。呼べば返事が返ってくる距離感。プライバシーゼロの、この息苦しいほどの近さが、かえって八雲の心を開いたのではないか。
書斎で原稿に向かっていても、襖一枚隔てた向こうにはいつでも愛する妻がいる。茶を淹れる音、猫をあやす声、女中と交わす何気ない会話……それらすべてが、八雲にとっては初めて体験する「家族の温もり」だった。
そして何より屋敷の立地は最適だった。
松江というのは実に不思議な街で、現在でも通り一つを挟んで雰囲気がガラリと変わる。だから、最初に暮らした末次本町と新たに居を構えた塩見縄手は、松江城を挟んでわずかに2キロもないのにまったく別の街である。
繁華街の裏手、川に面した末次本町は、眺望こそ良かったが人の往来も多い。
対して塩見縄手は、松の並木が続き、白壁・格子、黒板塀の武家屋敷が静かに建ち並ぶ一角だ。喧噪を嫌う八雲にとって、これ以上ない環境だった。
■“狭い”からこそ、八雲とセツは心を通わせた
これは、セツを世間の好奇の目から、遠ざけるには最適な立地でもあった。
前述のように「外国人教師が女中を妻にした」という噂は、繁華街に近い末次本町では避けようがなかった。だが、武家屋敷の静かな通りに引っ越せば、少なくとも日常的に噂話に晒されることはない。八雲が求めたのは、愛する妻との静かな暮らしだったのだ。
そしてこの静かな屋敷で、セツは八雲に日本の怪談や民話を語って聞かせたであろう。
お気に入りの浴衣と庭下駄で庭を散歩する八雲の傍らで、セツは松江に伝わる不思議な話を次々と披露する。狐の話、幽霊の話、神様の話……。八雲は目を輝かせて聞き入り、時には質問を重ね、時には深く頷いたことが想像できる。
襖一枚の距離に妻がいて、庭を愛でて怪談が聞ける。こんな幸福が、かつて八雲の人生にあっただろうか。広い屋敷で義家族と適度な距離を保ちながら暮らしていたら、この親密さは生まれなかっただろう。狭いからこそ、八雲とセツは毎日顔を合わせ、言葉を交わし、心を通わせることができたのだ。
そして、やがて彼が義母や義父母とも温かい関係を築けるようになったのは、この北堀町での日々があったからこそだろう。
狭い家は、八雲にとって家族への入り口だったのだ。
■松江の冬が寒すぎて、5カ月後には熊本へ
しかし、この幸福な日々は長くは続かなかった。八雲がこの家で暮らしたのは、わずか5カ月。1891年11月、彼はセツを伴って熊本へと移っている。理由は、松江の冬だった。
それは、長らく西インド諸島など温暖な地で生活していた八雲が極端な寒がりだったことに加えて、当時の暖房事情も大きかった。セツは「その頃の松江には、まだストーヴと申す物がありませんでした」と記している(小泉節子・小泉一雄『小泉八雲』恒文社1976年)。中学校の教室にすら火鉢しかない。八雲にとって、これは耐えがたい寒さだった。
この愛すべき屋敷は、冬には凍えるほどに寒かった。
なにしろ、眺望も庭も素晴らしい武家屋敷だが、昔ながらの日本家屋らしく風通しがいい。夏は快適だが、冬は襖一枚では寒風を防げない。廊下もなく、部屋から部屋へ移動するたびに冷気が入り込む。
筆者が訪問したのは1月初頭。文化財ということで襖や扉が開いたままということもあるだろうが、中は寒い。実際に暮らすとしたら夏は涼しいかもしれないが、冬はストーブをガンガンに焚いても隙間風で凍えるのではないかと思えた。
そんな屋敷なのに、当時の暖房器具は火鉢が限界……愛する妻との親密な暮らしを可能にした「襖一枚の狭さ」が、冬には仇となったであろうことは容易に想像できた。
こうして、八雲は後ろ髪を引かれながらも、松江を離れる決意をしたのである。
皮肉なことに、家族の温もりを教えてくれたこの小さな家は、物理的な温もりには欠けていたのだ。それでも、短いが濃密な5カ月……それは、八雲が「家族」というものを知るためになくてはならないものだったのだ。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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