大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で注目される秀吉、信長の出身地である名古屋市周辺。実際に信長の居城跡を訪れた古城探訪家の今泉慎一さんは「秀吉が足軽となり信長に仕えた城は秀吉の生誕地から驚くほど近かった」という――。

■商いで栄えた城郭の町・清須
第1回 清洲城(愛知県清須市)
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)の主役、秀吉(池松壮亮)、秀長(仲野太賀)兄弟。一介の足軽から天下人にまで成り上がっただけあって、生涯で関わった城は数知れず。攻めた城、築いた城、ライバルや家臣たちの城など、大河ドラマで描かれる世界をより深く、現地を実際に踏破してきた古城探訪家の視点で、一歩先の城の楽しみ方を指南する。
清洲城といえば、天下人・織田信長が若き日に居城とした城。そこに一旗上げようと相次いで士官したのが、農民出身の藤吉郎、そして小一郎。のちの秀吉、秀長の異父兄弟だ。兄弟が育ったのは現在の名古屋市中村区。清洲城はそこから距離は6キロメートルほど。歩いて1時間ほどの城郭に囲まれていたという。
秀吉は故郷の中村を出て、放浪した末に信長に足軽として仕えるようになった。つまり、清洲城は信長の天下取りの出発点だったと同時に、豊臣兄弟にとっても同様の場所だったといえる。そんな原点ともいえる城を訪ねた。

■信長の一周忌に秀吉が建立
最寄駅のひとつ、JR東海道本線の清洲駅から清洲城までは徒歩15分ほどだが、城を訪れる前にぜひ、寄り道して足を運んでおきたい場所がある。
総見院(図表3の地図①愛知県清須市大嶋1-5-2)の建立は1583(天正11)年。本能寺の変の翌年だ。信長の一周忌にあたり、菩提を弔うために秀吉の命で建てられたという。境内には信長公一族の墓碑も並ぶ。落慶にあたり、秀吉、秀長は何を思ったのだろう。志半ばで斃(たお)れた主君への追慕か、「これからは俺たちの時代だ」との矜持か、あるいはその両方か――。
■本丸と天守のある場所が違う?
総見院から清洲城へは、東海道本線の線路沿いを南西へ。面影も何もないが、かつての美濃路にあたる。この先に清洲宿、そして清洲城もそばにあった。歩行者のみの路地へと入りさらに進むと、ほどなく清洲古城跡公園(図表3の②清須市古城448)にたどりつく。鬱蒼(うっそう)とした緑に覆われた微高地。
その先が五条川の右岸土手、対岸に朱色の展望回廊が印象的な光景が現れる。
天守は川向こうだが、川土手に野面積みの石垣がある。発掘調査で発見された「本丸南側の石垣」を再現移設したもの。見つかった場所は五条川沿いの右岸。川の流れはおそらく大きくは変わっていないはず。清洲城の本丸は、実は右岸=西側にあったのだ。
■あまりに美しすぎる清洲城天守
「大手橋」と名付けられた朱色の橋。橋&天守の組み合わせが写真映えするせいで、大半の清洲城(図表3の③清須市朝日城屋敷1-1)の写真はこの橋越しに撮影したもの。本当は、橋のこちら側が本丸なのだけれど……。このように、近現代になってから再建された天守には、本来あるべき位置と異なる場合も多い。
城門をくぐると、三重四階の望楼型天守。手前には巨石や樹木も配した枯山水庭園。
整然として美しいのは確かなのだが、戦国の世をイメージするには手がかりには乏しい。むしろウワモノがないほうが却って、想像力を刺激されるのだが……(あくまで私見)。
■清洲城本丸の中心に桶狭間山?
先ほどの清須古城跡公園と線路を挟んで南側には、清洲公園(図表3の④清須市清須3-7-1)の緑地が広がっている。ただしかなり整備されたどこにでもある公園。特に城の遺構らしき地形も見られない。公園の一角が小さな丘になっている。「桶狭間山」。ここもまた、後世の作。
丘の上には、桶狭間の戦いへと出陣直前の信長。濃姫がそれを祈るように見守っている。ただし桶狭間の合戦で、桶狭間山に布陣したのは今川義元で、信長はそこを攻めた側だ。
細かいことはさておき、少なくともこっちが本来の清洲城のど真ん中。
「本丸はこっちだぞ!」と、信長像が対岸の天守だけを訪れる来城者を叱っているよう。ちなみに園内には「信長池」なるものもあり、織田家の家紋・木瓜紋をかたどっている。
■秀吉ゆかりの神社のシンボルは猿
さて、信長だけならこれにて終了、でも良いのだが、豊臣兄弟の足跡を訪ねるのであれば、足を伸ばしておきたい場所がもうひとつある。三たび五条川を渡り、五条川西岸を南へ。500mばかり。
日吉神社(図表3の⑤清須市清須2272)は清洲城一帯の総氏神で、771(宝亀2)年創建。ということは当然、信長や秀吉、秀長の時代にも存在していた。そして拝殿前に鎮座するのが、狛犬ではなく狛猿?
猿=秀吉? と思いきや、元々、この神社では猿が神様の使いで、絵馬や御守にデザインされているのも猿なのだった。猿ではなく、秀吉と当社の意外なつながりも。生母(のちの大政所)が祈願し、秀吉を授かったという「子産石(こうみいし)」が境内の一角にある。
つまり、のちの太閤殿下が誕生したのは、この日吉神社のお陰なのだともいえる。この世への御縁を得た日吉神社、そして百姓から侍に取り立てられた清洲城。
清洲には、豊臣兄弟にとってふたつの原点があったのだ。
■清洲城の波乱の歴史
最後に清洲城の城主の変遷をまとめておこう。
築城は1405(応永12)年、尾張守護・斯波義重によるという。その後、1476(文明8)年に守護代・織田家の内紛によって尾張守護所だった下津城が焼失。1478(文明10)年に守護所が清洲城に移転。この地が尾張国の中心地となり栄える。
その後は尾張では守護代・織田氏が勢力を伸ばし、清洲城も織田家の居城に。信長の父・織田信秀が清須奉行として居城したこともあった。
■信長は守護代を討ち、清洲城を奪取
1555(弘治元)年、守護代として居城としていた織田信友を信長が討ち、那古野城から清洲城に拠点を移す。以来、1563(永禄6)年に小牧山城に移るまでの間、信長の居城となった。1560(永禄3)年には桶狭間の戦いへと出陣したのも、1562年(永禄5)年に松平家康との同盟を結んだのもこの城。秀吉、秀長の豊臣兄弟とともに、信長にとっても、天下人への原点となった「はじまりの地」といえる。

清洲城が再び歴史の表舞台に登場するのが、1582(天正10)年のこと。本能寺の変によって信長が討たれ、山崎の戦いでその首謀者・明智光秀を秀吉が敵討ち。その後、織田家の跡取りを決める清洲会議が、この城で行われた。その際、城は信長の次男・織田信雄が受け取り、1586(天正14)年、信雄により天守や書院などが造営された。
その後、清洲城は信雄から豊臣秀次に引き継がれ、秀次の死去後は、秀吉が重用する福島正則の居城となった。1610(慶長15)年、徳川家康が名古屋城築城を命じる。同時に清洲城は廃城。その資材の一部は名古屋城にも再利用されている。現存する3つの櫓のひとつ、西南隅櫓は別名「清洲櫓」とも呼ばれ、清洲城の古材が使われていると伝わる。

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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

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(古城探訪家 今泉 慎一)
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