■「豊臣兄弟!」で描かれる桶狭間
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)の第3話では桶狭間の合戦前夜が描かれる。
永禄3(1560)年5月19日、織田信長(小栗旬)軍は、尾張に進軍していた駿河の今川義元(大鶴義丹)を桶狭間(おけはざま)(場所は名古屋市緑区有松町桶狭間と愛知県豊明市栄町の二説がある)にて討ち取った。世にいう桶狭間の合戦である。
従来の説では、今川義元が4万5000(実際は2万5000といわれている)の兵を率いて上洛し、尾張を蹂躙(じゅうりん)していこうとするのに対し、信長は2000の兵を率いて、風雨の中、休んでいた義元を奇襲攻撃で勝利したといわれていた。しかし、歴史研究者の藤本正行氏は『信長公記』を素直に読むと、信長軍は迂回による奇襲を行っておらず、正面からの攻撃で今川軍を破ったと唱えた(藤本正行『信長の戦国軍事学 戦術家・織田信長の実像』)。この説が一般にも流布し、今では定説となりつつある。
しかし、2000の信長軍が正面攻撃で2万5000の今川軍に圧勝するという筋書きに納得し得ない部分があり、作家・研究者が新説を唱えて現在に至っている。
■なぜ『信長公記』はこう書いたか
織田信長の右筆・太田牛一(ぎゅういち)が記した『信長公記』では、桶狭間の合戦を以下の順序で記載している。
① 今川方に内応した鳴海城の山口左馬助教継(さまのすけのりつぐ)父子が駿河に呼ばれ、切腹させられた。
② 天沢(てんたく)という僧侶が関東に下向し、甲斐の武田信玄に信長の鷹狩りの様子を語った。
③ 鳴海城の抑えとして、信長がその周辺に砦を築いた。
④ 今川義元が尾張に出陣した。
ここで疑問となるのは、②僧・天沢が武田信玄に信長の鷹狩りの様子を報告したくだりが、なぜこんなところに入っているかということである。
仮にこの話が事実であり、時期的にこの間に挿入することが正しいとしても、前後の流れを中断するこの場所に敢えて挿入する必然性が全く感じられない。
そこで、全く別の観点から考えてみよう。つまり、この話は天沢という人物を借りて、桶狭間の合戦に至る背景を比喩的に語っているのではないか。
■今川義元をおびき出した人物
ちなみに、天沢が報告した信長の鷹狩りの様子は以下のような内容になっている。
すなわち、信長が鷹狩りをする時は、
・ 20人の鳥見(とりみ)を2、3里先まで走らせて雁や鶴の居場所を報告させる。
・ 馬に乗った家来に、藁(わら)の先に虻(あぶ)をつけたものを持たせ、鳥の気を引かせる。
・ 信長は鷹を腕に据えて鳥に見つからないように近付き、鷹を放つ。
・ その向かい側には、農民に扮した家来に鍬(くわ)を持たせて待機させ、鳥を捕まえさせる。
これを桶狭間の合戦の情景に完璧にあてはめることはできないが、あえて想像するなら、信長はエサ(鳴海城・大高城の抑えの砦)をちらつかせて、鳥(今川義元)を呼び込み、鷹(織田軍)を放って、鳥の逃げる方向を見極め、その先に農民(今川方の内紛者?)を待たせて捕まえた(討ち取った)というストーリーが浮かび上がる。
つまり、『信長公記』は、今川義元の尾張侵攻が信長におびき寄せられたこと。
■当時は家康を悪く書けなかった
ではなぜ、『信長公記』は桶狭間の合戦の真実を暗喩(あんゆ)に込めねばならなかったのか。それは今川を裏切り、義元を挟み撃ちした人物が徳川家康(当時は松平元康。「豊臣兄弟!」で演じるのは松下洸平)だからだろう。
家康自身は桶狭間には居なかったが、桶狭間で討ち死にしている一族がいる。今川家は三河衆を幾つかの部隊に分けて直接統括していたと『松平記』に記されている。今川本軍に同行していた松平一族の部隊があったのだろう。
家康が信長と示し合わせ、信長軍と今川軍が合戦に及ぶと、同行していた松平一族が叛旗を翻す。裏切った本人が大声で「裏切り者がいるぞ!」と大声を上げて周りを切り崩していったら、戦場はパニックになるだろう。これでは今川軍に勝ち目がない。『信長公記』は慶長年間に成立したといわれている。当時、家康の天下になっていた。
ちなみに義元の法名は「天沢寺殿四品前礼部侍郎秀峰哲公大居士」という。つまり、『信長公記』では、僧・天沢(=義元)が信長の鷹狩りの様子に仮託して、武田信玄に桶狭間の合戦の真実を伝えるという夢物語になっているのだ。
■家康が義元を裏切ったのなら…
ではなぜ、家康は今川義元を裏切らなければならなかったのか。
義元が桶狭間方面に出兵した目的について、かつては上洛が目的だといわれていたが、近年では、尾張東部の制圧、ひいては西三河支配の安定と考えられている。
今川家は天文23(1554)年に小田原北条家、甲斐武田家と同盟を結び(甲相駿三国同盟)、後顧の憂い無く領土拡張を行う基盤を整えた。換言するなら、北には武田、東に北条がいるので、西に進むしかなくなる。そこで、義元の僧籍時代の師匠・太原崇孚雪斎(たいげんすうふせっさい)を三河・尾張方面司令官とした。ところが、弘治元(1555)年閏10月に雪斎が死去してしまう。
代わりに三河・尾張方面司令官を任じなきゃならんのだが、それまで僧侶の雪斎に委ねていたということは、家臣団に適材がいなかったんだろう。弟弟子(おとうとでし)の徳川家康は名将の素質があるとの噂があるが、自分の目で確認してみないと信用できないし、そもそも家康を三河に派兵したら、そのまま居座って独立してしまいそうだ。
■義元が39歳で家督を譲ったワケ
そこで、義元は自らが三河・尾張方面侵攻を指揮しようと考えたのではないか。
しかし、それは三河松平家の家臣団にとって、絶望的な事態である。かれらは家康が成長して岡崎城に帰参することを願っていたはずだ。ところが、義元が岡崎城代になれば、家康が岡崎城主として帰参する可能性は低い。おそらく、家康は常に危険な先陣を任されるだろう。
一方、信長は後述するように、三河以東にはあまり興味がなかったようだ。今川家がちょいちょい尾張に手を出してきて、ウザったくてしょうがない。しかし、義元が自ら尾張まで出張(でば)ってくるなら、家康と秘かに和議を結んで討ち取ることができるかもしれない。失敗しても、義元は三河経由で帰陣するので、袋の鼠(ねずみ)にすることができる。換言するなら、桶狭間の合戦は、家康と信長が結託して義元を謀殺したクーデターだったのではないか。
■「奇襲」は信長の得意技ではない
桶狭間の合戦の後、信長は駿河方面に出馬して今川家を討伐する――気が全くなかった。
桶狭間の合戦の成功で、信長には寡兵(かへい)を以(もっ)て大軍を倒すイメージがあるが、実際には「人数が多い方が戦に勝つ」というシンプルな考えの持ち主だったらしい。当時は石高=兵数なので、尾張近国の石高を比べてみよう。ただし、信長の時代は貫高制から石高制への移行期で、当時の数字はわからない。慶長3(1598)年の数字によれば、図表1のようになる(国立公文書館デジタルアーカイブ 簿冊標題:『日本国総目録 【日本國六拾余州御検地御蔵納金銀納高目録】』より)。
尾張は57万石。西の美濃が54万石に対して、東の三河29万石、遠江25万5000万石。つまり、美濃一国を攻略すれば、三河・遠江二国を収めたと同じくらいの価値があるということだ。三河・遠江の先の駿河に至っては15万石しかなく、旨味(うまみ)に乏しい。
■信長は家康の事情を利用したか
信長の戦略は、美濃・北伊勢を併呑(へいどん)して、近江の六角(ろっかく)・浅井(あざい)のいずれかと手を結んで、もう片方を討伐する。すると178万石になり、動員数ではかなう者がない。上洛して、三好三人衆などを殲滅(せんめつ)して畿内を平定する。
もっとも、この数字は秀吉が太閤検地を行ったから分かった訳で、信長はそんな数字を正確に把握していたわけではない。ただし、たとえば、東京都民ならば、数字は把握していなくても神奈川県の方が千葉より人口が多く、栄えていることは感覚的に理解している。情報収集すれば、どの国の生産力が高かったかは分かったのではないか。
ともかく、信長の物差しでは三河以東は興味がなく、家康と同盟を結んで「そっちの方は勝手にやっておいて」という気分だったに違いない。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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