■居城を見れば豊臣秀長の本当の性格が見えてくる
城は、武将やその一族の生死や浮沈を分ける場で、同時に、権力者が権力を誇示しつつ、味方も敵も威圧する装置だったので、時代の最先端が導入された。だから城を見ると、それを築いた武将の戦略や戦術、あるいは権力者の権力のかたちや統治のあり方、そして性格にいたるまで、読みとることができる。
では、今年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公、羽柴(豊臣)秀長のことは、その居城からどのように読みとることができるだろうか。秀長の最後の居城であり、臨終の地ともなった大和郡山城(奈良県大和郡山市)をとおして見ていきたい。
天正13(1585)年3月、天下一統に邁進する兄の秀吉は、朝廷から正二位内大臣に叙任され、あらたに紀伊(和歌山県)を平定した。それを受けて戦功があった秀長は、すでに領有していた播磨(兵庫県南西部)と但馬(兵庫県北部)に加え、紀伊と和泉(大阪府南西部)の統治を秀吉からまかされ、築城を命じられた。「岡山」あらため和歌山に築かれた和歌山城(和歌山市)だった。
秀吉は続いて、四国の長宗我部元親の制圧に乗り出す。同年6月、秀長を大将とする軍勢が四国に渡り、結局、秀吉は出陣しなかったので、秀長はそのまま総大将として軍勢を指揮し、7月25日、元親に土佐一国の統治を許すかたちで和議を結んだ。秀長のこの功績が大和郡山城につながっていく。
■秀吉が弟を奈良に配置した意味
天正13年(1585)閏8月、秀吉は畿内周辺に配置されている諸将の国替えを断行した。このとき、秀長は四国討伐の功績が評価されて、これまで筒井家の領国だった大和(奈良県)の統治をまかされた。
日本の政治や文化の中心地は長きにわたって、山城(京都府南部)、大和、河内(大阪府東部)、和泉、摂津(大阪府北部、兵庫県南西部)の五畿内だった。そもそも「天下」という言葉が五畿内を指した。
秀長はすでに和泉を統治していたが、古都奈良を含む大和をあらたに与えられ、さらに和泉のすぐ南の紀伊も領有した。ほかに大和の東に位置する伊賀(三重県北西部)にも所領があり、石高は70万石後半から80万石前半におよんだ。むろん、羽柴一門では最大の石高だが、その領地が日本の中央に集中していたことから、いかに秀長が秀吉に信頼されていたかがわかる。
しかも、大和は興福寺や高野山など、古代から続く寺社権門の支配が各所におよぶ特別な土地柄で、その難しい統治を秀吉はあえて秀長に託した。そして、領国統治の拠点となったのが、筒井氏から受け継いだ大和郡山城で、秀長は天正14年(1586)から18年(1590)にかけ、大規模な工事を行って改修しつつ拡張した。
■墓石や地蔵をつかった石垣
地政学的に考えても、秀吉が秀長に大和郡山城をまかせた理由がわかる。西にまっすぐ数キロ行けば生駒山地にぶつかり、それを越えれば摂津で大坂平野が広がり、そこには大坂城がある。一方、北上すれば京都がある。つまり、大和郡山城は大坂と京都を守る役割を負うとともに、大坂城と並んで五畿内、すなわち天下を統治する城だったと考えられる。
この城は明治維新を迎えるまで存続したため、少しずつ手が加えられ、地震や風水害のたびに修復されてきた。しかし、主に中心部には、いまも秀長が改修した当時の姿が伝えられている。
毘沙門曲輪から極楽橋を渡って内堀を超え、本丸に進むのだが、この「極楽橋」という名称にピンと来る人もいるかもしれない。秀吉が大坂城の本丸北部に架けた橋と同じ呼び名である。大和郡山城の図に「極楽橋」という名称が記載されるのは18世紀前半なので、秀長の時代にそう呼ばれたかわからないが、当時の城主の柳沢吉里(吉保の嫡男)が、大坂城と並ぶ特別な城だった、という自負のもとに名づけさせたのかもしれない。
極楽橋は明治9年(1876)に撤去されたが、令和3年(2021)に復元された。古絵図および発掘調査から当時の形状を推定したという。この橋が架かる本丸東側の石垣は、ほとんど秀長が積んだ当時のままと考えられ、極楽橋の北側を中心に、墓石や石塔の一部、地蔵などを積み上げた「転用石」がたくさん見られる。
■奈良の寺院が書き残した「大迷惑」
大和郡山城の本丸は、当時の城の常識からすれば、石積みなどが異例といえるスケールで、高さ10メートル規模の石垣と深い堀に囲まれている。日本の築城技術はこれ以降、大坂の陣のころまで(幕府に関係する城は17世紀前半まで)、著しく進化したので、私たちはもっと高い石垣や深い堀を容易に思い浮かべる。だが、秀長が大和郡山城を改修した1580年代においては、こうした壮大さは天下人の城ならではのものだった。
ただし、石材の調達にはかなり苦労している。
興福寺の塔頭の一つ、多聞院の院主が書き継いだ『多聞院日記』にも、天正15年(1587)から17年(1589)に石材が大規模に集められたと記されている。墓石や地蔵をはじめ、庭石や建物の礎石までが持ち去られ、大いに迷惑だったという。薬師寺での採石が禁じられたという記録もある。
実際、こうした転用石は石垣の表面だけでも1000を数え、平成26年(2014)に石垣を解体修理した際には、天守台のごく一部を整備しただけで、約600の転用石が見つかり、裏込め石にも多数見つかっている。こうしてなりふり構わず石を集めてでも、豊臣政権の力を示す豪壮な城を築く必要があった、ということである。
■天守はあったのか、なかったのか
本丸北方にそびえる天守台の石垣には、象徴的な転用石を見ることができる。ひとつは天守台北側の下部にあり、大永3年(1523)の銘文がある「逆さ地蔵」で、全高110センチほどの石仏が、石垣の隙間から奥に見える。ちなみに、地蔵自体は城全体で200程度見つかっている。また、南東の隅角部の下方にある石材は、平城京の羅城門の礎石だったといわれる。
ところで、大和郡山城は天守に関する史料がなかったことから、天守台の石垣はあっても天守は建てられなかった、という見方が長いあいだ根強かった。
しかし、平成26年(2014)の発掘調査で、天守台の上に東西南北に並ぶ礎石が発見され、1階面積が7間×8間の天守(5階建て相当)が建っていたことが確実になった。天守台南側には付櫓台があり、そこから地階の石垣が発見されたので、付櫓の地下から天守に入る構造だったこともわかった。さらには、天守の礎石の一部にまで、石塔などから転用した石が使われていた。
天守台からはたくさんの瓦も出土した。なかでも左三つ巴紋の軒丸瓦は、秀吉の大坂城のものと同范、すなわち同じ型からつくられており、そのことからも、大和郡山城が豊臣政権下において、どれだけ重要視されていたかがわかる。また、付櫓台からは金箔瓦も掘り出されている。
豊臣時代、秀長がここに建てたのは、豪壮な天守だったと思われる。関ヶ原合戦後に解体されたのち(二条城に移築されたと伝わる)、ふたたび天守が建てられた形跡はなく、それだけに、この天守台は秀長の時代の原型をよく留めていると考えられる。
■天守台からの景色が意味すること
秀長による大和の統治が、豊臣政権にとっていかに重要だったか。そのことは、天正13年(1585)9月3日に秀長がはじめて入城した際、秀吉とともに5000の軍勢を率いてのことだった、という史実からも伝わる。
その際、興福寺の大乗院や一条院の門跡、東大寺の寺僧らが出迎えたが、そうした古代以来の権門の力を、自身の統治下にまとめ上げることも秀長の任務だった。
こうした統治の中核が大和郡山城だった。いまも天守台に登ると、奈良盆地が東大寺や興福寺の方面まで一望できる。豪壮な天守の最上階からは、さらにすべてが一望のもとだっただろう。この景色自体がいまなお、大和郡山城と秀長の位置づけを伝えてくれる。
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香原 斗志(かはら・とし)
歴史評論家、音楽評論家
神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。
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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)

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