「やったわよ!」
紀子さんは、秋篠宮との結婚が決まった時、友人の女性にこう電話したという。
そう話してくれたのは友人女性の父親で、テレビ局に勤めていた知人だった。
“ずいぶん積極的な女性だな”というのが当時の私の感想だった。
川嶋紀子さんは1966年9月11日、川嶋辰彦・和代夫妻の長女として生まれた。
父親がペンシルベニア大学大学院に留学したことから、6歳までアメリカ・ペンシルベニア州で暮らした。
その後、父親が学習院大学助教授に就任したため一家で帰国。学習院初等科の時、再び父親がオーストリア・ウィーンにある国際応用システム分析研究所主任研究員に招かれたため、一家で渡墺して、約2年間滞在している。
1979年9月、帰国して学習院女子中等科へ編入。その後、学習院大学文学部心理学科へ入学。大学構内の書店で、1年先輩の礼宮文仁親王(後の秋篠宮)と出会って、交際を始めた。
当時、天皇の孫が自由恋愛で結婚相手を決めるなど驚天動地の出来事だった。
しかし、二人は順調に愛を育んでいった。紀子さんの夢は「結婚するなら白いピアノと黒い馬をプレゼントしてくれる人」だったというが、礼宮はその願いを叶えられる男性に違いなかった。
むしろ積極的だったのは礼宮のほうだったようだ。
■まさにシンデレラストーリー
しかし、礼宮は悲願成就のために猛進した。それは当時の礼宮の結婚までの動きを見てみるとよくわかる。
朝日新聞がスクープした2人の結婚だったが、当時は昭和天皇がその前年の1989年1月に逝去して喪中の時期であった。
しかも兄の浩宮のお妃選びも決まっていなかった。
しかも、お相手は“全くの庶民”の娘さんで、3LDKの大学教職員用の共同住宅住まい。川嶋家のほうが辞退するのではないかとまでいわれていた。
だが、報道以降、すさまじい紀子さんフィーバーが巻き起こった。テレビ、一般週刊誌、女性誌は詳細に紀子さんの日常を報じた。
まさに「シンデレラストーリー」であった。
しかし、礼宮は英国に留学しなければならなかった。紀子さんと会えなくなるため、「紀子を英国に呼ぶ」とまでいい出したという。
留学から一時帰国していた時、紀子さんが礼宮にプレゼントした「ナマズの指輪」も大きな話題になった。
口さがない皇室の中には、紀子さんが皇室に入ってやっていけるのかという声があったという。
そうした紀子さんの立場を理解し、後押ししてくれたのは美智子皇后だったといわれている。川嶋家のほうがこの結婚に、最後まで逡巡していたようだ。
だが2人の意志は固かった。礼宮の「紀子さんと一緒になれないのなら、皇籍を離れてもいい」という発言が漏れ聞こえてきた。
■ご難場のきっかけは長女の結婚
一日千秋の思いで待っていたのに、突然、礼宮の帰国が延期された。一説には、宮内庁の中に礼宮のわがままが過ぎる、すこし頭を冷やしてやろうという意図があったという説もあるが、真偽のほどはわからない。
美智子皇后の強力な後押しもあり、2人が結婚したのは1990年6月29日。
結婚後の秋篠宮家は至極順調のように見えた。美智子皇后を慕い、同じように振る舞う紀子さんは、周囲が心配していたことなど“杞憂”に過ぎなかったと思わせた。
長女の眞子さん、次女の佳子さんが生まれ、長男の悠仁さんが生まれたときは、多くの国民が祝福した。
2019年(令和元年)5月1日、皇太子・徳仁の即位に伴い、夫の文仁親王は皇嗣となり、紀子さんは皇嗣妃となった。
順風満帆だった。あの事が起きるまでは……。
長女・眞子さんと小室圭さんが交際し、婚約記者会見をしたのが2017年9月3日。その頃から、秋篠宮家は紀子さんが仕える者たちに厳しく当たる「ご難場」だという噂が出てくるようになった。
■なぜ次々に職員がやめるのか
デイリー新潮(2019年1月13日)にはこうある。
「秋篠宮家の事情に通じる人物が言うには、秋篠宮家は従来、庁内では比類なき『ご難場(なんば)』として知られてきた。仕事量は言うに及ばず、宮邸を切り盛りされる紀子妃の要求なさる作業のレベルが、圧倒的に高いのである。
『せっかく紀子妃殿下の悲願である増員が実現したのに、現在はその枠が埋まらない状況が続いています』
というのも、
『宮内庁の生え抜き職員や、警察をはじめ官公庁から出向してきたスタッフに対して、妃殿下が「うちの仕事には不適格です。他の人をください」と仰り、早々に交替させられることも珍しくないのです』(同)
それゆえ、私的スタッフも含め、職員は頻繁に入れ替わるのだといい、
『過去には、妃殿下の身の回りのお世話をする職員のトップである侍女長が、着任してすぐに体調を崩し、わずか1週間で出勤できなくなったことがあった。また18年の春にも、運輸業界から転職してきた女性が、やはり仕事の厳しさについていけず、1週間足らずで辞めてしまいました』(同)」
■悠仁さまが放った「苦言」
母親が職員たちに厳しく当たるために、次女の佳子さんや長男の悠仁さんが「苦言」を呈することがあったという報道もある。
「こうした紀子妃のお振る舞いと、長きにわたって接してこられたのが佳子さま。
『佳子さまも10年ほど前までは、趣味のダンスや普段のお召し物を巡って紀子さまと激しく口論されることがありました。眞子さんの結婚に際しては一貫して姉上を支持され、そのことで紀子さまとの間に溝が生じることになりましたが、そうした時期を経て現在は達観されたご様子です』
そして、
『職員らの日頃の大変さもよくご存じで、“母はあのように周囲と接するのが難しい部分もありますので……”などと仰り、周囲の労をねぎらっておられます』」(『週刊新潮』2025年7月31日号)
デイリー新潮(2025年08月15日)は、こうも報じている。
「宮邸では目下、9月に催される悠仁さまの成年式の準備が進められており、
『その作業と並行して、悠仁さまの日常生活のお世話についても、紀子さまは職員らに細かな指示を出されています。先日は、職員が言いつけとは異なる動きを取ったため、紀子さまが厳しいお言葉を投げかけられる一幕がありました』(秋篠宮家の事情を知る関係者)
ところが、
『そこに悠仁さまが居合わせておられました。ご自身にまつわる件で職員が母親から苛烈な指導を受けている場面を目の当たりにされた悠仁さまは、紀子さまに向かって「それはおかしい。お母さまが間違っていますよ」などと、整然と進言なさったのです。職員は難を逃れ、紀子さまはその場で反論できず、口をつぐんでしまわれました』(同)」
■一般参賀での残酷な光景
こうした報道から伺えるのは、結婚前や結婚した当時の紀子さんスマイルが消えてしまって、何やら重い空気が支配している秋篠宮家の内情である。
眞子さんの婚約、小室圭さんの母親の金銭問題が発覚して婚約延期、その後の逃げ出すようにニューヨークへ行ってしまったことなどが、紀子さんの心に深い影を落としているのだろうか。
雅子皇后の娘・愛子さんと悠仁さんは何かというと比較される。紀子さんはそのことを大変気にしているという報道も多くみられる。
2026年の皇居の一般参賀に悠仁さんがデビューした。
愛子さんとのそろい踏みといっては失礼だが、若い2人を見たさに多くの人が訪れたが、そこでこんな動きがあったと『週刊新潮』(2026年1月15日号)が報じている。
「宮内庁関係者が、当日の様子を振り返る。
『皇居正門が開門した朝9時30分の時点で、1万5000人余りの参賀者が列を作っていました。その後、東庭まで誘導されていったのですが、やはり両陛下の正面にあたる中央に陣取ろうとする人たちが多く、続いて愛子さまがお立ちになる、ベランダに向かって左側にも人が集まってきました』
警備の者たちは、安全の面でも、『右が空いています』『右のほうへ行ってください』と声をからしていたのだが、1万5000人の大参拝者は動こうとしなかった。
右側には初デビューした悠仁さんたち秋篠宮家の人たちがいた。左側には愛子さん。
『図らずも、天皇家と皇嗣家のコントラストが露になってしまったというのだ』」
■紀子さまが担う重要な役割
今年の参賀者は合計6万140人だった。天候に恵まれたのに、昨年から500人減ってしった。それについて、上記記事内で、皇室ジャーナリストは、「悠仁さまの“デビュー”が数字には結びつかなかったと言わざるを得ません」といっている。
秋篠宮紀子さんには、将来の天皇を育てるという重要な役割がある。週刊誌報道などに一喜一憂しなくてもいいと思うのだが。
一方の雅子さんが皇太子(現天皇)と結婚した経緯については、いまさらここで触れるまでもないだろう。
皇太子の一方的な求愛を、何度も断り続けたことはよく知られている。
失礼ないい方にはなるが、雅子さんには皇太子妃になるよりも、やりたいことがあったからだ。
雅子さんは外交官である小和田恆・優美子夫妻の長女として東京で生まれた。
父親の恆氏が在ソ連日本大使館一等書記官に就任し、一家でソ連に渡った。
その後、父親が国際連合日本政府代表部一等書記官に就任となり、アメリカのニューヨーク州へ移った。1971年には、父親が外務大臣秘書官に就任したため、一家は日本に帰国している。
田園調布雙葉中学校、高等学校に進学して、その後、マサチューセッツ州にある公立ベルモント・ハイスクールに転入学して2年間通学している。
■大フィーバーは起きなかった
アメリカの高校でHigh Honor student(最優等学生)と認められ、アメリカ政府が米国全体の上位5%の生徒に贈る「ナショナル・オーナー・ソサイティー」を受賞している。
その後、ハーバード大学経済学部に入学。優秀な成績で卒業後、帰国して東京大学法学部第3類(政治コース)に外部学士入学する。
在学中に外交官を志し外務公務員採用I種試験(外交官試験)に合格し、東大を中退して外務省に入省。
外務省の研修留学として、オックスフォード大学ベリオール・カレッジに留学と、外交官になるように生まれてきた女性だといってもいいのではないか。
彼女の東大の先輩に、現・財務相の片山さつき氏(66)がいる。
『週刊新潮』(1月15日号)によれば、彼女は数学者の朝長康郎の一人娘として、埼玉県浦和市で生まれ、子供の頃から“異次元”の天才として知られていたという。
当然のごとく東京大学文科1類に合格し、在学中に外交官試験に合格。その後、官庁の最高峰といわれる財務省(当時は大蔵省)に入省している。
雅子さんの経歴は片山氏と比べても何ら見劣りしない。
彼女には外交官として洋々たる未来が開けていたのだ。そこに皇太子からの思いもしない結婚話が持ち込まれた。
何度か「お断りした」ものの皇太子の強い思いや、「雅子さんのことは僕が一生全力でお守りしますから」という求愛の言葉にほだされたのか。それとも、父親が官僚だったため断りにくかったのか。雅子さんはついに承諾する。
しかし、雅子さんには恋人がいるという真偽不明な情報まで流れたため、紀子さんの時のような大フィーバーは起きなかったと記憶している。
■17人の皇族すべてが鬱という報道
未知の皇室という世界に入ることに戸惑いはあったはずだ。将来の天皇の后、皇后になる女性だから、宮内庁を始めとして、周囲はそう相応の処遇をしてくれるはずだと、雅子さんも思っていたのではないか。
しかし、皇室というところは人権が守られないところだと気づくのに時間はかからなかった。
『文藝春秋』(2024年1月号)で、ここまでの雅子さんの長い道のりを振り返り、宮内庁幹部はこう明かしている。
「個人の人権が一切守られていないのが、今の皇室という場所です。選挙権や戸籍も無く、職業選択の自由や信教の自由も持たず、財産権も制限されている。どこへ行くにも側衛官が付き、何をするにも両陛下や警察庁長官、そして総理大臣に逐一報告されてしまう。皇族方は、監視下での生活を余儀なくされています。赤坂御用地や御所など、高い塀に囲まれた空間で、幽閉されているのと同じです。あるいは囚われの身にあると言ってもいいかもしれません。
現在、17人の方がいらっしゃる皇族の中で、精神面で鬱的な状況に陥っていない方は、一人もいません。皆さま、それを押し隠して公務や儀式に臨まれている」
■優しい微笑みの下に隠された深い悲しみ
煌びやかな生活を送っているかのように見える皇室には、実は「人権侵害」が蔓延しているというのである。そして、皇族の中で人権侵害を一身に受け続けてきたのが、雅子さんだという。
「1993年に雅子さまは今の天皇と結婚されて皇室に入られたが、当時は、今以上に人権擁護など考えられない組織でした。体調が悪くても『公務に出るのが当たり前』と言われて、無理を押してご臨席され、なかなかお世継ぎが出来なかった時期には、『早く。国民が待っているから』と批判される。これらは人権侵害以外の何ものでもありません。
雅子さまはハーバード大学、東大、外交官という華々しい世界を歩まれてきましたが、突然、皇室に入られた。そこで人権が侵害されている状況を目の当たりにするわけで、雅子さまは、『一体、どうなっているの?』と強い疑問を抱かれたのです」(『文藝春秋』2024年1月号)
男の子が生まれない雅子さんに対して、宮内庁の人間たちが酷い仕打ちをしてきたことは何度も書いているので、ここでは書かない。
雅子さんは2003年に帯状疱疹を発症、2004年には適応障害という病名が発表された。
しかし、天皇陛下が即位され、皇后になられてから6年が経った今、お出ましの機会は増えており、体調はかなり回復されているようである。
しかし、私たちは雅子さんの優しい微笑みの下に隠された深い悲しみを知っている。
美智子さんも、皇室に入ってから嫁姑問題や古手の女官たちの嫌がらせがあったと、過去に何度も報じられた。
■両親が「愛子天皇」を切望とは思えない
雅子さんや紀子さんの悩み、苦しみを間近で見てきた彼女たちの子供が、皇室に残ろうと思わないのは、当然のことなのだろう。
雅子さんと愛子さん、母と娘が将来について何を語りあっているのかを窺い知ることはできない。ただ、父親の天皇も含めて、愛子天皇を切望しているとは、私には思えない。
秋篠宮佳子さんも同じだが、彼女たちの人生を徒にもてあそぶのではなく、必要なら皇室典範を改正して、彼女たちの人生の進路を指し示してあげるのが、政治家のやることではないのか。
私は、雅子さんが近い将来、愛娘・愛子さんのために何らかの行動を起こすのではないかと夢想している。
あの自由で、外交官として世界を駆けまわる日々を夢見ていた頃の自分に戻るのが叶わないなら、せめて娘には、彼女が考える夢にチャレンジしてもらいたい。
皇后である以上、政治への介入はできないし、すべきではない。だが、一人の母親として、自分に何ができるのか、それを模索しているのではないか。雅子さんの苦しい時期を支えてきた天皇と話し合っているのかもしれない。
私の初夢である。
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元木 昌彦(もとき・まさひこ)
ジャーナリスト
1945年生まれ。講談社で『フライデー』『週刊現代』『Web現代』の編集長を歴任する。上智大学、明治学院大学などでマスコミ論を講義。主な著書に『編集者の学校』(講談社編著)『編集者の教室』(徳間書店)『週刊誌は死なず』(朝日新聞出版)『「週刊現代」編集長戦記』(イーストプレス)、近著に『野垂れ死に ある講談社・雑誌編集者の回想』(現代書館)などがある。
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(ジャーナリスト 元木 昌彦)

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