NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、桶狭間の戦いが描かれる。桶狭間といえば、織田信長が今川義元の大軍を奇襲し、その首を討ち取った一大逆転劇として知られてきた。
歴代の大河ドラマでも繰り返し描かれてきた名場面だが、近年は通説の変化に伴い、その描かれ方も静かに変わりつつある――。
■「史実」は時代とともに書き換えられる
雨が降る中、今川義元は百姓家で休憩をとっていた。「鎧は暑い、重い」と愚痴をこぼしているとき、雷が鳴り響き、いな光りが走った。すると織田信長の軍勢が地響きをあげて家を襲い、義元に斬りかかった。義元は血だらけになって倒れ、か細い声で「都へ……都へ……」と口にし、息絶えた――。
昭和63(1988)年放送のNHK大河ドラマ『武田信玄』(中井貴一主演)で描かれた、桶狭間の戦い(永禄3/1560年)の義元討死シーンである。
義元を演じたのは5代目中村勘九郎(のちの18代目中村勘三郎)。麻呂眉にお歯黒を塗った公家かぶれの戦国大名という義元像を、視聴者に強く印象づける怪演だった(のちに曲解された義元像だったとわかるが……)。
最期に発した「都へ……」のセリフも重要だった。義元は駿河国から京へ上洛する過程で、途上にある小国・尾張を踏みつぶそうとして失敗したと解釈していたからだ。この「義元上洛説」は番組放送時に広く流布していた通説であり、疑問を感じる視聴者は少なかった。
だが現在では否定され、京へ行くのが目的ではなかった「非上洛説」が主流となっている。
桶狭間の戦いが起きた時点で義元は駿河・遠江・三河の三国の盟主だったが、三河に隣接した尾張とは小競り合いが絶えなかった。そこで「尾張制圧」をもくろみ、国境(くにざかい)をめぐって大規模な軍事衝突が起きたと見る説が有力なのである。
正直なところ、圧倒的な数的優位を誇った義元が惨敗したという、史実のダイナミズムさえあれば、上洛が目的だった否かは、私はどちらでも良い。
■「上洛説」は江戸時代の創作か
また、今年の大河ドラマ『豊臣兄弟!』では豊臣秀吉・秀長が戦闘に参加し、特に秀長にとっては初陣という設定で描かれる。兄弟が桶狭間の戦いで活躍したかは史実では確認できないが、主人公たちが活躍しなければドラマは成立しないのだから、こうした脚色もあって当然だ。
しかし、大河ドラマは日本が誇る史学者たちが時代考証を担当し、最新の歴史観や説をできるだけ反映させようとしている。他にはないコンテンツだ。史実をより詳しく知ることで、ドラマを2倍楽しむこともできるはずである。
義元が尾張へ侵攻した目的は、これまでもさまざまな説が提唱されてきた。その変遷がとても面白い。まず、上洛説は江戸時代初期の学者・小瀬甫庵(おぜほあん)が著した信長の伝記『信長記』に拠っている。
「ここに今川義元、天下を切って上り、国家の邪路を正さんとて数万騎を率し、駿河国を打出る」
「天下に上り」が京への上洛を指している。
ただし注視すべきなのは、この話は他の史料には載っていない点にある。特に信長研究の基本史料である『信長公記(しんちょうこうき)』にない。つまり小瀬甫庵の創作の可能性も否定しきれなかった。
だが、これを明治32(1899)年、大日本帝国陸軍参謀本部が編纂した軍事研究書『日本戦史・桶狭間役』が取り上げたことで、通説として広く流布することになるのだ。
■「よくある国境争いだった」という説も
「今川義元は近隣諸国が無事(平穏)なのを好機となし、京師(けいし)(都のこと)に到り将軍足利義輝に拝し、以て威名を揚げんと欲す。遮る者は伐(うた)んとするなり」(『日本戦史・桶狭間役』)
昭和63(1988)年の『武田信玄』の考証は、この『日本戦史・桶狭間役』をベースにしていたと考えられる。
一方、上洛が目的ではなかったとする「非上洛説」も、実は古くからあった。正確な時期は不明だが、おそらく江戸初期には編纂されていた徳川幕府創業記などに、義元の狙いは「尾張退治」だったと記されているという。上洛説に異を唱える歴史書は以前からあったわけだ。
近現代に入ると、まず昭和37(1962)年、高柳光壽が上洛説に疑問を呈した。続いて昭和53(1978)年、久保田昌希が「義元の目的は三尾(三河と尾張)国境付近におよぶ示威的軍事行動ではなかったか」と提起した。
それにもかかわらず大河ドラマの設定として採用されなかった。

■2000年代、ついに上洛説が覆る
転機は2000年代に入って訪れた。小和田哲男、藤本正行といった研究者が非上洛説を主張するようになり、特に藤本が平成20(2008)年に上梓した『桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社/下記に引用)は広く支持されるようになる。
「信長と義元が領国拡張競争で境目の城の取り合いをしたあげく衝突したというのが真相であり、それは戦国合戦の解釈として常識だと思うのだが、これではあまりに平凡である。天下を目指す義元の上洛の過程で起きた戦いとしたほうが、かぜんスケールが大きくなる。さらに、信長にとっては絶対絶命のピンチになるから、それをいかに切り抜けるかという興味も起きるわけだ」
つまり、『信長記』といった史料が、信長を“窮地を脱した英雄”とドラマチックに定義づけようとして、義元上洛という過剰なストーリーを創り出し、話を誇張したということだろう。
こうした研究を通じて、現在は①三河支配の安定化、②尾張制圧、の2つの説にほぼ落ち着いており、もはや大河ドラマも上洛説を採用することはないと考えられる。
■「豊臣兄弟の活躍」も史実なし
秀吉・秀長の豊臣兄弟が、本当に桶狭間の戦闘に参加して活躍したかについてだが、これも確認できない。
秀吉の生涯を物語化した『絵本太閤記』(成立は1800年代初頭)では、秀吉は桶狭間の戦い直前、信長の意を受け近江の六角義秀に援軍を依頼しに行く使者となっているが、裏づけはなく、江戸時代に考案された架空の話と見られている。
そもそもこの頃の秀吉は使者に任じられるほど重きを置かれた人物ではなかったろうし、六角義秀自体も偽書といわれる『江源武鑑(こうげんぶかん)』から名前だけ抜き出してきた可能性のある武将で、実在を疑われている。
一方で大河ドラマでは、『信長 KING OF ZIPANGU』(平成4/1992年、緒形直人主演)、『秀吉』(平成8/1996年、竹中直人主演)などに戦場で槍働きする秀吉が登場する。『秀吉』では今川勢を破って凱旋する場面で、信長が乗る馬の手綱を秀吉が引いており、秀長は母・姉妹たちと一緒にそれを眺めていた。
秀吉が織田に仕えた時期は諸説あるが一般的には天文23(1554)年~永禄元(1558)年頃だったと考えられるため、桶狭間の戦い(永禄3/1560年)に参加していても不思議ではない。
しかし、仮にそうだったとしても、当時の秀吉は小者(雑用係)に過ぎなかったろうし、足軽に登用されるのも桶狭間後、城の普請の功績を認められてのことだったという説もある。
秀吉はまだ取るに足らない、記録に残るような存在ではなかった。秀長も然りだ。したがって、2人の活躍を留める史料も皆無なのだ。
■大高城攻防戦は、捨て駒か信頼か
桶狭間における徳川家康にも触れておこう。家康は『豊臣兄弟!』1月18日放送回から登場する。
義元が尾張制圧をもくろんでいたことは前述したが、それにはすでに今川の支配下にあった鳴海城と大高城の確保を万全にする必要があった。ともに現在の名古屋市緑区にあった城で、尾張南部に位置する対織田の前線基地である。
特に大高城は今でこそ伊勢湾から約5kmの距離にあるが、桶狭間の戦い当時は地形がまったく異なり、背後に潟(かた)(内湾の浅い海)のある海沿いの城で、攻めづらかった。この城が義元の手中にあるのは、信長にとって目障りこの上ない。
そこで信長は鳴海城と大高城の間に複数の砦を築き、2つの城を包囲・分断させた。大高城は孤立状態となったため、義元は城に兵糧を運び込んで救援する事態に迫られた。

その役割を担ったのが松平元康、のちの徳川家康だった。史実である。
大高城への兵糧運搬を詳細に描いたのが、令和5(2023)年の『どうする家康』(松本潤主演)だった。元康は今川の先兵として、信長が築いた砦をかいくぐり、命からがら大高城へ兵糧を運びこむ難題を遂行した。
単に兵糧を運ぶという以上の大変な軍事行動だった。そして、そのまま砦の攻略と、大高城の守備を命じられた。
ところが義元が討死してしまったため今川軍は総崩れとなり、元康と三河勢は大高城に取り残されてしまうのである。
その様子を、半ば捨て駒として今川にいいように利用されたと解釈したのが令和2(2020)年の『麒麟がくる』(長谷川博己主演)。一方、元康は義元に信頼されてはいたものの、結果的に戦場の真っ只中に孤立してしまうという設定だったのが『どうする家康』である。
■新説は今も生まれ続けている
その元康が、いよいよ『豊臣兄弟!』に登場する。本格的に活躍するのはまだ先だが、おそらく今回も放棄されてしまう存在として描かれるのではないだろうか。
いずれにせよ、戦国時代の行方を左右したといわれる合戦・桶狭間は、実は尾張南部の城を奪い合う局地戦であり、はからずもそこに巻き込まれてしまった元康は、本拠地の三河国岡崎に向け決死の撤退戦に挑むことになる。

大高城と元康については、城郭考古学者の千田嘉博と歴史学者の平山優が、共著で新説を展開している。
大高城が潟に面した城だったのは前述したが、これは海からも補給物資を搬入できることを物語っている。つまり元康は、陸路に加えて海路を使って兵糧を運び入れたのではないかと指摘しているのだ。そのため事前に水軍を調略し、伊勢湾に展開させていた可能性もあるという。
大高城は今川にとって欠かせない戦略拠点だった。そして、その重要性は信長にとっても同じだった。
このように考えると、桶狭間の戦いが大高城の奪い合いだったとの読み方も、信ぴょう性が高まってくるのではないだろうか。
桶狭間の戦いは一次史料に乏しく、いまだに謎が多い。これからもさまざまな説が登場し、大河ドラマと歴史ファンを楽しませてくれるかもしれない。

参考文献

・藤田正行『信長の戦い①桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社、2008年)

・千田嘉博・平山優『戦国時代を変えた合戦と城』(朝日新書、2024年)

・『大河ドラマ歴史ハンドブック どうする家康』(NHK出版、2023年)

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小林 明(こばやし・あきら)

歴史ライター 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。歴史ライターとしてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また
『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(歴史ライター 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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