飛鳥時代から日本に広まった仏教。1400年あまりの歴史の間には僧侶たちの醜聞もたびたび起きた。
仏教史についての著作を出した僧侶でジャーナリストの鵜飼秀徳さんは「江戸時代には僧が女性と関係を結んだ『女犯』の罪で死刑やさらし者になった事件がある」という――。
※本稿は、鵜飼秀徳『欲望の仏教史』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■僧が女と交わるのはタブーだった
「女犯(にょぼん)」とは、僧侶が女性と性的関係を持つことを指す。特に戒律を厳しく守るべき出家者にとって、最も重要な戒めである「十重禁戒」の一つとされてきた。女犯の罪を犯した僧侶は、死罪や流罪などの重罪を課されることもあった。だが、いつの時代も出家者の女性問題はなくならず、女犯を巡る記録には枚挙に暇がない。
比叡山延暦寺は、そもそも戒律に厳しい山岳修行の場であったが11世紀以降、僧兵の出現と同時に風紀の乱れが深刻化する。12世紀に成立した『今昔物語』には、しばしば女犯の話題が登場する。
「汝は前世の因縁により、某国某郡の某の娘と夫婦になる」(巻31第3話)
比叡山の阿闍梨(あじゃり)・湛慶(たんけい)は密教に精通し、教養にも秀でた才僧として知られていた。ある時、湛慶は夢に不動明王が出てきて、「お前は前世の因縁によって、ある国の娘と夫婦になるであろう」とのお告げを受ける。
湛慶は、「私は戒を破ることなどできない。不動様が教えてくださった女を探し出して殺してしまおう」と、画策した。
出会った女はまだ10歳ほどの無邪気な娘であったが、湛慶は欲望の芽を摘んでしまおうと考え、少女を襲って首を切りつけ、比叡山に逃げ帰ったのである。
数年後、湛慶が藤原良房(よしふさ)の屋敷に参上した際、湛慶は欲望を抑えきれずにその妻と肉体関係を持ってしまう。女の首を見ると、深い切り傷があった。湛慶が女に尋ねると、「幼き頃、見知らぬ男がやってきて私の首を切りつけました。一命を取り留めた時の傷でございます」と言う。湛慶は、前世の因縁を感じて、夫婦の契を結んだ――。
■欲望を抑えきれず藪の中で「女犯」
『今昔物語』にはほかにも、僧侶の女犯を描いた記述がある。
「修行者、人の家に行き、女主を祓いて死ぬる」(巻26第21話)
ある時、修行僧が托鉢に出て、猟師夫婦の家に入った。そこには夫を待つ女がいた。女に祈祷を頼まれた修行僧は、山に連れ出し、儀式を終えた。だが、女の美しさに欲望を抑えきれず、藪の中で強姦してしまう。その時、女の夫が戻ってきた。
夫は藪の中で動く2人を、獲物と思って射抜いたところ、僧侶に当たって絶命してしまった。
『今昔物語』は説話であるものの、当時の仏教界の規律の緩みを反映しているともいえる。
■「一休さん」は堂々と女性と関係
室町時代における臨済宗・大徳寺の高僧、一休宗純(いっきゅうそうじゅん)は破戒僧としても知られた存在だ。飲酒や肉食などを躊躇なく行い、特に女性関係については隠すことなく公言していた。一休の語録集『狂雲集』には、一休が70歳の頃に出会った瞽女(ごぜ)(盲目の女芸人)との情事も描かれている。
「盲女森侍者、情愛甚だ厚し。将に食を絶って命を殞さんとす。秋苦の余り、偈を作って之を言う」

(目が見えない森という女と出会った。とても愛おしい。食事を絶って、死んでやろうかと思うくらいだ。その胸の苦しみを、詩をつくって表現した)
一見、とんでもない破戒僧のようであるが、俗人的な生き様を示した一休は大衆の喝采を浴びた。むしろ一休は、大寺院の権威主義と偽善を批判するため、あえて破戒僧としての立ち振る舞いをしたとの見方もある。

■江戸時代、多数の僧侶が吉原へ
女犯は、江戸時代には寺院法度によって厳罰の対象となり、その罪と罰の様子は瓦版などを通じて、公にされた。
1796(寛政8)年8月には、寺社奉行による大規模な女犯摘発が実施された。多数の僧侶が吉原遊廓に出入りしているとの情報を聞きつけた寺社奉行が、現場に踏み込んだのである。その結果、日本橋で晒(さらし)に処された僧侶の数は70人にも上ったという。晒とは、罪状を書いた札を立て、身体の自由を奪った状態で人々の前に晒し、恥辱を与える刑罰である。女犯を犯した僧侶には、しばしば晒が適用された。
■大奥のスキャンダルで僧が死刑に
女犯の最も著名な例は「延命院事件」である。1803(享和3)年、谷中の日蓮宗延命院の住職、日潤(にちじゅん)が大奥の女中ら数十人と関係を持ったことが明らかになった。日潤は死罪、女中たちは追放され、中には自害者も出たという一大スキャンダルである。俗に「谷中騒動」とも呼ばれる。
延命院は、寛永年間(1624~1644年)に徳川家光の側室・お楽の方の安産祈祷を願って創建した日蓮宗寺院である。創建当初から徳川将軍家との関係が深く、江戸城の大奥とのネットワークを保持していたともいわれる。

■徳川家ゆかりの寺が密会の場に
将軍家の祈祷寺としての地位を得た延命院には、大奥の女中たちがしばしば参拝していた。江戸時代、大奥たちの外出は制限されていたため、寺への参詣は大奥が許された数少ない外出の機会であった。彼女らは、表向きは「安産」「子宝祈願」などを名目に参詣したが、実態は女中たちの社交場と化していた。
延命院には、特に若く美貌を誇る僧侶が多く在籍していた。僧侶は彼女らの憧れの対象になっていた。僧侶を目当てに、大奥の女中や町方の娘たちが頻繁に“参詣”した。
住職であった日潤はとびきりの容姿端麗さで、かつ説法が巧みな人物として知られていた。
1803(享和3)年の春、延命院にまつわる不穏な噂が、にわかに江戸市中に広まった。
「谷中延命院の若住職が、夜な夜な女中と密会している」

「大奥女中を孕(はら)ませた」
こうしたスキャンダラスな話題が、瓦版などを通じて流布したのだ。すぐに、寺社奉行が事態の把握に動いた。状況によっては徳川政権の威信に関わる可能性がある。奉行所は極秘裏に捜査を進めた。

■美僧が「大奥女中を孕ませた」
寺社奉行の脇坂安董(やすただ)は女性の密偵を用意し、病の平癒祈願などを装って延命院に向かわせた。すると、次から次へと女性らが「夜の参詣」にやってくるではないか。内偵調査を進めると、本堂の奥に小部屋があり、そこが僧侶と女性が密通する場所になっていた。さらに複数の延命院の僧侶たちが女性らと関係を持っていた。
密偵が、逢瀬を終えて延命院から出ていく女を尾行すると、大奥の女中や大名屋敷の侍女、町家の娘など、身分の高低を問わず多数の子女が含まれていたことがわかった。
内偵調査が実施されていることを察した大奥では、一気に動揺が広がった。
奉行所は責任の所在を、大奥方ではなく延命院へと向けた。そして延命院の摘発に動き、同年5月、約80名を動員した大規模な摘発が計画された。摘発は、深夜に寝込みを襲う形で実施された。その結果、僧侶や女性たちは半裸・寝衣姿で逃げ惑い、現場は大混乱となった。
■寺の本堂で町娘と同衾していた
主犯である延命院住職の日潤は、本堂奥の「障子の間」で町家娘と同衾(どうきん)しているところをお縄になった。その弟子の柳全(りゅうぜん)という僧は、別室で大奥女中と密会していた場面を押さえられた。
現場で確保された女性は15名以上にもなった。
奉行所が証拠品を集めると、「夜参籠名簿」なる帳面が出てきて、決定的な証拠となった。そこには女中たちの名前が複数記されていたのである。
日潤は当初、「祈祷目的だった」と主張した。手紙類や夜参籠名簿を突きつけられると、「女性側からの求めに応じた」などと苦しい釈明を続けた。同年7月、日潤は住職の地位剥奪の上、死罪になった。当初は、流刑で済むとの見方もあったが、幕府は綱紀粛正の見せしめとして死罪を宣告したのである。
■死罪を宣告され、さらし者に…
柳全は日本橋で3日間の晒にされ、破門の上、追放された。他の僧侶も僧籍剥奪の罰が科された。
一方、大奥の女中らは終身謹慎処分が6名、大奥追放が4名などの処分が下された。町家女の一部は実家に送還され、一部の女は自害に追い込まれたという。
住職が不在になった延命院は、一時閉鎖に追い込まれた。市中では「谷中騒動」として話題を呼び、芝居や講談といった大衆娯楽の題材になるなど、その汚名を後世まで引きずった。こうした僧侶の堕落劇は、江戸庶民の好奇心を大いに満たすものとなると同時に、寺院や僧侶への不信感を一層強めていったのである。

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)

浄土宗僧侶/ジャーナリスト

1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)
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