外国からの観光客が驚くことに、日本の寺社などには女性が入れない場所がある。浄土宗僧侶の鵜飼秀徳さんは「高野山などは修行の場であるという理由で女性の立ち入りを禁止してきた。
明治維新でほぼ全ての“聖域”が解禁されたが、いまだに女人禁制を貫く山がひとつある」という――。
※本稿は、鵜飼秀徳『欲望の仏教史』(SB新書)の一部を再編集したものです。
■なぜ女性立ち入り禁止になったか
日本の仏教・神道における、女性に対する制約の代表例は「女人禁制」であろう。女人禁制とは、山岳霊場などへの女性の立ち入りを禁止する宗教的慣習のことである。起源は古く、平安時代まで遡るとされる。その実、ジェンダー平等が叫ばれている昨今でも、一部の祭祀や宗教空間で女人禁制のしきたりが続いている。
まず、なぜ女性が特定の宗教空間に立ち入れないかといえば、大きく分けて2つの理由がある。1つは、月経や出産などに伴う「血の穢れ(不浄)」への忌避である。もう1つは、男性の修行者の中に女性が混じると、性的な欲望によって修行が妨げられるため、あらかじめ修行空間から女性を排除しておく(「不邪淫戒」を守る)とする考え方である。
さらに、釈迦の入滅後に「五障(ごしょう)」の思想が広がり、これが『法華経』などの一部の経典に取り込まれたことも、女人禁制に影響を与えたとされている。五障とは古代インドの女性観から発生したもので、「女性は5つの最高位、梵天王、帝釈天、魔王、転輪聖王、仏には到達できない」とする教説である。
五障について触れている経典としては、『法華経』のほかにも『大般若経』などが存在する。
ただし、5世紀に鳩摩羅什(くまらじゅう)によって漢訳された『法華経』の中では、女性が成仏できないことに対する反証も記されている。
そこでは、龍王の8歳の娘(龍女)が、釈迦の弟子である舎利弗(しゃりほつ)らの前に宝珠を供えたところ、瞬時に成仏したと語られている。ただし、「龍女は女性のままで成仏できる」とする解釈と、「龍女が成仏するには男性に転じる(男性器を身につける)ことが条件(変成男子)」とする解釈とに割れている。
■日本で初めて出家した人は女性
こうした女性蔑視的な考え方を前提として、中世の日本では、女性でも救われるという「女人救済」「女人往生」の思想に結びついていったのも事実である。
さて、わが国における女人禁制の歴史を見ていこう。
日本仏教史上初めての出家者は、善信尼という女性であった。時は、仏教受容を巡って蘇我氏と物部氏が争っていた584(敏達天皇13)年。蘇我馬子は司馬達等の11歳の娘、嶋(しま)を剃度(ていど)させ、法名を善信尼と号させた。同時に禅蔵尼・恵善尼の2人も出家した。
馬子は自邸に仏堂を建立し、3人の尼僧を中心に法会を行わせた。後に善信尼らは百済へ渡航して受戒を受け、正式に比丘尼となった。
馬子が、最初の出家者に女性を選んだ理由は、古来の日本では「巫女」、つまり神聖なる女性こそが神々と交信できるとするシャーマニズムの世界観が存在し、わが国の初期仏教でも「巫女」的女性を立てたかったからと推測できる。

■尼には500の禁忌が課せられた
善信尼・禅蔵尼・恵善尼の3者同時出家は、「尼僧サンガ(集団)」の出現でもあった。それは、後の国分尼寺や尼僧の庵など、女性僧侶のためだけの宗教的アジール(聖域)の出現につながっていく。これが、後に男性僧侶の世界から隔絶し、男性優位の仏教が形成されることにつながった側面もありそうだ。
奈良時代、国分寺と国分尼寺が並列してつくられる。一見それは、国家が男女平等の扱いをしているように見える。だが、実際には格差が生じていた。
比丘(男性出家者)は250の戒を守るだけでよかったが、比丘尼(女性出家者)は最大500もの戒を守る必要があった(発足当初は348戒であったが、後に500戒まで増加)。比丘尼戒が多く設定されたのは、男性との接触、肌の露出を防ぐための衣服の規定、外出の制限、八敬法(はっきょうほう)による男性出家者への敬いなどの項目が設けられていたからである。
八敬法とは釈迦の時代に設けられた、女性が出家する際の条件である。例えば、「比丘尼は何歳になっても、比丘に対して合掌して礼拝しなければならない」「比丘尼は半月ごとに、比丘から教えを受けなければならない」「比丘尼サンガの決議において、比丘が承認しなければならない」などと決められている。
八敬法などの影響もあって、尼僧は律令国家における要職の僧綱にはなれなかった。
■月経や出産に伴う「血の穢れ」
7世紀以降に成立した山岳仏教も女人禁制に影響を与えた。
修験道の祖である役小角(えんのおづぬ)(役行者)は、吉野山・葛城山・大峯(おおみね)山などの山岳地帯を修行の場として開いた。
また、788(延暦7)年には最澄が比叡山山中に草庵を構え、天台宗を開いた。816(弘仁7)年には、空海が高野山に密教道場である金剛峯寺を開いた。
山岳での修行は、山を歩くことで神々を感じ、清浄なる自然と同化する。そのため、修験者は女性の月経や出産に伴う「血の穢れ」を嫌った。女性を「斎戒(心身を清め、規範を守って慎む)」を乱す要因とみなしたのだ。
そして、霊山の登り口に「従是(これより)女人結界」などの碑を置き、男性修行空間と俗界の境を可視化したのである。
例えば、修験道の聖地である大峯山や天台宗の比叡山は、山全体を女人禁制とした。その結界(女人結界)の部分には「女人堂」を設け、女性信者らはそこで祈った。女人堂では護符などの授与や護摩、法要などを有料で受けることができた。
■修験道の聖地である大峯山
大峯山女人堂は現役の女人結界としての役割を受け継いでいる。高野山では7つある登山口に女人堂を設けて、それぞれを結ぶ女人道を整備。
この女人道で女性らは祈りを捧げた。現在では「不動坂口女人堂」が唯一、現存する女人堂で、和歌山県の指定文化財に指定されている。
室町時代に入り、山岳聖地の整備が整えられると、参詣者が爆発的に増えていく。北陸では白山や立山が、東国では富士山が、東北では出羽三山(羽黒山・月山・湯殿山)が、山岳修行の場を提供した。そこでも「浄穢の境」が明確化され、山岳聖地での結界運用が地域の常識になっていったのである。
ここで、女人禁制が敷かれた主な山岳聖地を紹介しよう。日本各地の女人禁制の山の歴史と、現在の運用を整理してみた。
■唯一、女人禁制のルールが残る
【大峯山・山上ケ岳(奈良県)】

修験道の根本道場。役行者による開山の後、山上ケ岳一帯に「女人結界」が設けられた。1872(明治5)年の女人禁制撤廃布告後も慣行として女人禁制が継続している。現在では、戸開け期間(例年5月3日~9月23日)に限り入山が可能であるが、「男性のみ入山可」を明示している。各登山口には女人結界門を設置している。
地元である天川村の公式サイトでも「宗教上の理由で今なお女人禁制」と記されている。
【石鎚山(愛媛県)】

修験の山として中世以来の女人禁制伝承を持つ。通年で一般開放しているが、毎年7月1日の「お山開き」初日については「宗教上の理由で女性は登拝不可」としている。
【富士山(山梨県・静岡県)】

江戸時代まで吉田口2合目付近に「女人結界」(女人天上)などの遥拝(ようはい)点を設け、女性はそれ以上は山に入れなかった。1872(明治5)年の布告の女人禁制撤廃によって解禁される。現在では男女ともに登山が可能。
【立山(富山県)】

江戸時代まで女人禁制が敷かれた。女性は山岳修行に代わる救済儀礼として、芦峅(あしくら)寺で「布橋灌頂会(ぬのばしかんじょうえ)」に参加し現世・来世を擬似往還する作法が整えられた。
【白山(石川県・岐阜県・福井県)】

富士山や立山と並ぶ「日本三霊山」の一つとして知られる。女人禁制は明治初期に解けた。現在は男女とも登拝可能である。
■高野山は女性も参拝・宿泊できる
【出羽三山(山形県、羽黒山・月山・湯殿山)】

修験道の三山。
江戸時代までは湯殿山を中心に女人禁制色が強かった。出羽三山のうち、月山および湯殿山の女人禁制は1877(明治10)年に解禁された。現在は、三山とも参拝可能である。
【高野山(和歌山県)】

中世、近世を通じて「女人結界」を設けた。7つの登山口に女人堂を設け、女性は周縁の「女人道」から遥拝した。明治期の全国的な禁制撤廃の後も、内部規定により居住・参入に制限が残った。現在では、参拝、宿坊への宿泊とも男女とも可。
【御嶽山(長野県・岐阜県)】

黒沢口8合目に「女人堂」という山小屋・堂宇が置かれ、かつて女性の立ち入りはそこまでとされた。1877(明治10)年頃から、女性登拝は自由化された。現在、登山自体は男女ともに可。女人堂は山小屋として営業し、その歴史的背景を解説している。
■女人禁制が撤廃された理由は外圧
現代に残る女人禁制の思想
女人禁制が撤廃されたのは、明治維新時の神仏分離令発布後のことである。1872(明治5)年3月、女人結界の解禁の太政官布告が出された。
「神社仏閣ノ地ニテ女人結界ノ場所有之候処(これありそうろうところ)、自今被廃止(はいしされ)候条、登山参詣等可為勝手事(かってらるべきこと)」

(神社仏閣の境内地に設定されている女人結界は、これをもって廃止する。女性の登山や参詣は自由にしてよい)
女人禁制が撤廃された背景には、鎖国が終わり、お雇い外国人らが日本に入ってきたことが大きい。明治政府は、各地で続けられていた女人禁制が国際社会から「女性蔑視」とみなされることを恐れたのである。
だが、布告を経ても、現在まで通年禁制が敷かれている場所がある。大峯山(奈良県吉野郡)系にある山上ケ岳である。
先述のように大峯山は役小角が開いたとされる修験道の聖地である。吉野から熊野に至るおよそ170キロメートルは「大峯奥駈(おくがけ)道」として知られ、山伏による荒行の場であった。大峯山は、断崖絶壁を含む難所続きで、古くから千日回峰行の舞台としても知られている。
この険しさゆえに、女性が立ち入ることの危険性も女人禁制の理由の一つになったと考えられる。

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鵜飼 秀徳(うかい・ひでのり)

浄土宗僧侶/ジャーナリスト

1974年生まれ。成城大学卒業。新聞記者、経済誌記者などを経て独立。「現代社会と宗教」をテーマに取材、発信を続ける。著書に『寺院消滅』(日経BP)、『仏教抹殺』(文春新書)近著に『仏教の大東亜戦争』(文春新書)、『お寺の日本地図 名刹古刹でめぐる47都道府県』(文春新書)。浄土宗正覚寺住職、大正大学招聘教授、佛教大学・東京農業大学非常勤講師、(一社)良いお寺研究会代表理事、(公財)全日本仏教会広報委員など。

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(浄土宗僧侶/ジャーナリスト 鵜飼 秀徳)
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