自民党との連立離脱から3カ月。公明党が立憲民主党との新党結成で合意した。
これから政治はどうなるのか。ジャーナリストの城本勝さんは「公明党のような中間政党が生き残るには大きな政党と一緒になるしか生き残れない。政界再編の可能性は一層高まっている」という――。
■結集か、単なる野合か
これほどのめまぐるしい展開はあまり記憶にない。
立憲民主党と公明党は13日の党首会談からたった2日で新党結成にまでこぎつけた。9日夜に読売新聞の電子版で「高市首相国会冒頭解散を検討」と報じられて、一気に政局が動き出したとはいえ、合わせて170人を超える衆院議員を擁する2党の合流である。
解散報道からでもわずか4日、決まったのは「中道改革連合」という党名と、党首は野田佳彦立憲民主党代表と斉藤鉄夫公明党代表の二人代表とすることの二つだけだった。
基本政策も、現実的な外交・防衛政策や憲法改正論議の深化、持続的経済成長への政策転換等々、抽象的な表現にとどまった。これまで与野党として対立してきた両党だけに、選挙を前に意見の違いが表面化することは避けたかった意図が透けて見える。
政策を調整する時間もない中で、とにかくまとめることを優先した結果だが、「選挙互助会」「政策を脇に置いた野合」という批判は免れないだろう。
■「もう文句をいう時間もないよね」
「拙速という批判は甘んじて受けるしかない。しかし、それも高市早苗首相の奇襲攻撃のせいだ。
高市内閣の支持率が高く、旧統一教会問題などのスキャンダルが批判される前に選挙でごまかそうとか、野党側の選挙準備が整わないうちに解散・総選挙に持ち込もうという方が、はるかに選挙目当ての党利党略ではないか」
立憲内でリベラル派と目される議員は怒りとも言い訳ともつかない口調でそう言った。
「公明党と選挙協力を深める協議をしていることは聞いていたが、ここに来ていきなり新党と言われ驚いた。原発政策や安保法制については、野田代表と安住淳幹事長が独断で進めているが党内には不満もある。われわれも釘を刺しておきたいことがいくつもあったが、もう文句をいう時間もないよね」
去年の10月から、立憲は中道路線を標榜する公明党と接近をはかってきたが、その立憲の幹部も一気に新党まで話が進むとは予想していなかったと言う。
実は取材を進めると、新党に前のめりだったのは、公明党の支持母体である創価学会の方だったことが分かった。
■前のめりだった創価学会
1月14日、東京信濃町の創価学会本部に「方面長」と呼ばれる全国のブロック責任者が集まった。関係者によると、原田稔会長と谷川佳樹主任副会長ら学会首脳部が出席した会議は、高市早苗首相の通常国会冒頭での解散方針が伝えられた後、立憲民主党との間で進んでいた新党結成の方針について創価学会としての最終方針を決定するためだった。
立憲との話し合いのなかでは、当初、比例代表選挙に両党の統一名簿を作成して臨む緩やかな案から衆議院だけの新党をつくる案などが検討されていた。
そしていずれの場合にも、公明党の斉藤鉄男代表の広島3区など公明現職がいる4選挙区に立憲が候補者を擁立しないで、そのほかの小選挙区から公明党は撤退し、選挙区の立憲の候補を支援するという形で選挙協力を進める方針だった。
しかし、この場で原田会長らは、立憲との新党結成、小選挙区からの全面撤退という方針を示した。これに対して維新と激しい選挙戦を展開して敗れてきた大阪ブロックからは「もう一度、維新と勝負させてほしい」という異論も出たと言うが、結局、全員一致で「新党」への合流と小選挙区からの全面撤退の方針が決まった。
これを受けて、公明党は翌15日、小選挙区から完全に撤退し、立憲と合流して新党を結成することで立憲と合意し、新党「中道改革連合」の結成が決まった。

衆議院で170人規模の新党が結成されるのは、1994年12月に当時の新生党、公明党、民社党、日本新党などが参加して衆院議員178人が参加した「新進党」以来、32年ぶりのことである。これによって、2月に迫る衆院選の情勢は一変することになった。
■学会員は板挟み…学会幹部「新党ですっきり」
自民党と決別するこの創価学会の方針は、去年10月、高市政権が発足した頃から強まっていた。
太田昭宏元代表ら自公連立を支えてきた元議員らは、連立離脱に反対して党内の説得にあたったが、この時も創価学会中枢からの強い意向で最終的に連立離脱が決まったと言われる。その背景には、選挙運動を支える学会員たちの間に、自民党への不満が高まっていたことがあるという。
自民党の裏金関係議員を選挙で推薦したことで、公明党じたいが批判を受け、選挙運動の現場では不満がたまっていた。さらには、沖縄のひめゆりの塔の展示を批判した西田昌司参院議員の問題発言やその西田議員が総裁選で支持した高市氏のタカ派的な政治姿勢も問題視されていた。
「うちは平和と福祉が看板です。高市さんのタカ派的な言動は、一般の学会員にはどうしても納得できないものなんです。自民党との連立を解消した後は、みんなこれですっきりしたとむしろ喜んでいた人が多かった。ただ、大半の選挙区では自民党と上手くやってきました。立憲と中途半端な選挙協力をやるだけでは、一般の学会員は板挟みになってしまう。
だからこそ、組織を守るためには新党ですっきりした方がいいと判断したんです」
古参の学会幹部は、そう話していた。
それだけではない。筆者は今回の創価学会の決定の背景には、組織の求心力の低下を防ぎたい意図があったと見ている。
「常勝関西」と言われる程選挙で強さを見せていた大阪でも小選挙区では維新に完敗した。学会員の高齢化や若い学会員の無党派層化も進み、比例代表での得票も減り続けている。2023年に池田大作名誉会長が死去した後は、さらに求心力が低下した。学会員に不満が溜まった自民党との協力に区切りをつけて新たな党で仕切り直すことで、組織を立て直したいという狙いだろう。
■新進党のトラウマ
もちろん党の側は、それほど割り切れているわけではない。新進党のトラウマがあるからだ。
1994年、政権交代可能な二大政党制を目指すとして小沢一郎氏が主導して結成された新進党には公明党も日本新党や新生党とともに参加した。斉藤代表も立憲の野田代表も結成当初から新進党に所属していた。
しかし、95年の発足直後の参院選では比例の得票で自民党を上回る躍進を果たして、政権交代への期待が高まったが、小選挙制導入後初めての96年衆院選では自民党に敗北、その後は小沢氏の政治手法への反発や政治路線の対立が重なって1年後に解党に追い込まれた。

この背景には、新進党に参加した公明党を揺さぶるために、宗教法人法の改正問題や池田大作名誉会長の証人喚問要求などで、自民党が執拗に学会攻撃を重ねたことがあった。そして新進党解党後には、新党平和を経て公明党を復活させ、その後小渕内閣の時代に自民党との連立に動く。
当時官房長官として小渕恵三内閣を支えた野中広務氏が、かつて激しく対立した自由党の小沢党首に「ひれ伏して」自民党との連立に引き入れ、続いて公明党を連立に加えた。
■中間政党の生存戦略
野中氏は後に「野党だった公明党がいきなり自民党と連立というわけにはいかない。間に1枚座布団を入れてくれというので、小沢さんに入ってもらったんです」と証言している。
長年自民党と対立してきた公明党が連立を組むのはそれだけハードルが高かったが、新進党の失敗から中間政党に戻った公明党側も、その先の展望が描けていなかった。
強固な支持組織を誇ると言っても、中間政党として生き残っていくのは難しい。まして大政党に有利な小選挙区になると、公明党単独では勝ち残るのは極めて難しい。与党となれば自民党支持の企業団体の票も期待できる。そうした選挙協力で実績を積み重ねることで、公明党は26年間、生き延びてきたのである。
この間、政策上の違いや繰り返される政治とカネのスキャンダルに、しばしば自民党との対立も表面化したが、それでも選挙協力の互いのメリットの大きさもあって、離脱することはなかった。いつしか、「どこまでも ついていきます 下駄の雪」と揶揄されるようになっていた。

その下駄の雪が、去年高市早苗首相の誕生と共に、ついに離れたのだ。
■学会員が抱えた矛盾
去年の10月20日、高市首相誕生の前夜に都内で開かれた「野中広務先生生誕100年の集い」で出会ったある創価学会の元幹部は、高市首相が誕生するほど自民党がタカ派的、強行右派的な議員が増えた事が政権離脱の大きな要因だと話した。
野中氏が公明党との連立工作を進めた頃を知るこの幹部は、「かつては野中さんや古賀誠さんのように、戦争に反対し平和を重視する議員が少なからずいましたが、とうとうタカ派の高市さんが首相になるほど自民党が右傾化してしまった。公明党の選挙を現場で支えてきた学会員たちは、政治とカネの問題や平和が大切だと思いが強いのでむしろ政権離脱でスッキリしました」と話していた。
長年与党の恩恵も享受してきた公明党だが、現場で選挙を戦う学会員の間では、大衆とともに平和を守るのだという理想と自民党政治との矛盾に不満が溜まっていたのだ。
■立憲議員の疑心暗鬼
そうは言っても26年間も選挙区では自民党候補の名前を書き続けてきた公明党の支持者たちが、そんなに急にいままで戦ってきた相手候補の名前を書くことができるのか、疑問を持つ立憲の議員は少なくない。
あるベテラン議員は、「自民党に行っていた票が確実に減ることだけは確かだが、それがこちらにそっくり来るとは限らない。小選挙区から撤退したことで、比例だけに力を集中してもらっては困る。
それに、比例候補の上位に公明出身者がずらりと並ぶとイメージがどうなのか。言われているほど新党の票が増えるかどうか心配だ」と胸の内を明かしている。
新党結成が決まってからマスコミでは、各社が競い合うように前回の衆院選の得票状況をもとにシミュレーションを行っている。
日本テレビは「仮に比例の公明票が自民候補から立憲候補に異動した場合などは前回自民党が勝利した132の選挙区のうち、72選挙区で自民が敗北していた」と試算している。
また朝日新聞は、同じく「比例の公明党票の5割が立憲に移ったとすると自民が89議席、中道改革は149議席」などとする計算結果を出した。
■政界再編のはじまり
個別の選挙区によって事情が異なるうえに、高市内閣の高い支持率、新党がどの程度評価されるかなど不確定要素も多いが、公明党の票がどの程度動くかは、選挙結果を大きく左右する可能性があることは間違いない。
選挙結果の予想は難しいが、立憲と公明の合流による新党結成のインパクトは大きい。展開によっては新たな政界再編の始まりになる可能性も感じさせる。
筆者は『壁を壊した男 1993年の小沢一郎』(小学館)で、ベルリンの壁崩壊という世界史的な激動の中で、小沢一郎氏や市川雄一氏ら公明党幹部らが、激しい熱量に突き動かされて新党などで既成の枠組みを乗り越え、初めて政権交代を実現した熱い一年を描いた。「一寸先は闇」とも「ジェットコースター政局」とも呼ばれた激しい権力闘争の渦の中には、まだ若手議員だった野田氏や斉藤氏も、高市氏も石破茂氏もいた。
そしてその権力闘争は、改革や理念の実現というきれいごとだけではない、政治家個人も政党も生き残るための生存本能がエネルギー源だった。特に、当時の中間政党だった公明党や民社党は、大政党と合流するか、集まって大きな勢力になるしか生き残る道はなかった。
当時とは世論の空気も社会情勢も全く異なるいまの日本だが、混乱と狂騒の中で、公明党と立憲民主党が新党結成で生き残りを目指している。解散をしかけた自民、維新もそのほかの野党も、次第に熱量をもちはじめた。このダイナミックな動きが、政治に大きな変革をもたらす、その入り口に立っていることだけは確かなようだ。

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城本 勝(しろもと・まさる)

ジャーナリスト、元NHK解説委員

1957年熊本県生まれ。一橋大学卒業後、1982年にNHK入局。福岡放送局を経て東京転勤後は、報道局政治部記者として自民党・経世会、民主党などを担当した。2004年から政治担当の解説委員となり、「日曜討論」などの番組に出演。2018年に退局し、日本国際放送代表取締役社長などを経て2022年6月からフリージャーナリスト。著書に『壁を壊した男 1993年の小沢一郎』(小学館)がある。

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(ジャーナリスト、元NHK解説委員 城本 勝)
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