■桶狭間の敗戦で一気に没落
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)の第4話ではいよいよ桶狭間の合戦が描かれる。
永禄3(1560)年5月19日、駿河(静岡県東部、静岡市の周辺)の守護大名・今川義元(大鶴義丹)が、織田信長(小栗旬)の軍勢によって桶狭間(おけはざま)(名古屋市緑区有松町桶狭間。愛知県豊明市栄町の二説がある)で討ち取られたのだ。
義元は大軍を率いて織田軍を圧倒していたが、300人くらいの旗本に囲まれ、桶狭間で休憩を取っていた時に信長の襲撃に遭い、討ち死を遂げた。今川軍は大混乱に陥り、数多くの武将が討ち死にした。2017年大河ドラマ「おんな城主 直虎」では今川軍に従軍していた井伊家(幕末の大老・井伊直弼を出した)の当主らが命を落としていた。そして、能役者・野村萬斎が義元を演じた2023年大河ドラマ「どうする家康」で描かれたように、桶狭間の合戦以降、武家の名門・今川家は没落していく。
■室町将軍家の子孫だったのに
桶狭間の戦いの直後、義元の子・今川氏真(うじざね)は尾張に出陣しようと試みたが、義元に代わって家臣等に所領を安堵する「代替わり安堵」政務、妻の実家・小田原北条家に対する長尾景虎(上杉謙信)侵攻への援軍派遣などに手間取られた(黒田基樹著『徳川家康と今川氏真』)。その間、支配下にあった三河の徳川家康(松下洸平)が織田信長と同盟を組んで今川家から独立(三州錯乱)。さらに、遠江引間城(のちの浜松城)の飯尾連龍(いのおつらたつ)ら国衆が今川家に対して叛旗(はんき)を翻した(遠州忩劇(そうげき))。
甲斐(山梨県)の武田信玄(高嶋政伸)は氏真にとって実の叔父にあたるが、その様子を見て、永禄11(1568)年に駿河に侵攻した。今川家重臣は信玄に調略され、武田軍に内応。
ここでは、今川家の発祥から滅亡までの歴史をたどっていこう。
■鎌倉時代からの名門、駿河国守護
今川家は、足利将軍家の支流である。鎌倉時代に足利泰氏(やすうじ)の庶兄・吉良長氏(きらながうじ)が三河国幡豆郡吉良(愛知県西尾市吉良町)に分家して吉良を名乗り、その次男・今川国氏(くにうじ)が吉良の北側にあたる三河国幡豆郡今川(愛知県西尾市今川町)に隠棲して、その子孫が今川を名乗ったことに始まる。
今川家は初めに遠江国(静岡県西部、浜松市の周辺)守護となり、次いで駿河国守護に任じられた。その後、遠江守護職が斯波(しば)家(越前・尾張の守護職)の手に渡ったため、今川義忠(よしただ)が守護職奪還に向けて遠江に攻め込んだが、逆に討ち死にしてしまう。
義忠の遺児・龍王丸はまだ幼児だったため、義忠の従兄弟・小鹿範満(おしかのりみつ)との間で家督相続争いが勃発。そこで、龍王丸の母方の叔父・伊勢新九郎長氏(ながうじ)(号・早雲庵宗瑞)、伊勢宗瑞(一般には北条早雲)が駿河に下って範満を討ち果たし、龍王丸が家督を継いで今川氏親(うじちか)と名乗った。氏親は亡父の遺志をくんで遠江に攻め入り、遠江国を確保することに成功した。
■今川義元は四男で、僧から還俗
氏親の死後、長男の今川氏輝(うじてる)が14歳で家督を継いだが、その10年後、わずか24歳で死去。しかも同日に次弟・今川彦五郎が死去するという不自然さであった。
伊勢宗瑞の子孫・小田原北条家は、今川家と盟約を結んで、甲斐武田家と敵対していた。ところが、義元は家督相続とともに、武田信玄の姉妹と婚姻を結んで武田家と同盟してしまう。北条家は今川家の方針転換に激怒、駿河に侵攻した。最終的に今川・武田・北条の三家で相互に婚姻を通じ、甲相駿(こうそうすん)三国同盟が成立した。今川家は東(北条)と北(武田)と同盟関係になったので、西に進むしかない。遠江・三河に侵攻して支配下に置いた。
■信長・家康も手本にした先見性
その政治手腕も先見性があった。義元は30代後半の若さで家督を嫡男・今川氏真に譲り、氏真を駿府に置いて、自らは三河・尾張制圧に専心した。これは、信長がのちに嫡男・信忠に家督を譲って父祖の地・濃尾地方を任せ、安土城で天下を差配したり、家康が正妻・築山殿との間に生まれた信康を岡崎城に置いて浜松城で遠江経略にいそしんだのと同じ構図である。
ところが、義元は桶狭間の合戦で呆気なく討ち死にしてしまう。従来は義元が上洛の途中で信長に討たれたと解釈されていたが、近年では三河の支配確保、もしくは東尾張への支配拡大を目的とした地域戦で、予想外にも落命してしまったという説が主流になりつつある。
■氏真は家康の家臣になり立場逆転
さて、冒頭に述べたとおり、氏真は懸川城に逃げ落ちたが、そこも安住の地ではなかった。
永禄12(1569)年、家康は懸川城を攻め、「幼き頃に今川家の恩を受け、氏真と干戈(かんか)を交える(=戦をする)ことは本意ではない。遠江国は、家康が治めなければ、信玄に取られるだろう。遠江を家康に任せてくれるのであれば、信玄を駿河から追い払い、氏真の駿河奪還に力を貸そう」と申し入れ、和議が成立。氏真は懸川城を開城して、海路で妻の実家・北条家に引き取られた。
しかし、元亀2(1571)年に義父・北条氏康が死去。武田信玄の駿河侵攻で北条家は武田家と義絶したが、氏康の子・北条氏政は武田家との同盟関係を復活。氏真は居づらくなってしまい、家康の元に転がり込んだ。
■信長は今川家に冷たかった
天正10(1582)年、「武田家滅亡後の三月二十九日、信長は旧武田領国の分配をおこない、駿河を家康に与えた。(中略)家康はその際に、氏真に駿河半国を与えることを申請するが、信長は、駿河計略は家康の独力によったからとして、それを却下した」(『徳川家康と今川氏真』)。
天正18(1590)年、家康は関東移封となったが、氏真は同行せず、隠居料として近江野洲郡(滋賀県野洲市)に500石を与えられ、京都に移り住んだ。京都では公家たちと歌会に参加するなど文化的な活動に終始した。しかし、かつては今川家が駿河・遠江両国で約40万石を所有していたことを考えると、没落した感は否めない。
■今川家、江戸幕府の高家となる
氏真の嫡孫・今川直房(なおふさ)は江戸で徳川秀忠に出仕し、家光時代に高家(こうけ)(幕府において朝廷関係の儀式典礼を司る役職)に登用された。
江戸幕府は室町幕府との連続性を欠き、朝廷から正統性に疑問符を付けられていた。そこで、江戸幕府は遠江の大沢家、三河の吉良家などの名門家系を高家に登用して朝廷との折衝に当たらせた。
今川家はもともと吉良家の支流にあり、直房の母は吉良家出身であったから、高家に登用されたのであろう。直房は東照宮の昇格問題に奔走し、成功に導くことで高く評価された。
家康を祀る東照宮は、当初一段格の低い東照社だった。「家光は、東照社を社から宮へと格上げすることを望み、朝廷へ宮号宣下を申入れた。
江戸幕府側でこの問題の解決に奔走したのが今川直房だった。高家のリーダー格だった吉良義弥(よしみつ)が死去して、直房が当時の高家では最年長だったからだと思われる。直房は今出川経季と「知り合い以上の私的関係があった(江戸時代は私的関係が重視された)のが、その成功の一つの理由と思える」(『今川氏と観泉寺』)。この功績により、直房は家禄500石から1000石に倍増され、江戸時代における「今川家中興の祖」と呼ばれた。
■今川家、桶狭間の330年後に滅ぶ
直房を初代と数えると、3代目、および7代から9代まで3代続けて奥高家(高家の1軍のようなもの)に任じられている。
3代・今川氏睦の同僚には織田信門、8代・今川義彰の同僚には織田信由・信順がいる。そう、信長の子孫である織田家も名門なので、子孫が高家に任じられたのだ。あぁ、やりづらい……。
11代・今川範叙(のりのぶ)は奥高家に任じられ、慶応4(1868)年4月に若年寄を兼務している。『今川家と観泉寺』では「このような大役を仰せつかったということは、高家の中では範叙が一番優秀な人材だったのであろう」と指摘しているが、高家肝煎(きもいり)を除くと、今川範叙の経験年数が一番上だったからであろう(高家という集団は極端に年功序列だったのである)。
その範叙が明治20(1887)年に死去。
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菊地 浩之(きくち・ひろゆき)
経営史学者・系図研究者
1963年北海道生まれ。國學院大學経済学部を卒業後、ソフトウェア会社に入社。勤務の傍ら、論文・著作を発表。専門は企業集団、企業系列の研究。2005~06年、明治学院大学経済学部非常勤講師を兼務。06年、國學院大學博士(経済学)号を取得。著書に『企業集団の形成と解体』(日本経済評論社)、『日本の地方財閥30家』(平凡社新書)、『最新版 日本の15大財閥』『織田家臣団の系図』『豊臣家臣団の系図』『徳川家臣団の系図』(角川新書)、『三菱グループの研究』(洋泉社歴史新書)など多数。
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(経営史学者・系図研究者 菊地 浩之)

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