■教育から叙景文が消えた
【養老】ある時、国語の先生が集まる会に呼ばれたことがあって。その時に聞いたんですけど、昭和30年代だったか、戦後かなり早い時期に、教育から叙景文がなくなったというんです。遠足なんかに行くと書かされなかったですか? 言ってみればレポートですね。そういうレポートを書くことをしなくなったんです。叙景文には、文章を書く定型がかなり含まれてるでしょ。それが教育できない。今はどういう文章を書かせてるんですか?
【内田】何を書かせてるんでしょうね。写生文というのは書かせないんですかね。
【養老】スマホがあるから、写真をとって見せればいいんですかね。
【内田】でも、「説明」ってすごく大事なことだと思うんですけどね。「何かを説明する」ということは今の国語では、課題として存在しないんじゃないかな。
それで、その叙景文を書かなくなったというところから、どういう話になったんですか。
【養老】先生も嘆いていたんですけどね。それがないから何か問題があるみたいなことを言われていたと。解剖なんかは、何がどうなっているかを言葉で説明するんですから全部叙景文です。叙景文をなくしていいのかよと思ってました。
【内田】「自分の気持ちを書く」という方向にシフトしたんじゃないですかね。
【養老】お前の感想なんてクソみてえなもんだって(笑)。感想文って本当に日本人は好きですよね。
【内田】好きですよね。ほんとに。どうして子どもに感想なんか書かせるんですかね。
■大学生に「粗忽な人」をテーマに書かせたら…
【養老】それなら叙景文を強制したほうがまだまし。
【内田】僕も本当にそう思います。大学でクリエイティブ・ライティングという授業を持っていたことがあるんです。その時に、学生たちに最初に書かせたのは叙景文なんです。最初に出したテーマが「自分が知っている一番粗忽(そこつ)な人」。
これは身の回りに必ず一人はいるはずなんです。ただ、その人のことを書けばいいだけなんです。身近にいるそそっかしい人の、印象的なエピソードを二つか三つ書いてくれればいいだけです。別にそれを批判する必要もないし、嘲笑する必要もない、ただ「この人、ほんとに粗忽者だな」と驚いた出来事を思い出して叙すればいい。
簡単な課題だと思ったんです。感情資源を動員する必要もないし。だから、簡単にできるかなと思ったけど、みんな難しそうでしたね。
■初心者の「私の話」が一番つまらない
【養老】僕だったらうちのおふくろを書きますね。
【内田】誰でもおもしろいエピソードをいくつかは知ってるはずなんです。でも、そんなことを自分の記憶の中から取り出してこれない。よくあるつまらない話が「周りを見回して、一番そそっかしい人というと私です」というのです。なんで「私の話」なんか書くんだろう。それじゃ「写生」じゃなくて、いつもの「感想文」になってしまう。初心者の書く「私の話」が一番つまらない。それは自分が経験したものを「写生」するという習慣がないんでしょうね。周りを観察していない。
その他に「自分が食べた一番まずかったもの」というテーマを出したこともあります。「繰り返し、同じものが再帰してきた話」とか「なんだか知らないものが宙に浮いていた話」とか、思いつくままにいろいろな作文課題を出しました。
なんとかしてこの子たちを中等教育で身につけてしまった定型から引き剥がそうと思って、変な課題ばかり出したんです。そしたら途中から学生たちも僕が何をさせようとしているのかが、わかってきて。そうなると、いきなり文章が上手くなる子が出てきますね。
■都会の子どもは「言葉の魔力」に頼りすぎ
【内田】僕の見る限り、小学校6年生までの子どもは昔とあまり変わらないです。素直で、元気で。でも、中学高校の6年間で萎れてしまう。中等教育の6年間が、日本の教育の一番の弱点のような気がします。
【養老】それは、いろんな面から指摘されていますね。小学生は口が達者で困りますけど(笑)。とてもかなわないですもん。
【内田】言葉ってある種の呪力があるんですよね。「すみません、そこの窓開けてもらえますか?」と言うと、誰かが窓を開けてくれる。これ、よく考えたらすごいことなんです。わずか一言で他人を動かして複雑なタスクが一つ達成されるんですから。
都会の子どもたちはこの「言葉の魔力」にいささか頼りすぎなんだと思います。田舎だと、「そこの雑草を抜いて」と言っても、誰も自分の代わりに抜いてくれる人がいない。自分の身体を動かすしかない。身体を使うしかないという場面に身を置けば、言葉が持つ全能感に対して抑制がかかるんじゃないでしょうか。
■言葉の呪力にとらわれるとものを壊すようになる
でも、言葉の呪力は年々強まっているように見えます。SNSで罵倒されたせいで鬱になったり、自殺したりする人もいます。面と向かって言われた言葉じゃなくて、どこの誰とも知らない人間が送ってきた電気信号が他人を苦しめたり、悲しませたり、場合によっては殺すことまでできる。言葉の呪力がここまで高騰したことはかつてなかったんじゃないでしょうか。
【養老】オウム真理教の「ポアしなさい」という言葉を思い出しました。
【内田】言葉の呪力にアディクトした人がより高い全能感を求めると、今度はものを壊すようになる。創造するより破壊するほうが簡単ですから。創造を通じて現実を変えるのと、破壊を通じて現実を変えるのでは、破壊のほうが百倍出力が大きい。
百年かけて建てた建物でも一夜で灰燼に帰すし、十年かかって築き上げた信頼関係も心ない一言で一瞬で壊すことができる。だから、全能感だけを求めて行動する人は決してものをつくらない。壊すことに専念するようになる。
■SNSで「一言物申したい人」の目的
【内田】SNSでも、何か一言言わないと気が済まないという人が多いですね。どうして、そんなに口をはさみたいのかな。あれはもしかすると、自分が多数派に属していることを確認したいからじゃないかと思うんです。マジョリティに属していることを承認してもらわないと気持ちが落ち着かない。
【養老】もはや、自己表現という病じゃないですか?
【内田】あれは自己表現というのじゃないと思いますよ。だって、言っている中身は他の人の請け売りや、定型句の繰り返しなんですから。「自分は大勢のうちの一人である」と声高に主張することは「自己表現」とは呼ばないでしょう。
あの人たち、コンテンツはどうでもいいんです。メンバーの頭数が多い言論集団に参加しているということを確認しているだけなんだと思う。ネトウヨやヘイトが隆盛するのも、みんな同じ言葉づかいをするからでしょう。そういう集団に帰属している限り、定型的なことしか言わないで済むから、個体識別されない。
集団に溶け込んで、匿名性を獲得したいという気持ちはわかるんですよ。頭数の多い集団に属していると楽ですから。どんな非論理的な、でたらめなことを言っても、自分の「同族」の誰かが、そのエビデンスを示してくれたり、理路整然と論証してくれることを当てにできるから。自分がやらなくても、誰かがやってくれるだろうと思える。だから、多数派に属している人間はどんどん言葉づかいが粗雑になるんです。
■「多数派」を盾にテレビで暴論を吐く人たち
テレビのコメンテーターで暴論を吐く人たちは「オレのバックには、同じ意見の人間が何十万、何百万もいる」と信じているからあんな言葉づかいができるんです。
養老先生や僕のような「こんな変なことを言うのは自分しかいないだろうな」と思っている少数派の人間は、誰かが自分の言いたいことを代わって言ってくれるということをまず当てにできない。だから、「情理を尽くして語る」しかない。道行く人の袖を掴んで、「ちょっと僕の話を聞いてくれませんか」とお願いするしかない。だから、どうしても話がくどく、長くなる(笑)。
【養老】調べ物でも何でもスマホに頼って、他人と同じ結果を得て満足するのと、同じ構図でしょう。楽なほうが気持ちよくて面倒くさいのは嫌だという、単純化の方向へ流れているんです。
■「論破」は自分自身の成長を止める呪い
【内田】「論破」ということをありがたがる風潮もよくないですね。だって、相手をうっかり論破してしまったりすると、その成功体験が後々災厄をもたらすじゃないですか。後になって自分が言ったことが間違っていたとわかっても、論争相手に屈辱感や不快感を与えたという事実は変えられない。今さら謝っても仕方がない。
となると、論破した人は「私は一度も間違ったことを言っていない」という無謬性にしがみつくようになる。論破したら、その成功体験が手放せなくなる。そして、同じロジック、同じレトリックで、いつまでも論敵を「論破」し続けることになる。成功体験に釘付けにされる。
それは自分で成長を止めることです。自分自身に向けて「変化するな、成長するな」という呪いをかけ続けることです。
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養老 孟司(ようろう・たけし)
解剖学者、東京大学名誉教授
1937年、神奈川県鎌倉市生まれ。東京大学名誉教授。医学博士。解剖学者。東京大学医学部卒業後、解剖学教室に入る。95年、東京大学医学部教授を退官後は、北里大学教授、大正大学客員教授を歴任。京都国際マンガミュージアム名誉館長。89年、『からだの見方』(筑摩書房)でサントリー学芸賞を受賞。著書に、毎日出版文化賞特別賞を受賞し、447万部のベストセラーとなった『バカの壁』(新潮新書)のほか、『唯脳論』(青土社・ちくま学芸文庫)、『超バカの壁』『「自分」の壁』『遺言。』(以上、新潮新書)、伊集院光との共著『世間とズレちゃうのはしょうがない』(PHP研究所)、『子どもが心配』(PHP研究所)、『こう考えると、うまくいく。~脳化社会の歩き方~』(扶桑社)など多数。
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内田 樹(うちだ・たつる)
神戸女学院大学 名誉教授、凱風館 館長
1950年東京都生まれ。東京大学文学部仏文科卒業。東京都立大学大学院人文科学研究科博士課程中退。専門はフランス現代思想、武道論、教育論など。2011年、哲学と武道研究のための私塾「凱風館」を開設。著書に小林秀雄賞を受賞した『私家版・ユダヤ文化論』(文春新書)、新書大賞を受賞した『日本辺境論』(新潮新書)、『街場の親子論』(内田るんとの共著・中公新書ラクレ)など多数。
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(解剖学者、東京大学名誉教授 養老 孟司、神戸女学院大学 名誉教授、凱風館 館長 内田 樹)

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