春は引っ越しの季節だ。だが賃貸マンション・アパートを退去する時、思わぬ高額請求に直面する人は少なくない。
東京総合法務事務所の代表司法書士・西村茂二郎さんは「根拠不明の費用や、本来払う必要のない請求は珍しくない。少しでも違和感があれば、必ず確認すべきポイントがある」と話す。ライターの黒島暁生さんが実例とともに読み解く――。
■退去時に指摘された「56箇所の傷」
入学式や入社式など、人生の新たなフェーズと密接にかかわる引っ越し。新天地へ羽ばたくため、現在住んでいる賃貸物件を退去する人も多いだろう。同時に、退去時費用の請求トラブルに遭いやすい季節でもある。その実態について、実例から読み解く。
2025年6月、都内・山の手と呼ばれるエリアに住むサラリーマン、大西一寛さん(40歳、仮名)は、仕事の都合で引っ越すこととなった。広さは40平米ほどで、家賃は13万円強。新築で借りて、2020年9月から5年近く住んだ賃貸物件だ。管理会社に退去を申し出ると、間もなく退去立会業者と呼ばれる人物から連絡が来た。
「少し前に引っ越しを終えて空になった部屋で、業者と部屋のチェックを行うとのことでしたので、言われたとおりにしました。
業者は名刺を差し出すと、『傷や傷みなどがないか、点検します』と言って床にペタペタと水色のテープを貼り出したのです。神経質に部屋を使っていたわけではないので傷みがまったくないとは言いませんが、それにしても『やけに多いな』と思いました」
大西さんに喫煙歴はなく、喫煙者を部屋に入れたこともない。もちろん、禁止されていたペットの類いも飼育はしていなかった。それでも業者は、「かなり入念に細かい傷を探していた」という。
「1時間半近く点検をして、最後に“退去立会確認書”という紙を渡されました。そこにはクロスの張替えが必要となる傷として56箇所と記されていました。ただ、住んでいる年数が5年だったので、実際には22%の費用で済む――というような説明をされたと記憶しています」
■「敷金分+4万円」の請求
大西さんが退去費用として請求された金額は、16万8924円。敷金は家賃1月分と同じ13万円強だから、少しはみ出る程度の金額だ。「正直、敷金のほかに4万円程度の出費は、幸いそこまで大きな打撃ではありません」と話す一方で、違和感が残った。
「たとえばあまり使用していないクローゼットの奥の、まったく身に覚えのない微小な傷まで丁寧にテープが貼られているのを見ました。ほかにも、明らかに通常生活をしていればつくような極めて細かい傷にまでテープが貼られていて、故意につけた傷ではないものにまで重箱の隅をつつく姿勢に不信感を抱きました。率直に、『これは正当な請求なのだろうか?』と思いました。
とりたてて法律に詳しいわけではないものの、このままサインをしてはいけない気がしたんです」
大西さんは業者に対して、「専門家に相談するので、ここでのサインはできません。回答期日を設けてくれればそれまでに回答する」と伝えた。業者は少し焦ったような素振りを見せて、そのあとどこかへ電話をかけにいったという。結果として、回答期日までに回答する旨を一筆書き、その日は業者は帰っていった。
その後、専門家を入れた交渉の結果、無事に12万円程度まで請求額は減額。「敷金もわずかに返金されました」と大西さんは苦笑いをした。
■専門家「根拠不明の費用の提示、珍しくない」
このように、法外な値段を請求されたわけではなくとも、退去時費用が適正であるかどうか、判断に困る場面はある。この点について、東京総合法務事務所の代表司法書士・西村茂二郎氏は「退去費用に関して、過大請求のトラブルは依然として多い」と指摘する。
「民法によって、通常使用による損耗や経年劣化――たとえば日焼けや家具の設置跡など――の修繕費用は貸主負担となることが決められています。しかし、根拠不明の費用を提示されたり、本来であれば通常損耗の範囲内であるはずの費用を請求されるケースも、珍しくありません。
借主が自力で交渉するとなると、相場がわからないまま提示額を受け入れることになりかねず、結果として不利に働く可能性が高いです。早期に専門家に相談することによって、トラブルの深刻化を防ぐことができるものと考えます」
とはいえ、一般人にとって法律相談はややハードルが高いことも事実だ。
特に大西さんの事例のように、請求金額が敷金から大きく逸脱していない場合には、法曹への新たな相談費用がいくらかかるのかも心配にならないだろうか。
■「敷金を使い切る」「数万円だけ上乗せ」事例は多い
「当事務所は、通常は発生する着手金をいただいておりません。まずは相談していただいて、減額された分から、成功報酬をいただいております。相談をためらわれている方にも、なるべく敷居を感じないようにしています。
また、おっしゃるとおり、敷金を“使い切る”、もしくは数万円だけ上乗せするような請求事例はとても多くなっています。特に清掃費、クロス交換費など、一般の方々が相場が把握しづらいものについては、少し高い金額であっても『このくらいかかるのか、仕方ない』と諦めてしまう方もいらっしゃいます。無駄な支払いを防ぐためには、なるべく早い段階で専門知識を持つ人間に相談することが肝要でしょう」
驚くことに、敷金内に収まっていたとしても、不当な請求である可能性は依然否定できないのだという。
「敷金内の精算であると、安心してしまう心理はとても理解できます。敷金はすでに支払いを終えているお金であり、手元にないことから、敷金内に収まっている請求額について細かく検討しない人も多くいることと思います。しかし、よく精査してみると、経年劣化の修繕費用を差し引かれている事例もあります。あるいは、入居前からあった傷や設備の劣化についても、借主が負担させられているケースもあります。こうした事例は、本来返金されるべき敷金の一部まで搾取をされていることになりますから、少しでもおかしいと感じれば相談すべきでしょう」
■安易に署名してはいけない
退去時の点検作業や請求書などのやり取りは通常、業者と借主の一対一で行われる。
素人がひとりで業者と対峙するときに注意すべき事柄はどのようなものか。
「もっとも大切なことは、提示された請求書に対して、安易に署名をしないことです。また、借主が感情的になったり、相手の口車に乗って個人の判断で議論を続けてしまうと、それだけで時間を消費してしまい、よい結果になりません。
具体的には、たとえば賃貸借契約が保証会社利用で行われている場合には、議論に時間を費やしている間に保証会社に対する代位弁済手続きを進められてしまうことがあります。保証会社による保証履行が行われると、交渉の相手が貸主や管理会社ではなく、保証会社に切り替わります。そうなると、対応できる選択肢が限られてしまい、結果として減額交渉は難航を極めます。退去費用のトラブルは時間との闘いでもありますので、法的根拠や相場を理解したうえで反論をすることが有効となります」
借主は通常、素人である場合が多く、対して業者は賃貸物件の界隈に詳しいプロ。まして制限時間のあるなかで丸腰で闘うのは得策ではない。とはいえ、業者に対して牽制する一言を放つことはできるのだという。
■「請求の根拠を示して」と伝える
「大切なことは、請求の根拠資料を提示してもらうことです。したがって、『法的根拠と減価償却を踏まえた資料をご提示ください。確認のため、専門家に相談を行います』と告げてください。
そうすることで、根拠の不明瞭な請求を抑制することが可能だと考えます。ただし、その後の交渉においては、相手方も法的な対策を講じてくることが予想されます。対面の際に一度、言葉で制しておいて、実際にも専門家への相談をおこなった方がよろしいと思います」
前提として、借主に落ち度がある場合は当然に原状回復の義務を負うべきである。また一般論として、借主は住まわせてもらった賃貸物件について極力きれいな状態を保つべきだろう。だがもしも借主の無知につけ込んで、あるいは借主から追及されないことを見越して、“ギリギリ不当”な請求を繰り返す賃貸業者やその界隈がいるとすれば、どれほどさもしいことか。
借主の「面倒だからこのくらいなら支払ってしまおう」が業者の悪辣を増長させる。違和感を無視せず、相談の労を惜しまないことで、老獪で微妙な悪事を迎え撃てる。
原状回復をめぐるトラブルとガイドライン(再改訂版) 平成23年8月」国土交通省住宅局

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黒島 暁生(くろしま・あき)

ライター、エッセイスト

可視化されにくいマイノリティに寄り添い、活字化することをライフワークとする。『潮』『サンデー毎日』『週刊金曜日』などでも執筆中。

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(ライター、エッセイスト 黒島 暁生)
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