2026年は丙午(ひのえうま)だ。その60年前には何が起きていたのか。
社会学者の吉川徹氏は「昭和の『ひのえうま』では出生数が約41万人も減少した。その裏では、人為的な“調整”が行われていた」という――。
※本稿は、吉川徹『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(光文社新書)の一部を再編集したものです。
■昭和のひのえうまにおける「産み控え」
ひのえうまをめぐる迷信の存在は広く認識され、それがこの年に子どもをもうけない動機を提供してきました。では一体どのようにして、これほど広範で斉一的(せいいつてき)な行動を、この12カ月間に限って行うことができたのでしょうか。赤ちゃんを減らした具体的な手段について考えましょう。
江戸から明治の歴代のひのえうまにおいては、結婚の延期、受胎後の中絶、出生後の届出操作が手段でした。もうひとつ間引きという重要な方法があったのですが、さすがに昭和のひのえうまについては、これは考えないことにします。それぞれの出生抑制の手段は、昭和40年前後のこの時代には、どれくらいの規模で用いられていたのでしょうか。そして、その数にはこの年だけの変化がみられるのでしょうか。
■結婚時期の調整はあったのか
まず結婚時期の調節です。昨今では、妊娠を確認してから入籍する「授かり婚」や、結婚しても子どもをもたないなど、多様なスタイルの選択が当然のことになっています。
そんなわたしたちの感覚では、結婚してしばらく子どもをもたないライフスタイルはごく普通にみられることであり、第一子の出生タイミングを見越して、結婚の時期をずらすというやり方はやや奇妙にみえます。
けれども繰り返してきたとおり、この当時は結婚すれば女性は仕事を辞めて、専業主婦になることが標準的な慣行として根付いていました。「寿退社」、「永久就職」という当時の言葉は、この慣行を物語っています。若い男女が入籍すれば、1~2年のうちに嫡出第一子を授かるものだ、という社会通念が広く受け入れられていたのです。実際に7割以上の夫婦がそうしていたので、結婚から第一子出産までの間隔は平均1.8年ほどでした。
このような昭和的な事情から、ひのえうまの到来を見越して、結婚自体のタイミングをずらすカップルが多い(多かった)のではないか、と、リアルタイムの報道でも、のちの研究でも、さかんにいわれてきたわけです。
しかし結論からいえば、1966(昭和41)年前後の婚姻数はどの年もほぼ95万件で、結婚前倒しや結婚延期は、統計資料からは確認できません。このことは、この年において、今すぐ子どもが欲しいと願いがちな新婚夫婦の数は、決して少なかったわけではないということを意味しています。そして、結果的に総出生数が少なくなったこの生年に、新婚夫婦が授かる赤ちゃんを基礎数とする、第一子出生の比率が高かったこととも整合しています。
■中絶はあったのか
では中絶についてはどうでしょうか。非科学的な迷信や社会的に自己成就した予言を理由に、この年の中絶、堕胎、死産の数が増えるようなことは、あってほしくはありません。
このことを考えるにあたり、まず当時の人工妊娠中絶の数を確認しておきます。
人工妊娠中絶数は、ひのえうまの1966(昭和41)年は約80万8千件であったと報告されています。これは中絶率(年単位の出生数と中絶数の合計に占める中絶数の割合)にすると37.3%にもなります。
じつは迷信とは全く関係なく、この時代には、驚くべき数の人工妊娠中絶がなされていたのです。結婚している夫婦が望まぬ第二子以降を妊娠した場合には、22週目までの早い段階において、産婦人科で人工妊娠中絶をすることが一般的であり、それがこの中絶数の多さの内実です。
人工妊娠中絶は、女性のクオリティ・オブ・ライフを守るために、権利としては認められるべきものです。けれども、はじめから中絶することを前提とした妊娠や、出産・育児の計画性がないまま妊娠したために出産を断念することは、女性の心身に多大な負担をかける濫用行為です。
さまざまな理由があったにせよ、約80万8千という件数は、ひのえうまの約50万人の出生減など、どうでもよく思われるほどの深刻なリプロダクティブ・ヘルス/ライツ(性と生殖に関して、自らの健康を守りつつ、自分自身で選択し、決めることができる権利)の侵害に他なりません。現在でもなお、日本の中絶率は依然としておよそ14%前後、2023(令和5)年の人工中絶件数は12万6千734件もあるのですから、60年経っても解決していない課題です。
■「ひのえうまによる中絶」ではなかった
以下は、あくまでそのうえでのことです。当時は政策の後押しもあり、人工妊娠中絶件数は年々減っていましたが、その減少トレンドには、ひのえうまによる一時的な変動は生じていません。死産の数についても、この年だけの増加は確認できません。
この1年間の出生抑制が人工妊娠中絶などを手段としたものであれば、1966(昭和41)年の統計値では、これらの数が特異なかたちで増えているはずです。
それがみられないということは、授かっておいて産まないというやり方は、存在は知られていたけれども、ひのえうま出産を避ける手段としては用いられなかったということです(伊藤達也・坂東里江子1987、坂井博通1995)。
なお、この時代には超音波検査(エコー)で胎児の性別を知ることは、機材の性能上不可能だったので、「男の子なら産むが、女の子ならば中絶する」という選択肢を考える必要はありません。すべての妊娠において、女の子であるかどうかは、生まれてくるまでわからなかったのです。
■届出による生年変更は可能だったのか
残る手段は、出生届の操作と受胎調節です。明治のひのえうまで「祭り替え」と称して主たる回避方法とされた、届出の操作のほうからみていきましょう。
1966(昭和41)年の性比は、107.6と、通常よりも女子の数がごくわずかに少なくなっています。このことについて、厚生省統計調査部(1969)は、暦年境界における日単位での男女の届出数にかんする、とても詳細な検討を行っています。
それによると、1966(昭和41)年初と年末については、それぞれ約10日間の幅で女子の届出数が少なく、その分だけ前年である1965(昭和40)年12月末の約10日間と、翌年である1967(昭和42)年1月初旬の女子の出生届出数が増えています。このことから、約4千人が前年に、約5千人が翌年に、合わせると9千人程度の女子の出生年「変更」がなされたことが推測されるといいます。
確かにこの数を差し引きすれば、この年の性比の偏りの帳尻がぴたりと合います。届け出られたご本人たちには全く責任のないことで、すでに「時効」であると思われることですが、人口統計データは、1965(昭和40)年末と1967(昭和42)年初の数日が生年月日である女性のおおよそ10人に1人は、実際は1966(昭和41)年に生まれたのではないか、と示唆しているのです。生年月日がひのえうまになることをできれば避けたい、と望んでいた、当時の親たちの心性を垣間見ることができる事実です。

■昭和で一層整備された「母子手帳」
もっとも、この届出操作の数は、明治のひのえうまの祭り替えとは比べものにならないわずかさです。ひのえうま生年136万1千人からすると0.7%程度、減少分の46万人の約2%を説明するにすぎません。
明治と昭和の届出操作の規模の違いは、日付を変える自由度が極めて小さくなったことによるものです。
母子保健法が現行制度に改正されたのは、ちょうど1965(昭和40)年の妊娠からであり、これ以降は、母子手帳(母子健康手帳)が一層整備されました。母子手帳は市町村を通じて妊婦に対して妊娠8カ月目までに交付され、以後、ほぼ毎月の妊婦健診の記録が残されます。そして無事新生児が生まれたら、出生時の情報が記録されます。さらにその後も乳幼児健診、予防接種、既往歴、成長の諸記録の記載が続けられます。後に開発途上社会にも普及することになる、日本が世界に誇るこの公衆衛生のシステムは、偶然にもこのタイミングで確立されていたのです(中村安秀2021)。
周産期の詳細な記録が全員について残っている以上、分娩の年月日を動かせるのは、せいぜい前後数日に限られます。さらにこの時期、病院もしくは産院での出産が急速に増え、自宅出産は16%程度と少なくなっていました。
■昭和の届出調整は現実的に難しい
出生の届出は、1948(昭和23)年に施行された戸籍法などに従っており、現在とほとんど異なりません。まず出生証明書を作成してもらいます。
記載事項は、赤ちゃんの氏名、性別、出生の日付と時間、体重、体長などで、医師などが署名押印します。父親または母親は、この出生証明書を出生届に添付して、出生の日から14日以内に居住市町村に届け出る必要がありました。
さらにこの時代には、これと同時に人口動態調査出生票を提出していました。現在の出生連絡票にあたるもので、本書でも利用してきた人口動態統計のデータとなるものです。つまり、複数の書類において、出生年月日はもちろん、出生時間(分単位)、出生の場所までもが、医師や助産婦(現在の助産師、以下助産婦とする)による確認のうえ記載されて、届け出られていたのです。
よって、出生届の操作はとても無理であったことは明らかです。
■主たる手段は「受胎調節」
というわけで、消去法により、昭和のひのえうまの人口ピラミッドの切り欠きは、主として受胎調節(バースコントロール)、すなわち妊娠すること自体を避ける営為によって形成されたということが結論付けられます。
受胎調節が主たる手段であったことは、じつは複数の先行研究ですでに指摘されています(山口喜一・金子武治1968、山口1967、厚生省統計調査部1969、坂井1995、大谷1992)。なかでも、計量経済学の手法を用いたロールフスらの研究は優れたものです(Rohlfs et. al 2010)。そこでは、弘化、明治、昭和の3度のひのえうまの周辺年について、出生数、男女の性比、前年の婚姻数などの人口統計のマクロデータの動きから、出生抑制の手段を推定しています。そこで明らかになったのは次のことです。
弘化のひのえうま生まれでは、40歳時において女性の人口が男性の人口よりも少なくなっていました。
これは若干数の女児の祭り替えがなされたことに加え、生物学上の確率としては生まれているはずの女性が、おそらくは子殺しや遺棄、あるいは厄難をはかなんだ自死のために、明治期までは生存していなかったことを意味しています。
明治のひのえうまの周辺年では、女児についてのみ後年への祭り替えがなされたことが推定されます。これに加え、日露戦役で結婚の延期がなされたため、出生減が生じたという痕跡も確認されています。
しかし昭和のひのえうまでは、出生数は大幅に減少していますが、男女の数の異なりはほとんどみられません。このことから、性別不明のまま出生(妊娠)自体が後年に延期されたことが、出生減の主たる要因であったものと推定されています。それぞれの時代のひのえうまの出生減のメカニズムは異なっていて、昭和のひのえうまでは、バースコントロールにより、出生≒受胎のタイミングをずらすことが主たる手段であったと結論付けられているのです。
■明るい家族計画――出生減の「立役者」
受胎調節とはすなわち(さまざまな方法による)避妊です。当時の日本社会では、避妊は家族計画と表裏をなすものでした。家族計画というのは、それぞれの世帯において、産児数や出産間隔などを計画的に調節することです。これはあまり表立って語られないデリケートなものごとなので、その実態はなかなかみえにくいものです。少しだけ寄り道になりますが、この時代に全国で展開されていた家族計画普及のための活動の歴史をひもといていきましょう。
始まりは1950年代のことになります。避妊の指導普及は、母体への負担の大きい人工妊娠中絶を用いることなく、出生数を抑制するために全国で政策的に推進されました。それゆえに、そこには「明るい家族計画」というスローガンが掲げられたのです。
これを草の根レベルで推進したのが、受胎調節実地指導です(高木雅史2013)。これは、いわゆる主婦層の既婚女性たちを対象として、子どもを計画的につくることの大切さを啓蒙し、生殖科学の知識を伝え、主として第二子以降について、受胎のタイミングをどうやって調節するかを実地指導する制度的枠組みです。
■助産婦などが受胎調節を主導
講師を務めたのは、受胎調節実地指導員です。この資格は、現在でもリプロヘルス・サポーターとして継続されており、定められた講習を受講することによって都道府県知事から指定を受けることができます。1950年代後半、そのほとんどは助産婦が兼任していました。同じ女性である妊娠・出産の専門家たちが、避妊の正しい知識と方法を、講習会を開催するなどして、まさに実地により、主に乳幼児をもつ若い母親たちに指導していたのです。
その中身は、女性自身が基礎体温を記録することなどで生理周期を把握し、排卵後数日の性行為を避けることや、避妊具を正しい方法で用いることなどです。よく知られているオギノ式避妊法や基礎体温(リズム)法も、このときの指導内容だったのですが、これらは1930年代に発表され、それ以降に普及したものなので、明治のひのえうま以前には知られていなかった生殖科学の知識です。
この講習活動は1970年代初めまで続けられましたが、その後は高校、のちに中学校の保健教育に役割を受け渡しています。戦前・戦中生まれの女性たちは、旧制の初等中等教育において、女性の身体管理や生殖医療について正しい科学的知識を授かる機会がほとんどありませんでした。受胎調節実地指導は、この生年世代の女性たちに対する社会教育活動だったのです。

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吉川 徹(きっかわ・とおる)

大阪大学大学院 人間科学研究科教授

専門は計量社会学、特に社会意識論、学歴社会論。SSPプロジェクト(総格差社会日本を読み解く調査科学)代表。著書に『現代日本の「社会の心」』(有斐閣)、『学歴分断社会』(ちくま新書)、『学歴と格差・不平等』(東京大学出版会)、『階層・教育と社会意識の形成』(ミネルヴァ書房)、『日本の分断』(光文社新書)、『ひのえうま 江戸から令和の迷信と日本社会』(光文社新書)などがある。

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(大阪大学大学院 人間科学研究科教授 吉川 徹)
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