NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、桶狭間の戦いが描かれている。実際の織田信長は、どのような行動をとったのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、過去の文献などを基に史実をひも解く――。
■桶狭間の戦いは“賭け”
NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」第2話。織田信長(小栗旬)は、ついに織田伊勢守の居城・岩倉城を落城させ、尾張に覇を唱えることに。今後に不安を隠しきれない市(宮崎あおい)も登場、藤吉郎(池松壮亮)と共にいよいよ小一郎(仲野太賀)も侍となることを決心し、ようやく物語は最初の山場である、桶狭間の戦いに向けて動き出している。
桶狭間の戦いは、誰もが知っている日本史の戦い。今川の大軍に追い詰められた信長、家臣が決戦か降伏かをめぐり意見が分かれる中で信長は「敦盛」を舞って出陣。僅かな兵による奇襲で、見事に今川義元を討ち取り天下布武の第一歩を踏み出す!
これまで江戸時代以来、多くの作品に描かれてきたゆえに決断力に満ちた信長を天才として描くのは、ごく当たり前のこと。
でも実際はどうだったのか? 信長に「敦盛を舞う余裕」なんて本当にあったのだろうか?
桶狭間の本質は、「奇襲が成功したかどうか」ではない。信長が「賭けに出ない」選択肢を最初から持っていなかったことにある。
そもそも、信長が出陣を前に、敦盛を舞ったと記録しているのは信長旧臣の太田牛一が記した『信長公記』である。この記述はこうだ。
明かたに佐久間大学織田玄蕃かたより早鷲津山丸根山へと人数取りかけ候由追々御注進在之此時信長敦盛の舞を遊し人間五十年下天の内をくらふれい夢幻の如く也一度生を得て滅せぬ者の有へきかとて螺ふけ具足よこせよと被仰御物具めされたちながら御食を参り御甲をめし候て御出陣
■地方の小さな戦闘に過ぎなかった
『信長公記』の作者である太田は尾張春日井郡の出自で、官僚として信長に仕え、その後は丹羽長秀や秀吉と主人を変えている。
信長の近くにいた人物が書いているために、史料として信頼性はあるものの、実はこの『信長公記』、桶狭間の記述には大きな謎がある。永禄3年(1560年)の桶狭間の戦いを「天文21年(1552年)」と記しているのだ。しかも、この年号を3回も繰り返している。
単なる記憶違いか? それにしては不自然だ。
ともあれ、一次史料といえるものはこれしかない。
なんで、そんなに史料がないのか? それは、誰もこんな戦いが後世には重要なものと評価されるなんて考えなかったからだ。
現代の我々は桶狭間の戦いが、信長が天下布武に乗り出す第一歩として知っているが、当時は地方での小さな戦闘に過ぎなかった。有力大名である義元が討ち取られたことは衝撃的だが、戦いそのものを記録して残そうとする必然性すらなかったのだ。
そもそも、信長にとって義元との戦いは避けがたいものだった。
信秀の代には織田勢が一時西三河に侵攻するなど、両者の勢力圏は衝突していた。その最前線にあったのが、鳴海城(現愛知県名古屋市緑区鳴海町)だ。
■義元の軍事行動は“秒読みの段階”
ここは、もともと信秀配下の山口教継が城主を務めていたが、信長の代になると裏切り、義元についた。
そればかりか、教継は子・教吉と共に攻めてきた信長を破り、さらには周囲の城も調略で手に入れていた。
これは信長にとって屈辱的な敗北だった。家督を継いだばかりの若造に、国人たちが不信感を抱くのも当然だ。
もっとも、裏切った山口親子も安泰ではなかった。今川方には、またいつ裏切るともわからないと疑われ、最後は駿河に呼び出されて切腹……。以降、今川家譜代の岡部元信が城を守り、対する信長は周囲に砦を築いて対峙しているという状況が続いた。
このように、なんとなく今川が優勢だが、周囲はまだ様子見の状態。そこで支配を盤石なものにするべく、義元が大規模な軍事行動を起こすかは秒読みの段階だったのである。
尾張から今川勢の影響力を排除するためにも、信長にとって国内統一は必須の課題であった。しかし、これには存外に時間がかかってしまった。信秀の死去は1552年(推定)、そして岩倉城落城は1558年。
親を継いでから6年だから、かなり頑張ったほうかもしれない。
ところが、問題は岩倉城が落ちたからといって尾張が完全に統一されたわけではなかったことだ。
そもそも信長は、岩倉城を独力で落とせなかった。同族である従兄弟の織田信清の協力を得て、ようやく落城させたのである。
■桶狭間に来なかった信清
この信清という男が、また厄介だった。
一応は家臣ということになっているが、実態は大違い。もともとは信秀が死去した後に犬山城で独自勢力を旗揚げした人物だ。その後、信長の姉(犬山殿)との婚姻で表面上は主従関係を結んだものの、制御がきいているとは到底言い難い。
このように、義元が侵攻した時点での信長は、勢力を争う兄弟や親類を滅ぼして、なんとか尾張をほぼ手中に収めた……ように見えるハリボテに過ぎなかった。
このような状況で行われた桶狭間の戦い。『信長公記』によれば、出陣した信長のもとに集まった兵力は2000人。これが、信長が一声かけて集まる限界だった。
小瀬甫庵の『甫庵信長記』によれば、2年前の岩倉城の戦いでは、信長軍2000余騎のところへ従兄弟・信清の1000騎が来援し、合わせて3000騎で岩倉勢3000騎を打ち破ったとある。

ところが、桶狭間には信清は来なかった。おそらくは、信長と義元がぶつかるのを待っていたのだと考えられる。
岩倉城の際には、味方する価値があった。だが今川の大軍(実数2万5000人程度)が来襲したとなれば話は別だ。ここで信長に味方すれば、自分も巻き添えを食う。それよりも、信長が敗れた後の尾張で新たな盟主となる。もし合戦の後に和議が成立したとしても、信長も無傷ではなく、自分への抑えもきかなくなる……信清がそう計算したとしても不思議ではない。
■信長の兵たちは動揺していたのではないか
こんな状況だから、信長に馳せ参じた2000人の中にも、動揺はあっただろう。そもそもこの2000人、別に「信長様のために死にます!」なんて忠臣ではない。
信秀の代からの譜代だって、「若造の殿様、大丈夫かよ……」と心配していたところ、岩倉城を落としてようやく「おお、案外やるじゃん」と評価が上がり始めた段階である。合戦で勝敗を決めるよりも、義元とどう話をつけて軍をひいてもらうんだろなと思っていただろう。
普通に考えれば、「いやいや、今川2万5000人ですよ? こっち2000人ですよ? 算数できます?」が当然。
むしろ藤吉郎みたいに「うぉおお! 信長さまああ!」なんてやってるヤツのほうが怪しい。
こんな状況で、従兄弟の信清は来ないという知らせも入ってきたはずだ。岩倉城の時は1000人連れてきたのに、今回はスルー。信長も「やっぱりそうだよなあ……どうやって今川勢とおとしどころを見つけようか」なんて考えていたはずだ。
■信長は混乱していたか
なにしろ、『信長公記』は、想定されていただろう義元の侵攻に、信長は混乱していたとも読み解ける。桶狭間の戦い前日の18日夕刻のことは、こう記されている。
軍の行い努々無之色々世間の御雑談迄にて既及深更之間帰宅候へと御暇被下家老の衆申様運の末にいよいよ智慧の鏡も曇といふ此節也と各嘲哢して被罷帰候
現代語で説明すると、家臣たちを集めて軍議を始めたが、信長はまったく作戦を語らない。それどころか雑談ばかりして夜更けになり「もう遅いから帰っていいぞ」と家臣を帰してしまったわけだ。
しかも、家臣も酷いもので「運の尽きというのは、まさにこのことだな。智慧の鏡も曇るとはよくいったものだ」とまで嘲笑している。つまり、信長は完全に思考停止していた。
現実逃避のように雑談ばかり。
もはや家臣たちも「こりゃダメだ」とまともに助言すらしない。彼らの頭にあったのは、おそらくこんなことだ。
「どういう形で和議を結ぶか?」

「尾張も広い。全部は取られないだろうが、どこまで削られる?」

「場合によっては、主君を変えなければならないかもしれない」
要するに、信長を見限る算段である。
■「敦盛」は“テンションをあげる儀式”
一方の信長はどうか。領土を削られて済むなら、それは御の字だ。だが、一度も戦わずに降伏? それは無理だ。ここで臆病なところを見せれば、まだ脆弱な家臣との繋がりが一気に崩壊してしまう。裏切った山口教継のように、次々と今川に寝返られるのがオチだろう。
かといって、2万5000人の今川軍に2000人で挑むなど、正気の沙汰ではない。信長は、完全に詰んでいた。だから、敦盛を舞うしかなかったのである。
作戦があったわけではない。勝算があったわけでもない。ただ、自分自身のテンションを上げるため、そして家臣たちに「やるぞ」という覚悟を見せるため、信長は舞ったのだ。
現代視点では敦盛でテンションがあがるのか? と考えがちだが、当時はあがる。というか、信長はあがる。
というのも『信長公記』の別の部分には、こんな記述がある。
舞とこうた数寄にて候と申上候へは幸若大夫来候かと被仰候間清洲の町人に友開と申者細〻召よせまはせられ候敦盛を一番より外は御舞候はす候人間五十年下天の内をくらふれは夢幻の如く也是を口付て御舞候
これは、天沢長老という天台宗の高僧が、武田信玄に信長のことを話せといわれて語ったと太田が記している部分。現代語に訳すならば「信長は敦盛ばかり舞っている。『敦盛』以外は舞わない。『人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり』というところを口ずさんで舞っている」というものである。
■「出陣」は消去法だったか
つまり信長が敦盛を舞って覚悟を決めて出陣し勝利したというイメージは間違っている。信長にとって敦盛は、気分を切り替える時のルーティンだったのである。現代で言えば、イチローがバッターボックスで同じ動作を繰り返すようなもの。ラグビー選手が試合前にハカを踊るようなもの。気持ちを切り替え、集中力を高めるための儀式だったのだ。
だから、覚悟を決めるために舞ったというよりは……
「負けるのは必然だけど、一度は戦わないと家臣が離れてしまう」

「せめて形だけでも戦う姿を見せなければ」

「今川に一矢報いれば、少しは交渉の余地があるかもしれない」
そんなため息交じりの思いで、いつものルーティンをこなし、自分を奮い立たせようとした。それが真相だろう。
「人間五十年、下天のうちをくらぶれば、夢幻の如くなり」
この一節は、後世が解釈したような「死を覚悟した英雄の言葉」ではない。むしろ、「どうせ人生なんて短いんだから、やるしかないか」という、半ば自暴自棄に近い開き直りだったのではないか。
それくらいまでに、信長は追い詰められていた。家臣も信用できない。勝算もない。ただ、「戦わないわけにはいかない」という消去法の出陣だった。
■勝利は「追い詰められた男の必死の抵抗」の結果
だから、義元の首を取ったとき、一番驚いたのは信長自身だったのではないか。
「え、勝っちゃったの?」
後世の我々は、桶狭間を「天才信長の輝かしい勝利」として知っている。だが当事者にとっては、まさかの大番狂わせ、奇跡的な幸運だったはずだ。
これが、桶狭間の戦いの真実である。天才の計算ではなく、追い詰められた男の必死の抵抗が、たまたま成功しただけ。そう考えたほうが、史料とも、人間の心理とも、よほど整合性が取れるのではないだろうか。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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