大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)で小栗旬演じる織田信長が今川義元の大軍を打ち破った桶狭間の戦い。古城探訪家の今泉慎一さんは「桶狭間古戦場は愛知県に2カ所ある。
現地を訪ね、義元が向かったのは敵側か味方側かを考察した」という――。
■「桶狭間」がふたつある?
第2回 沓掛城(愛知県豊明市)・大高城(愛知県名古屋市)
大河ドラマ「豊臣兄弟!」(NHK)の第4話は桶狭間の戦い。戦国時代の合戦でも5本の指に入る、どメジャーな合戦だ。一方で、いくつもの謎に包まれた合戦としても知られている。大軍の今川軍に、寡兵の織田軍が「いちかばちか」の奇襲を仕掛けて大成功、という説は、最近では「創作」という認識が共有されつつある。雨や靄(もや)が織田軍に味方したのは事実だろうが、奇襲ではなく正面からぶつかり、一気呵成に大将の首を取ったとの説が有力だ。
一方で、今なお残る謎もいくつかある。その中でも最大のものが、「今川義元は、どこで討ち取られたのか?」だ。「桶狭間の戦いの主戦場はどこだったのか?」と換言してもいいかもしれない。なにしろ、「桶狭間古戦場」と称される場所が、愛知県西部、尾張・三河の国境付近に、少なくとも2カ所存在するのだ。
■決戦直前までの動き
今川義元終焉の地に触れる前に、まずは両軍の決戦直前の両軍の布陣と進軍ルートを確認しておきたい。
1560(永禄3)年5月12日、駿府を出発した今川義元率いる約2万5000人の大軍は西上。
5月18日には今川軍の前線基地、沓掛城(図表1の①愛知県豊明(とよあけ)市沓掛町東本郷11)に入る。そしてさらに西進し、「おけはざま山」に布陣。一方の信長は5月19日未明、清洲城を出立。午後には約2000人の兵を引き連れ最前線にたどりつく。そして決戦へ――。
「おけはざま山」があったとされるのは、現在の愛知県名古屋市緑区と豊明市の境界あたり。大池と呼ばれる広大な池に面した丘陵地で「西山」という地名。現在では宅地化が進んでいるが、こんもりとした丘は、確かに大軍が陣を敷くにふさわしい地形に見える。諸説あるものの、「桶狭間古戦場公園」(図表1の②愛知県名古屋市緑区桶狭間北3-1001)の西側あたりが義元本陣だったと推定して、ほぼ間違いないだろう。
ちなみに「緑区桶狭間」といった行政上の地名もあり、なんと名古屋市立桶狭間小学校まで存在する。この小学校があった場所は、今川方についた井伊直盛隊1000人が布陣した場所「巻山」と伝わる。桶狭間で討死した直盛は、2017年の大河ドラマ「おんな城主 直虎」の主人公、井伊直虎の父でもある。

問題は、信長軍の襲撃を受けた義元が、ここからどの方向へ撤退したか、だ。
■義元が来た道を引き返していたら
撤退を決めた義元が目指すとしたら、まずは近隣の味方の城だろう。有力な説は2つある。ひとつ目は、進軍ルートをそのまま引き返し、北東へと向かったというもの。目指すは前日に滞在した沓掛城(くつかけじょう)だ。
おけはざま山から直線距離にして1km弱。愛知県豊明市、名鉄中京競馬場前駅のすぐ南に「桶狭間古戦場 伝説地」の碑が立つ公園(図表1の③愛知県豊明市栄町南舘11)がある。
確かに、来た道を引き返すのはいかにもありそうだ。公園の西側、重臣・松井宗信の墓がある高徳院は、広い意味では、おけはざま山から続く丘の北東端の崖上。急斜面を転げ落ち、この公園あたりで討ち取られたとしたら――。「いかにも」なシーンが思い浮かぶが、あくまでこれは筆者の想像でしかない。
では、その先に義元が目指したであろう沓掛城を見てみよう。

■技巧は見られるも小ぶりな沓掛城
現地を訪ねてみれば実感できるが、沓掛城は意外なほど小さく、周囲との高低差もそれほどではない微高地だ。ただしこれは、現在残る本丸とその周辺のみ。案内板にある古地図では現況の倍ほどの城域を有していたようだ。東西290m、南北約234mあったという。
本丸の東側に残る堀は、幅4~5m、落差は1m以上。本丸よりやや高い小山、諏訪曲輪との間にも、スケールは小さくなるがしっかりと堀が掘られている。
大手門の先には、土橋でつながる馬出状の曲輪もある。各所に技巧を凝らしてあるのはよくわかる。
とはいえどうにも、ここで勢いに勝る信長軍を防ぐことができそうには思えない。公園化されてしまった平城ゆえ、そう見えてしまうのかもしれないが……。
多少の防衛構造はあったとしても、この程度であれば、おけはざま山に踏みとどまったほうが、まだ粘れそうな気がする。撤退するには、敵に背を見せそれなりの犠牲を払わねばならない。
その危険を冒す価値のある城でなければ、わざわざ撤退する意味がない。おけはざま山から沓掛城までは、直線距離でも約4~5kmある。
■「敵側へ撤退」が合理的だったか
想定される義元の撤退ルート、もうひとつは西方だ。改めて両軍の位置関係を確認すると、一見これは無謀に思える。
今川軍は東から、織田軍は西から進軍してきている。西へ向かうということは、イコール敵軍の側へ突っ込むのと同じ。「関ヶ原での島津の退き口じゃあるまいし」と、歴史好きなら思うかもしれない。
だが、おけはざま山から西には複数の城が密集しており、織田方の城が多いが、その中のひとつ、大高城は最重要拠点で、決戦前日の18日、松平元康(徳川家康)隊が先行し、兵糧を運び込むことに成功している。おけはざま山での織田軍からの攻撃がなければ、おそらく義元率いる大軍は大高城のある西を目指していたはず。そう考えると、意外と西への選択は合理的に思えてくる。
さて、最初に挙げた2つの桶狭間古戦場跡、もうひとつがおけはざま山の西麓の「桶狭間古戦場公園」だ。
この一帯も今では住宅街と化しているが、かつては「田楽坪」と呼ばれた水田地帯。
公園の東側にはかつて川も流れていた。山から駆け降りてきて、足元のおぼつかない場所で追っ手に追いつかれ、首を獲られる。豊明の「桶狭間古戦場 伝説地」同様、いかにもなシーンが目に浮かぶが――。
■防衛構造も兵糧もある大高城
西ルートを取ったと仮定し、義元が目指したと思われる大高城(図表1の④愛知県名古屋市緑区大高町城山)は、古戦場から約3~4km。沓掛城までの距離とほぼ同じだ。こちらも後世の改変で城域は一部失われているが、比較的構造がよくわかる状態で遺構が残っている。しかも、比高20mほどの小山に築かれた平山城。高低差を活かした構造は、ほぼ平地の沓掛城より守るに堅い立地だ。
本丸以下、5つの曲輪はいずれも丁寧に削平されており、それぞれが広大。現存する遺構部分だけでも、そこそこの軍勢が駐屯できそうに見える。しかも、その上に加えられた人工的な構造もなかなかのインパクトだ。
■敵側ルートがありえそうなワケ
沓掛城と大高城、改めて見比べてみると、その守備力の差は歴然としているように思える。
前日運び込んだ兵糧も城内にあることも加味すると、義元が目指したのはやはり、大高城だったのではないだろうか。
もうひとつ、西ルート説を信じたい理由がある。義元ははたして、おけはざま山で敗戦を悟っていたか。想定外の急襲で大混乱に陥ったとはいえ、圧倒的な兵力差もある。「態勢を立て直せば、まだいける!」と考えていたなら尚更、敵側へと楔(くさび)を打ち込める大高城へと前進するのも大いにあり得た選択だろう。
いずれにせよ、その目的を完遂することなく、志半ばであっけなく散ってしまったのだが――。

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今泉 慎一(いまいずみ・しんいち)

古城探訪家

1975年、広島県生まれ。編集プロダクション・風来堂代表。山城を中心に全国の城をひたすら歩き続け、これまでに攻略した城は900以上。著書に『戦う山城50』(イースト・プレス)『おもしろ探訪 日本の城』(扶桑社文庫)、監修書に『『山城』の不思議と謎』『日本の名城データブック200』(以上、実業之日本社)。『織田信長解体新書』(近江八幡観光物産協会)など、地域密着濃厚型のパンフレット制作を担当することもある。

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(古城探訪家 今泉 慎一)
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