■いじめ騒動が「かわいそう」「ひどい」で終わる社会
いじめや暴行の瞬間を捉えた動画がSNS上で拡散され、物議を醸した栃木県や大分県の事例が波紋を呼んでいる。こうした学校内のトラブルはこれまでも繰り返し社会問題として取り上げられてきた。
しかしその多くは、「いじめられている子どもがかわいそう」「いじめている子どもはひどい」という感情的な構図で消費され、しばらくすると忘れ去られていく。
長年、教育現場に立つ筆者は、この問題は単純な善悪論で整理できないと考えている。学校は今、複雑な力関係と不安が絡み合う、外からは見えにくい“カオス状態”に近づいている。誰かが悪いから起きているのではない。むしろ誰もが善意で動いているにもかかわらず、止められない構造ができ上がってしまっているのである。
■学校内で起きている「三すくみ構造」
現在の学校には、奇妙な三すくみ構造が存在している。
1つ目は教師である。子どもを叱れば「いじめがある」「厳しすぎる」と問題化される。一方で、叱らなければ「放置している」「指導力がない」「甘い」と批判される。
2つ目は子どもである。いじめられているとの認識を持つ子どもは自らを防衛する意識もあり、学校側が自分を守らないなら、SNSなどで訴える手段に出る。声をあげること自体は問題ないが、SNSとなると話は別になる。対立を対話で解決する力を学ぶ機会が減って、ケースによっては関係調整よりも「被害者ポジション」を取るほうが得だと無意識に学習してしまう。
3つ目は学校である。トラブルを恐れるあまり、事なかれ主義に傾きやすくなる。「問題を起こさないこと」そのものが目的化し、指導よりも回避が優先される。
こうして、
・叱れない教師
・被害者ポジションを学習する子ども
・線を引けない学校
という三者の均衡が生まれる。
誰も悪意を持っていないにもかかわらず、誰も止められない。学校は緊張と不安を抱え込んだまま回り続ける。
■「いじめ」という言葉そのものが抱える欠陥
この構造を支えている大きな要因の一つだと感じるのは、「いじめ」という言葉そのものが抱えている問題である。
文部科学省の定義では、いじめとは
「当該児童生徒が、一定の人間関係のある者から、心理的、物理的な攻撃を受けたことにより、精神的な苦痛を感じているもの」
とされている。被害者の主観を尊重するという理念は、極めて重要である。
しかし、この定義は同時に大きな欠陥を抱えているように見える。犯罪行為、継続的な人権侵害の一方で、単なる諍いや正当な注意や拒否までが、すべて「いじめ」という一語で処理されてしまう可能性がある。言葉の守備範囲があまりにも広すぎる。
これは「ヤバい」「ウザい」と同じ構造である。良い意味も悪い意味も混在し、評価語としての機能を失った雑語である。
その結果、
・本当に深刻な被害が埋もれる
・日常的な摩擦までもが重大事案として扱われる
・関係修復の機会が失われる
という事態が生じている。
善意で作られた定義が、現場運用に耐えられないほどの負荷を生んでいる。これは制度設計上の問題であり、個々の教師や学校の努力だけで解決できるものではない。
■「いじめ0の学校」はなぜ不可能なのか
この定義に立脚する限り、「いじめ0の学校」は原理的に不可能である。
なぜなら、いじめの成立条件が
「本人が嫌だ(被害にあっている)と思ったら成立」
という主観基準になっているからだ。
子どもであれ、大人であれ、人が人と関わって生きる以上、摩擦は必ず生じる。意見の対立も、拒否も、注意も、衝突も起きる。それらをすべて排除した社会は存在しない。
にもかかわらず、「嫌だと感じたらすべていじめ」と定義してしまえば、学校は常にいじめが発生している場所にならざるを得ない。この前提のもとで「いじめゼロ」を掲げることは、現場に不可能な目標を課すことになる。
■子どもが学んでしまう「歪んだルール」
もちろん、いじめ被害で心身にケガやダメージを負ったり、不登校になったりするケースも多い。それには毅然とした対処が必要なのは言うまでもない。ただ、いじめといえるかどうか判断が難しいケースの場合、ある種の“歪んだルール”を学んでいく子どももいる。
「嫌だと言えば勝てる」
「相手が悪者になる」
「大人は止めに来ない」
学校という閉じた空間の中で成立するこれらのルールは、社会では通用しない。しかし、子どもは大人の行動から学ぶ。
境界線が引かれず、対話や調整の経験が積まれなければ、力関係の操作や被害者ポジションの利用が、処世術として内面化されてしまう。その結果、衝突を避ける力も、関係を修復する力も育たないまま、大人になっていく。
これは教育の失敗である。
■被害者も加害者も救われない理由
この構造の中で、誰が救われるのか。
被害者はどうか。本当に深刻な被害は、「どこからがいじめなのか」という議論の中で埋もれていってしまう。軽微な摩擦と同列に扱われることで、重大な人権侵害の深刻さが薄まってしまう。
加害者はどうか。背景に発達特性や家庭環境の問題があっても、それが免責の理由として扱われるか、逆に断罪の材料としてのみ使われるかの二択になりやすい。
理解と線引きが同時に行われないため、
・支援と免責が混同され
・責任と断罪が混同され
・再発防止の視点が抜け落ちる
結果として、被害者も加害者も救われない状況が生まれる。
同じ構造は「パワハラ」という言葉にも見られる。人権侵害を防ぐための言葉が、必要な指導や叱責まで封印してしまう。この言葉の設計不良が、現場を縛っている。
■必要なのは「言葉の再設計」
本当に必要なのは、「言葉の再設計」である。
暴力や犯罪は明確に止めるべきであり、被害者の安全を最優先に守る。一方で、摩擦や衝突は、人が人と生きる以上避けられない学習課題でもある。そこでは対話や調整、関係修復の経験こそが重要になる。
境界線は、厳しさではない。安心の条件である。何をしてはいけないのか、どこまでが許されるのかが明確であるからこそ、人は挑戦でき、失敗から学ぶことができる。
■「いじめゼロ」より「線が引ける学校」を
「いじめゼロの学校」を掲げること自体が悪いわけではない。しかし、ゼロを目標にするあまり、現実の人間関係の摩擦まで排除しようとすれば、学校は息苦しい場所になる。
目指すべきは「トラブルのない学校」ではなく、「線が引ける学校」ではないだろうか。
学校は、善悪で整理できないカオスを抱えている。だからこそ、感情論ではなく、構造と言葉の問題として捉え直す必要がある。
いじめをなくすために必要なのは、誰かを責めることではない。遠回りかもしれないが、私たちが使っている言葉と、その言葉が生み出している現実を、冷静に見つめ直すことが必要なのである。
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松尾 英明(まつお・ひであき)
公立小学校教員
「自治的学級づくり」を中心テーマに千葉大附属小等を経て研究し、現職。単行本や雑誌の執筆の他、全国で教員や保護者に向けたセミナーや研修会講師、講話等を行っている。学級づくり修養会「HOPE」主宰。『プレジデントオンライン』『みんなの教育技術』『こどもまなびラボ』等でも執筆。メルマガ「二十代で身に付けたい!教育観と仕事術」は「2014まぐまぐ大賞」教育部門大賞受賞。2021年まで部門連続受賞。ブログ「教師の寺子屋」主催。
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(公立小学校教員 松尾 英明)

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