NHK「ばけばけ」では、遊郭で働く女性に身請け話がくるシーンが描かれた。小泉八雲は、当時の日本をどう見ていたのか。
ルポライターの昼間たかしさんが、文献などを基に史実に迫る――。
■八雲が抱き続けた「疎外された人々」への興味
NHK朝の連続テレビ小説「ばけばけ」。ヘブン(トミー・バストウ)とトキ(髙石あかり)も夫婦になり、周辺の騒動が描かれた今週。1月22日の第79回では、遊郭で働く、なみ(さとうほなみ)に身請け話がくる騒動が描かれた。
史実に基づけば、八雲が松江の遊郭について触れた記述というものはない。
だが、興味がないわけではない。生涯、社会から疎外された人々に興味を抱き続けた八雲にとって、わが身を売らねばならない女性の悲劇は、見過ごしてはいられないものだった。それは、八雲が記者として注目を集めたシンシナティ時代のタンナリー(皮なめし工場)での殺人事件を取材した記事からも明らかだ。
1874年11月11日付の『シンシナティ・エンクワイアラー』紙に掲載された記事「It is Out!(ついに明らかに!)」で、八雲は取材して得た事件の詳細……犯人はいかなる手口で被害者を殺害し、遺体を炉に押し込んだかを刻銘に描いている(Lafcadio Hearn, "It is Out!" Cincinnati Enquirer, November 11, 1874. Cincinnati & Hamilton County Public Library, Digital Collections.)。
警察情報から得た犯人の自白などを基にした記事は、怖ろしく克明だ。しかし、八雲はそんな猟奇趣味の興味本意だけで記事を終わらせていない。ここで、八雲は事件の発端である主犯アンドレアス・エグナーの娘・ジュリア・エグナーの悲劇に多くのページを割いた。

■“センセーショナルな事件報道”で終わらせない
ジュリアは「非常に美しく」「魅力的」な少女だったが、父親は彼女を自分の経営する酒場で働かせていた。八雲は「父親は彼女の美しさを利用して客を酒場におびき寄せていた」と記す。
近隣住民の証言によれば、夜になると複数の男性が彼女の寝室の窓から忍び込んでいたという。父親は娘を「あらゆる誘惑にさらしていた」のだ。
やがてジュリアは妊娠する。相手は下宿人だったヘルマン・シリングという男性だった。これを知った父親エグナーは激怒。父親は娘を激しく殴打し、妊娠している身体を容赦なく蹴りつけた。
ジュリアは家から追い出され、病院に送られたが、そこで死亡した。その後、父親エグナーは、「娘を汚した男」としてシリングへの復讐を決意。共犯者とともにシリングを殺害し、その遺体を工場の炉に押し込んだ……父親の暴行が娘の死につながっているので異様に感じるかと思うが、これが事件の全容だった。
いち早く、克明に事件の情報を報じたことで八雲の記者としての評価は上がった。
しかし、八雲は、この記事を単なるセンセーショナルな事件報道では終わらせていない。記事の中で八雲はこう記している。
父親自身が彼女をあらゆる誘惑にさらしていたのだから、若さと軽率さと愛情深い性質のある少女が堕落したのも不思議ではない。

(It is not to be wondered at that the poor girl, thus exposed by her own father to every possible temptation, should in her youth and giddiness and affectionate disposition fall)
父親は、殺人犯としての罪のみならず、娘を搾取した父親としても非難されるべきである。

(the father is not less to blame than the real criminals)

(※日本語は、筆者が意訳したもの)

■遊郭を完全に無視していたとは考えにくい
新聞記事でありながら、ここには明らかに八雲の怒りが滲み出ている。
殺人犯エグナーへの怒りではない。娘を酒場の客寄せに使い、性的に搾取しておきながら、妊娠させた相手を「娘を汚した男」として殺害した。その偽善と身勝手さへの怒りだ。そして、それを黙認していた社会への怒りである。
近隣住民たちは皆、ジュリアの状況を知っていた。夜ごと男たちが窓から忍び込むのを目撃していた。しかし誰も止めなかった。

八雲が問うているのは「誰が殺人犯か」ではない。「誰が本当の加害者で、誰が本当の被害者なのか」である。
そんな社会の周縁で起こる悲劇を見過ごすことのできない八雲が、松江時代に遊郭を完全に無視していたとは考えにくい。
松江で長らく遊郭があった伊勢宮町は現在もキャバクラなどが並ぶ歓楽街になっている。中には1927年に建てられた妓楼・米子楼が現存し今も飲食店として利用されている。戦後の資料によれば、松江の歓楽街はこう記されている。
芸者は新大橋の南にある和多見検地(原文ママ)と殿町の松江検番を合せて46軒、西17名。和多見の方が大きい。赤線は通称を黒門という。60軒に250名。共に、黒髪の濃い、唇の厚い、面長で色白な松江美人ばかり。(渡辺寛『全国女性街ガイド』季節風文庫1955年)
■“遊郭”を肌で感じていたはずだ
もちろん、これは八雲が松江にいた時代から半世紀以上後の記録だ。
赤線はもともとは和多見のほうにあったのが、1905年の大火の後に伊勢宮町のほうに移ったという。とはいえ、歓楽街としては場所も規模も、明治時代から大きくは変わっていない。八雲が松江に滞在した1890年代初頭にも、同じ場所に遊郭があり、多くの女性たちが働いていた。
八雲がこれを無視していたとは考え難い。
特に、八雲が最初に滞在していた富田旅館からは、大橋川を渡って目と鼻の先に遊郭があった。八雲自身、松江で人力車に乗った際、車夫から遊郭に行くものと勘違いされたという記録も残っている。外国人男性が一人で人力車に乗れば、当時の車夫にとって「遊郭へ」というのが自然な解釈だったのだろう。
八雲はこうした「誤解」を通じて、松江の遊郭の存在と、そこへ通う客の日常性を肌で感じていたはずだ。
しかし、八雲は中学校教師として松江に招かれた身である。松江ではすっかり有名人になっており、遊郭を訪ねるという行為そのものがあらぬ誤解を招きかねない。職業的な立場、そして社会的な評判を考えれば、八雲が遊郭への直接的な訪問を避けたのは当然だっただろう。
■“芸者たちの境遇”に耳を傾けていた
一方で、芸妓については触れている。
宴会などに招かれた際、お座敷に上がる芸者たちと接する機会はあったはずだ。八雲は彼女たちから熱心に話を聞いていたと考えられる。
そうして得た情報を、八雲は日本で書いた最初の著書『日本の面影』の中で「舞妓について」というタイトルで克明に記している。「舞妓」と書いているから京都の舞妓を想像してしまうが、八雲が記しているのは芸者についてである。ここで八雲は、芸者と客の関係、そしてお座敷遊びについて詳しく語っている。
お座敷で行われるさまざまな遊び、すなわち芸者と客の間で交わされるゲームについても、そのルールや雰囲気まで克明に描写している。これは単なる見聞の記録ではない。ゲームの細かなルール、芸者たちの仕草、客との駆け引き、その場の空気感……これほど詳細に記述できるということは、八雲自身がお座敷に上がり、実際に芸者たちと遊んだ経験があると考えるのが自然だろう。
教師として招かれた宴席で、八雲は芸者たちの芸を楽しみながら、同時に彼女たちの境遇について耳を傾けていたのである。
なにしろ、そうした遊びを説明するところでも八雲はこんな一文を挟んでいる。
日本における漫遊の外客が、しばしば芸妓や給仕女に対して無遠慮なずうずうしさ陥るのは、たとえ微笑みをもって耐え忍ばれても、実際はすこぶる嫌悪されているので、またこれを傍観する日本人からは非常に俗悪下劣の証拠と見做されているのである。
■欧米人の無理解を批判、芸者の尊厳を守ろうとした
これは極めて重要な指摘である。
当時、日本を訪れる欧米人の多くは、芸者を娼婦と混同し、あるいは「エキゾチックな東洋の女性」として好奇の対象としていた。お座敷に上がれば、芸者たちに無礼な振る舞いをする外国人も少なくなかっただろう。
しかし八雲は、芸者たちが「微笑みをもって耐え忍んで」いることの裏に、深い嫌悪感があることを見抜いている。そして、そうした振る舞いが日本人からどう見られているか……「非常に俗悪下劣」と軽蔑されていることまで理解していた。
八雲は同胞である欧米人の無理解を批判し、芸者たちの尊厳を守ろうとしているのだ。これは単なる風俗の記録ではない。お座敷という空間で、八雲は芸者たちの「本当の声」を聞こうとしていたのだ。
そして、八雲は華やかなお座敷の裏にある彼女らの悲劇について記していく。とりわけ、八雲が怒りを隠さないのが次の文章だ。
芸妓の経歴は奴隷として始まる。貧窮な親から綺麗な子を契約の下に買い受けて、18年、20年ないし25年間も、買主は彼女を使用する権利がある。
■「若くて死ぬる場合を除けば」に込めた残酷さ
そして、芸妓の修業や身請けの話を記していく八雲だが、その筆を途中でとめてこう記すのだ。
彼女の経歴の話を、この点で、私どもは打ち切ろう。これから後の彼女の物語は、彼女が若くて死ぬる場合を除けば、往々不快なものになりがちだからである。
八雲は「書かない」ことで、逆に悲劇の深さを示している。
「若くて死ぬる場合を除けば」この一文にはとてつもない重さがある。
若くして死ぬことが、むしろ「幸運」だと暗に語っているのだ。芸妓として契約期間を終えた後、彼女たちに何が待っているのか。身請けされて幸せな結婚ができる者はごく一部。多くは年齢を重ね、容色が衰え、客が減り、借金が膨らみ、最終的には遊女として売られていく。あるいは病に倒れ、誰にも看取られずに死んでいく。
八雲はそうした「その後」を知っていた。だからこそ、「若くて死ぬる場合を除けば」と書いたのだ。若さを保ったまま、まだ夢を抱いていられるうちに死ぬこと。それが彼女たちにとっての「救い」になってしまう社会。その残酷さを、八雲は一文で表現している。生き延びた先に待つ運命は、それよりもさらに過酷だということである。
■「忘れ去られていく者たちの物語」を書き残す
シンシナティで八雲が記したジュリア・エグナーの悲劇と、ここでの芸妓の悲劇は響き合っている。場所も時代も異なるが、八雲の視点は一貫している。「社会から見えなくされた女性たちの悲劇」を記録することである。
八雲は「告発者」として正義を振りかざしているわけではない。むしろ、ただ静かに、しかし克明に、彼女たちの存在を書き残そうとしている。見えないものを見えるようにする。語られないものを語る。
興味深いのは、八雲がキリスト教を嫌悪していたにもかかわらず、その姿勢には「復讐するは我にあり(裁くのは我=神だけ)」という精神が貫かれていることだ。
八雲は裁かない。断罪しない。ただ記録する。善悪の判断は、読者に、あるいは歴史に委ねる。自らは証人として、忘れ去られていく者たちの物語を書き残す。それが八雲の一貫した姿勢だった。そのように、忘れ去られていく者たちの物語を、八雲は記録し続けたのである。
そして、その姿勢こそが、妻となったセツと八雲を結びつけたものではなかっただろうか。
■セツは“八雲の姿勢”に共鳴したか
武家の娘でありながら、没落した家の重荷を背負い、「外国人の妾」として世間の好奇と偏見の目にさらされることになったセツ。八雲はそのセツの中に、社会の周縁で声なき声を上げる人々の姿を見ていたのかもしれない。
そしてセツもまた、自分たちのような「見えなくされた者たち」の物語を記録しようとする八雲の姿勢に、深く共鳴したのではないだろうか。
二人の出会いは、単なる恋愛ではない。忘れられていく者たちへの、共通のまなざしがあったのだ。

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昼間 たかし(ひるま・たかし)

ルポライター

1975年岡山県生まれ。岡山県立金川高等学校・立正大学文学部史学科卒業。東京大学大学院情報学環教育部修了。知られざる文化や市井の人々の姿を描くため各地を旅しながら取材を続けている。著書に『コミックばかり読まないで』(イースト・プレス)『おもしろ県民論 岡山はすごいんじゃ!』(マイクロマガジン社)などがある。

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(ルポライター 昼間 たかし)
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