織田信長は秀吉、秀長兄弟をどう評価していたのか。歴史評論家の香原斗志さんは「NHK大河ドラマでは秀長が近習に抜擢された。
史料に描かれた信長の評価を見れば、その描き方は的を射ていると感じる」という――。
■NHK大河ドラマで描かれた興味深い場面
尾張国(愛知県西部)の中村(名古屋市中村区)で、母のなか(坂井真紀)、姉のとも(宮澤エマ)、妹のあさひ(倉沢杏菜)とともに畑仕事に勤しんでいた小一郎(仲野太賀、のちの羽柴秀長)だったが、村が野盗集団や野武士に蹂躙されるのを見て、決意を固めた。「侍になろう」という兄の藤吉郎(池松壮亮、のちの羽柴秀吉)の誘いを受け、織田信長(小栗旬)の居城がある清須(愛知県清須市)に向かった。
そこで兄弟を待っていたのが、信長と今川義元(大鶴義丹)との決戦だった。
信長のもとにもたらされたのは、義元配下の松平元康(松下洸平、のちの徳川家康)が、今川方に確保されている大高城(名古屋市緑区)に兵糧を入れ、さらには、織田方が大高城を囲むために築いた丸根砦(同)などの付城(敵城を攻撃するための臨時の前線基地)を攻めている、という情報だった。そこで信長は「出陣じゃ!」と号令をかけた。NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の第3回「決戦前夜」(1月18日放送)。
第4回「桶狭間!」(1月25日)では、わずか3000の兵で義元に挑んだ信長は周知のとおり、電撃的な勝利を収める。興味深い描写があるのは、永禄3年(1560)5月19日に争われた戦いの翌日の場面である。
■小一郎を近習に抜擢、は的を射ている
その日、討ちとった今川軍の首を検分し、手柄を挙げた兵に恩賞を授ける首実検が行われた。その結果、藤吉郎は足軽大将の下で一定数の足軽を束ねる足軽組頭に任命され、小一郎には、信長の近くに仕える「近習」になるように命ぜられた。
近習とは、いわば側近であり、戦国大名は業務の多くを近習にまかせ、現場の状況やさまざまな情報を近習から得て重要な判断をした。
信長は100人以上の近習を擁し、蒲生氏郷や堀秀政をはじめ、近習から大名にまで出世した人材も多い。
「豊臣兄弟!」では、小一郎は「兄とともに殿にお仕えしたい」といって、兄を立てるかたちで信長の命を固辞するようだが、この時点で信長が小一郎を近習に抜擢しようとした、という描写はなかなかおもしろい。
実際には、この時期に秀長がどこでどう過ごしていたか、わかっていることはほとんどない。だが、秀長という人物がのちにどう評価され、どのような活躍をしたか、ということを考えたとき、これは的を射た描き方だと思う。
■桶狭間合戦に参戦していなかった可能性
桶狭間合戦に、秀吉と秀長の兄弟がどう関わったかを示す史料は残されていない。この時期の秀長のことを記した史料は皆無なので、まず秀吉について記しておきたい。
小瀬甫庵の『太閤記』などによると、秀吉は各地で百姓家などに奉公したのち、永禄元年(1558)9月から清須の織田信長のもとに仕えたという。とはいえ、当初は士分としてではなく、主君の身の回りの世話などをする「小者」の立場にあったと考えられる。このために同時代の史料はもとより、のちに編纂された『太閤記』などにも、桶狭間合戦当時のことは書かれていない。
出世したのは、『明智軍記』によれば桶狭間合戦の翌年、永禄4年(1561)8月のことだったという。清須城の塀が崩れた際、秀吉はその修理を買って出て、見事に成し遂げたのが信長から評価され、足軽とはいえ士分に取り立てられたという。さらには出身地の名をとって「中村藤吉郎」と名乗るようになり、永禄5年(1562)には所領もあたえられ、寄親(家臣団内の擬制的な親子関係における親)の木下雅楽助から苗字をもらい、木下藤吉郎と名乗るようになった。

秀長については記録がないが、こうして兄が士分に取り立てられ、出世を重ねていく過程のどこかで、おそらく秀吉に誘われるかたちで信長の家臣になった、と考えられている。ただし、桶狭間合戦の時点では、まだ秀吉が士分ではなかったので、秀長はまだ清須におらず、合戦にも参加していないと考える研究者が多い。
■秀長の「長」が意味すること
同時代の史料に秀長の名がはじめて見えるのは、天正元年(1573)8月16日の文書である。近江国(滋賀県)伊香郡黒田郷(長浜市)に、百姓が帰村した際に軍勢が略奪などをすることを禁止し、違反者がいれば通告するように呼び掛ける発給文書が出され、そこに「木下小一郎長秀」という署名がある。
この時期は信長が浅井氏を攻めており、黒田郷は浅井氏の領国の北部なので、秀長は北部の攻略を担当していたのだろう。諱名(いみな)(実名)が「長秀」となっているが、当初の諱名は長秀で、のちに秀長に改名している。いずれにしても注目されるのは「長」の字が入っていることで、信長の偏諱(目上の人の実名の1文字)があたえられたと考えられる。
それは信長からよほど目をかけられていた証であり、戦国史研究家の和田裕弘氏は「秀長が信長に仕えた時期は不明だが、ひょっとすると兄秀吉よりも早くから出世していた可能性もなしとはしない」と書く(『豊臣秀長』中公新書)。
続いて、武将としての秀長が史料に初登場するのは『信長公記』で、天正2年(1574)7月に、信長が伊勢(三重県北中部および愛知県と岐阜県の一部)長島(三重県桑名市)の一向一揆を攻略した際の記事である。
■秀吉よりも秀長のほうが使える
それによると、このとき信長は自軍を3つに分け、東軍を嫡男の信忠に率いさせ、西軍は佐久間信盛や柴田勝家らにまかせ、自身は中央軍を率いた。その中央軍の先陣は、木下小一郎以下16名で構成されていたという。
しかも秀長の名は、16名の先頭に記されている。
つまり、信長の本陣付の先陣を務める家臣のトップが秀長なのである。信長が秀長の実力を相当高く買っていた、ということにほかならない。
文教大学教授の中村修也氏はこう書いている。「これまで秀長は、秀吉が自分の家臣として農民から武士に引き上げたように考えられていた。あるいは、秀吉の信長家臣化とそれほど時間的な差なく、秀長も信長の家臣になっていた可能性を考えなければならないかもしれない」(『豊臣秀長』所収「秀長の合戦」宝島社新書)。
そして一揆勢との戦闘についても、「木下小一郎、浅井新八両人懸向はれ候。こだみ埼川口舟を引付け、一揆堤へ取上りかゝへ候。丹羽五郎左衛門懸向かひ追崩し、数多討捕り」と記されている。つまり、秀長と浅井新八の両名で一揆勢を堤に追い上げ、丹羽長秀が攻めて多数を討ち取った、とのこと。要は、信長の親衛隊というべき秀長と浅井、丹羽の3人の活躍によって、一揆の重要拠点が陥落したと評されているのである。
ちなみに、このとき秀吉は秀長とすっかり別の行動をとっている。しかも、『信長公記』に書かれている秀吉の行動は、一揆に参加した夫婦を捕えて処刑したというだけだ。
長島一揆の攻略にかぎって見ると、信長は少なくともこのとき、秀吉よりも秀長のほうが役立つと評価していた、と考えるほかない。
■秀吉の実績のウラにある弟の異能
天正5年(1577)に秀吉が播磨(兵庫県南西部)を攻めたときには、秀長は秀吉の戦闘に与力(軍事的な加勢役)として参加しており、これ以後の秀長は、秀吉と行動をともにしている。ただ、続いて但馬(兵庫県北部)に進出した際、秀吉は竹田城(朝来市)を攻め落とすと、修復することも含めて、秀長に竹田城を管轄させている。
秀長は築城にも長けている、と秀吉が評価していたということだろう。すると、従来、秀吉が行ったと考えられてきた築城や作戦に、秀長が大きく関わっていた可能性もありそうだ。
整理してみよう。秀長は兄の秀吉とは別に、あるいは兄以上に信長から評価され、むしろ兄よりも早く出世した可能性さえある。そして、信長はみずから率いる軍の先陣の、さらにその先頭に置くほど秀長を信頼し、戦闘能力も買っていた。秀吉の与力になってからも、城を築いたり作戦を練ったりするうえで秀長の力は欠かせず、秀吉の築城や作戦と思われているものも、じつは秀長が大きく関与している可能性がある――。
こうした諸々を考えると、桶狭間合戦が終わった時点で信長が秀長を評価する立場にいたなら、近習にしたいと考えるのは、とても自然なことに思えるのである。

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香原 斗志(かはら・とし)

歴史評論家、音楽評論家

神奈川県出身。早稲田大学教育学部社会科地理歴史専修卒業。
日本中世史、近世史が中心だが守備範囲は広い。著書に『お城の値打ち』(新潮新書)、 『カラー版 東京で見つける江戸』(平凡社新書)。ヨーロッパの音楽、美術、建築にも精通し、オペラをはじめとするクラシック音楽の評論活動も行っている。関連する著書に『イタリア・オペラを疑え!』、『魅惑のオペラ歌手50 歌声のカタログ』(ともにアルテスパブリッシング)など。

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(歴史評論家、音楽評論家 香原 斗志)
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