NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』で描かれる桶狭間の戦いは、長年、織田信長が今川義元の大軍を奇襲した逆転劇が定説とされてきた。しかし1982年、「奇襲はなかった」と結論付けられた。
なぜ奇襲説が生まれ、何が勝利をもたらしたのか、江戸文化風俗研究家の小林明さんが迫る――。
■桶狭間に「奇襲」は存在しない
「永禄3(1560)年5月19日、織田信長は今川義元との決戦に臨むため、清洲城を出陣した。午前4時頃だった。信長に従っていたのは、小姓衆6騎と雑兵200ばかり。清洲城から丹下砦を経て善照寺砦と移動する間に、後続部隊が次第に集結した」
織田信長の軍の兵だった太田牛一(おおたぎゅういち)が記録した、桶狭間の戦い当日の出陣の様子だ。牛一は当時34歳。のちに信長の一代記『信長公記(しんちょうこうき)』を著す。
『信長公記』は良質との定評を持つ史料で、桶狭間の戦いについて後世の人々が語り、記したものは、基本的にこの記録によるところが大きい。NHK大河ドラマ『豊臣兄弟!』1月18日放送回で、小栗旬さん演じる信長が織田方の砦が陥落した報告を聞き「出陣じゃ!」と叫んだ場面も、元をたどれば『信長公記』に記されている。
ところが、『信長公記』を“読み誤った”人々がいた。明治32(1899)年、大日本帝国陸軍参謀本部が出した軍事研究書『日本戦史・桶狭間役』の編者たちである。
以下は再び『信長公記』から――。

「信長が善照寺砦から中島砦に移ろうとしたとき、その途上の道は1騎ずつしか通れないほど狭かった。家老たちが『おやめください』と進言したが、信長はそれを振り切って中島砦(または中嶋)に入った。このときの軍勢は清洲城出陣時より多かったが、それでも2000に満たなかった」
はっきりと善照寺砦の南にあった中島砦に向かったと書いているのに、『日本戦史・桶狭間役』は、信長は善照寺砦から北東を迂回し、そこから一気に南下して田楽狭間の義元本陣を“奇襲”して勝利としたのである。
この説によると義元本陣は地図の①にあった。現在の国指定史跡・桶狭間古戦場伝説地の辺りだ。

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■80年後に覆された「天才的軍略家」像
これによって桶狭間は河越城の戦い、厳島の戦いと並ぶ「日本三大奇襲」などと称され、戦いを勝利に導いた信長は天才的軍略家であるとの評価が定着するのだが、実は義元本陣を不意に襲ったとする記録など、そもそも存在しない。
『日本戦史・桶狭間役』が、どういった意図を持って奇襲説に至ったか、今となっては不明だ。あくまで想像だが、たとえ少数でも大軍に勝つことはできるといった戦意高揚に利用したかったなど、そんなところではないかと思う。
昭和57(1982)年、歴史・軍事史研究家の藤本正行が『信長公記』を再検証し、『異説・桶狭間合戦』を発表して「奇襲はなかった」と結論付けると、反響を呼んだ。『日本戦史・桶狭間役』から約80年後、ようやく情報がアップデートされたのである。


藤本は、信長は迂回して奇襲したのではなく、中島砦を出て正面から今川の前軍(先鋒)と激突したとする「正面攻撃説」を主張した。
軍勢は織田2000。対して今川は尾張に侵攻した総数が2万5000だったとしても、複数に分散させていたため、織田軍と戦った前軍は4000~5000ほどだったと考えられる。
■信長の真の才能は巧みな人心掌握
2000vs.4000~5000。数的にまだ不利だったが、信長軍の戦意は極めて高かった。再び『信長公記』から――。
「中島砦から打って出ようとする信長を重臣たちが止めると、『よく聞け。敵はここまで来るのに夜行軍などし、疲れている。(中略)敵の首は取るな。死骸は放置しろ。この戦いに勝ったなら、参加した者は末代の功名となろう。ひたすら励め』」
首は恩賞の対象だが、そんなものにはこだわるな。
参加すること自体が手柄である――勝てば全員に恩賞を与えると宣言したに等しかった。逆にいえば、恩賞にありつくには絶対に勝たねばならない。勝つ、勝つ、勝つしかない――否応なく士気は高まったろう。
こうした話は、藤本正行が『異説・桶狭間合戦』を改訂・補足した『信長の戦い(1) 桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社)などでも読むことができる。ぜひ一読を薦めたい。大河ドラマも、歴史の裏側も、2倍楽しめるはずである。
■幸運ではなく実力の差
奇襲説では、信長は突然の豪雨に紛れて義元の本陣を急襲したといわれてきた。天も味方に付けた――と。だが、これも事実と異なっていたようだ。
中島砦と今川前軍の距離は、推定約3km。『信長公記』には信長が砦を発つと、「豪雨は味方の背中に降りかかった」とある。そして「空が晴れるのを見て」信長は戦闘を開始した。
おそらく敵に向かって行軍中に、数分程度の集中豪雨が起きただけだった。雨音が一時的に軍勢の足音をかき消したなどの幸運はあったかもしれないが、必ずしも勝敗を決する重大要素とはいえない。
それよりも、一説には今川前軍には農民の雑兵が多く、一方の織田勢は、数は2000と少ないものの精鋭だったといわれ、勝因はむしろそこにあったかもしれない。今川の精鋭は後軍で義元を護衛し、前軍には配置されていなかった可能性はある。
実際、戦いが始まると今川前軍の雑兵たちを蹴散らされ、ジリジリと押し込まれていった。『信長公記』は、その後の戦況をこう記す。
「未刻(ひつじのこく)、今川軍300騎ほどが丸くかたまっていた。その真ん中に義元がいるのは明らかだった。『これを攻めよ』との声が織田軍に響いた。300騎は退却しながら何度も踏みとどまって戦ったが、次第に人数が減り、ついに50騎ばかりになった」
未刻、つまり午後1~3時、義元を囲んで守っていた旗本300騎は、刻々と少なくなった。義元の“断末魔”といえるリアルな状況である。そしてついに、毛利新介が義元を討った。

■信長も驚いたか、近すぎた本陣
では義元は、そもそもどこにいたのか? 前掲の地図のオレンジ枠のどこかに、本陣を張っていたと推定される。
このオレンジ枠は中島砦から手越川を挟んで北に広がる丘陵地帯で、「桶狭間」とはこの一帯を指している。『信長公記』には「義元本陣は「おけはざま山(桶狭間山)で休憩していた」と記されており、その山が標高54.5mの高根山と考えられている(地図の②/なお「桶狭間山」の比定地はもう1カ所あり、これについては後述)。
しかし、私は織田軍が義元の居場所を正確につかんでいたとは思えない。実際、この丘陵地帯には高根山の他、幕山や生山といった小高い丘が多くあり、義元本陣の位置特定は困難を極めたのではないだろうか。のちに述べるが簗田政綱の諜報活動によって義元の居場所が筒抜けだったという、これまでの大河ドラマで何度か描かれた説も、実は眉唾なのである。
それがどうしてわかってしまったかというと、前述の300騎が戦闘の中で不自然な動きをしていたことが目立ったのが原因だったのではあるまいか。あるいは義元が乗っていた「輿(こし)」が遺棄されていたため、その存在が露見しまったとか……。
いずれにせよ、中島砦にいた信長精鋭軍と義元本陣とが、わずか数kmの至近距離で対峙していたのは間違いない。義元は、いつのまにか危険な場所に身を置いていたことになるだろう。油断があったと考えて良いのではなかろうか。
■研究者の数だけ「桶狭間」がある
ここまで述べてきたのは藤本正行が提唱した「正面攻撃説」を基にしている。
筆者はこれを推している。
ただし、他に捨てがたい説もある。田楽坪といわれた一帯にある標高64.7mの山を「桶狭間山」と比定し、義元本陣があったとする「田楽坪戦場説」だ(地図の③)。令和2(2020)年の大河ドラマ『麒麟がくる』の時代考証を務めた歴史家の小和田哲男が提唱しており、同作の紀行コーナーでも紹介されていた。田楽坪には現在、桶狭間古戦場公園もあり、有力な候補地なのは確かである。
また、『日本戦史・桶狭間役』に新解釈を加えた奇襲説を唱えている方もいる。愛知県の地元研究者である太田輝夫だ。「正面攻撃説」はいわば織田勢の「気合い」「幸運」の賜物だったとしかいえない一面があり、根拠に今ひとつ乏しい。そこで北側の山中を迂回して、義元の本陣を急襲したのが真相ではないかという。
とはいえ、小和田・太田の両説が唱える義元の本陣は、信長が出陣した中島砦と約10km以上離れており、その長い距離を少数の織田軍が突破できたのかという疑問が残り、主流になり得ていない。
■なりえないはずの「勲功第一」
そしてもう1つの課題が、諜報活動によって義元本陣の場所を信長に報告したといわれる簗田政綱の存在である。
文献に登場する名は「梁田出羽守」で、「政綱」の名が出てくるのはずっと後だ。したがって本来なら「梁田出羽守」という表記にすべきだが、ここでは一般的に知名度の高い「政綱」で通す。
桶狭間の戦いで信長に奇襲戦術を進言した勲功第一の者として知られるが、「進言した」=義元がどこにいるかを信長に知らせたとは断言できないし、証明する史料もない。わずかに地元の土豪出身で地形などを熟知し、情報収集に長けていた“可能性がある”というだけである。
政綱の手柄を記録した初出が『甫庵信長記(ほあんしんちょうき)』なのも問題視される。『信長公記』をベースにはしているが、後から著者・小瀬甫庵(おぜほあん)が“創作”を多く書き加えた信頼性の落ちる書で、次のように記されている。
「梁田出羽守が進み出て、『敵(義元)は今朝、鷲津砦と丸根砦を攻めたまま、布陣を変えていないでしょう。敵の背後に回り込めば、後陣にいるはずの大将を討てるでしょう』と申し上げた。信長は『立派な申し出だ』と称賛し、周囲の者たちの戦意も高まった」
敵の背後をつこうと述べているだけで、義元の本陣を知らせているわけでもない。ましてや、鷲津・丸根の両砦を落としたのは松平元康(のちの徳川家康)で、義元本隊ではない。政綱が布陣の件を知るはずもなかった。
■劇的で面白い物語が真実を覆い隠す
それが江戸初期に成立した軍記物語『備前老人物語』に、いきなり梁田出羽守の「善き一言」によって大勝し、義元の首を取った毛利新介よりはるかに高い「沓掛村三千貫の地」を与えられたと書いてある。しかも、「この事、信長記に載せし所」とある。「信長記」とは『甫庵信長記』のことだが、前述の通り「沓掛村三千貫の地」を賜ったなどとは書かれていない。
後年、政綱が桶狭間から5kmほどの沓掛を所領していたことはうかがえるものの、それは永禄10(1567)年頃のことと考えられ、桶狭間の戦い直後に賜ったとも断言できないのだ。
さらに不透明なのが「善き一言」。後世この一言こそ、諜報活動によって信長にもたらされた「義元の居場所」だったと拡大解釈された可能性が高い。信長の勝利があまりに鮮やかだったため、事前に誰かが情報を提供しなければなし得ないと、誰かが考えたのだろう。
その誰かとは、大日本帝国陸軍――何のことはない、またもや『日本戦史・桶狭間役』に行き着く。同書が『備前老人物語』について触れているのが、何よりの証拠だ。
明治時代の軍部が分析・提唱した説からは、そろそろ脱却した方が良い。だが、『日本戦史・桶狭間役』による迂回奇襲説や梁田政綱諜報説が、劇的で面白い“ストーリー”であるのも確かなのである。
だから、そうした過去の説とアップデートした説の両方を知り、さらにそれが大河ドラマにどう反映されているのか興味を持つこと――繰り返しになるが、それが大河ドラマを2倍楽しむ方法になると思うのだ。

参考文献

・藤田正行『歴史読本「異説・桶狭間合戦」』(新人物往来社、1982年)

・藤田正行『信長の戦い①桶狭間・信長の「奇襲神話」は嘘だった』(洋泉社、2008年)

・太田輝夫『桶狭間合戦 奇襲の真実』(新人物往来社、2012年)

・日本史史料研究会監修、渡邊大門編『信長軍の合戦史1560-1582』(吉川弘文館、2016年)

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小林 明(こばやし・あきら)

歴史ライター 編集プロダクション「ディラナダチ」代表

編集プロダクションdylan-adachi(ディラナダチ)代表。歴史ライターとしてニッポンドットコム、和樂web、Merkmal、ダイヤモンド・オンライン、弁護士JPニュースなどに記事を執筆中。また
『歴史人』(ABCアーク)、『歴史道』(朝日新聞出版)など歴史雑誌の編集も担当している。著書『山手線「駅名」の謎』(鉄人社)など。

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(歴史ライター 編集プロダクション「ディラナダチ」代表 小林 明)

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