■古代・中世・近世・近代――変貌する「美」
容姿容貌の美醜というものは、時代によって大きく変わっていく。
たとえば容姿でいうと、現代の「意識高い系」の女性はモデル体型を目指し、同男性はマッチョを志向するけれど、土偶などに見る限り、縄文の昔は多産系スタイルの女性が尊ばれたようだし、平安貴族は筋肉質な素速い動きを酷く蔑んだ。
容貌も、奈良・平安の古代以来しもぶくれのぽっちゃりした顔つきが好まれた。光源氏や在原業平は、平安の昔にあっては美男子だが、もし現在にいたら美男子とは評価されないだろう。反対に、現代のタレントやスターが往時にいったら、「貧相」とか「下じも顔」だとか、評判は決して良くなかったはずである。
近世・江戸時代になると、浮世絵美人に見られるような細面のうりざね顔が好まれるようになって、現代の美的感覚に近づいてくる。この変化は徐にシフトしていったようで、中世にあたる戦国時代は、ちょうど過渡期であった。
信長を輩出した尾張の織田家は代々、細面うりざね顔で、「美男美女」が一族の身体的特徴とされていたから、美的感覚も近世の萌芽といってよい。
秀吉の容貌は人種偏見丸出しにこき下ろしたヨーロッパの宣教師たちも、信長についてはむしろほめている。
ルイス・フロイス書簡『耶蘇会士日本通信』には次のようにある。
「この尾張の王は、年齢は三十七歳なるべく、長身沿痩躯、髭少し。声は甚だ高く、非常に武伎を好み粗野なり。
■イケメンの一族だった織田家
信長の肖像として最も有名なのは、愛知県豊田市の長興寺所蔵の一幅だろうか。天正十一(1583)年に信長の家臣であった与語久三郎正勝が、狩野宗秀(季信)に描かせて、同寺に寄進したものである。亡くなって一年ほどの印象が濃厚なうちに描かせたものだから、生前のイメージからそう遠いものではないだろう。白い小袖に萌黄の裃をつけ、襟元には緋色の襦袢が垣間見える。なかなかお洒落な配色である。
眉間の癇すじがやや神経質そうな印象だが、そこがまたリアルだ。与語正勝は、佐久間信盛に与力して信長に仕えた中級クラスの家臣であったから、叱られたり、可愛がられたりした思い出をそのまま絵師に伝えたはずである。
また、信長の妹・お市の美しさは、多くの文書に記されているし、酒乱だったという父の信秀も、肖像画を見る限りは端正な顔立ちである。極め付きは信長の弟の秀孝で、『信長公記』で、「齢十五、六にして、御膚は白粉の如く、たんくわんのくちびる、柔和なすがた、容顔美麗、人にすぐれていつくしきとも、中々たとへにも及び難き御方様なり」――すなわち、肌はおしろいを塗ったように白く、唇は花びらのように可憐で、優し気なお姿で、顔立ちも美麗、その気品は喩えようもなく、途轍もなく美しい」と絶賛されている。まあ、織田家は、イケメンの一族であったわけだ。
この「イケメンであったこと」が、信長の人格形成にも大きく影響していたようだ。
■ブサイクは「前世の罪」とされた
この時代、美しい容貌は、仏の加護もしくは恩寵に因るもの――という考え方が一般に根付いていた。つまりイケメン・イケ女は、「前世に良い行いをした結果」、そのように生まれついたと考えられたわけで、その反対に不細工や不自由な身体に生まれついた者は、前世において何かトンデモない罪を犯したのだろう……と蔑まれたのである。なんという残酷なことだろう。
したがって不細工な者の多くは、その罪業を償うために寺に入られたり、辛い仕事に就かせられたりした。目の不自由なひとが、琵琶法師になったのもその一例で、そもそも盲目に生まれついたことが「前世の罪」と決めつけられ、放浪しながら悲しく&美しい物語をかたることで衆生に尽くし、「せめて来世は恵まれた容姿容貌に生まれよ」と、願われたのである。酷い話だが、これが中世人の感覚であった。
■実は仏教を信じていた信長
信長が、自らを「第六天魔王の化身」とまでうぬ惚れることができたのは、その背景に自らの美貌、それも仏の加護による美という自信があればこそだったのではないだろうか?
比叡山を焼討したり、キリスト教の宣教師を優遇したりしたために、信長というと反仏教のように思われるかもしれないが、信長が嫌ったのは、宗教的権威にかこつけて隠然たる勢力を蔓延らせようとした当時の仏教界であって、仏教の教えそのものでは決してない。
いやむしろ、自分こそ、仏の加護を受けてこの世に誕生した、仏教の正道を知る者――くらいに考えていたフシさえある。彼の世界観にのっとって建てられた総見寺の構造には、多分に「仏教的世界観を表現しよう」とする思念がみられるし、そもそも仏教を嫌っていたなら、本能寺を宿舎としたりはするまい。
翻って、当時僧籍にあった者のうち、すべてではないけれど多くの者が、前世の悪縁を償うために仏道に入った者、すなわち「不細工なヤツ」であったことを考え合わせると、信長が残酷なまでに彼らを迫害したメンタリティーの一端が、垣間見えてくる。
あるいは、信長対仏教勢力は、「美貌のSと醜怪なM」という、実に解りやすい視覚的構造をもって、敵対関係を均衡していたのかもしれない。
ところで、信長と同時代、信長と同様の「大いなる自信」をもって勇躍した武将がいる。意外に思われるかもしれないが、駿河、遠江、三河を治め、天下を窺った「海道一の弓取り」今川義元である。
■今川義元は本当にブサイクだったのか?
桶狭間の合戦で呆気なく信長に首を取られたため、ダメ武将の烙印を押され、「短足で馬に乗れないから輿に乗っていた」とか「太っていた」とか「お白粉やお歯黒をつけて軟弱だった」などと、ことさら醜男のような評判を立てられている今川義元であるが、これらは江戸中期に書かれた史料によるもので、真の姿を伝えているものとはいいがたい。
輿は高貴な乗り物で、大名には通常使用が許されなかった。今川家は足利将軍家に次ぐ家柄であるためそれを許され、その権威を誇示するために義元は輿に乗っていたのであって、馬に乗れないほど足が短かったわけではない。
そもそも、無能な武将であったとしたら、弱肉強食の戦国時代に、天下を狙って都など目指せるわけがない。実際に義元は、異母兄との熾烈な家督争いにしたたか勝利して、今川氏の当主となっている。
眉を抜き、お白粉をつけ、口紅をし、お歯黒をほどこす男性化粧は、現代人の眼には奇異に映るかもしれないが、当時のセレブとしては、行き届いた身嗜みであった。つまり義元は、ノーブリッシュなたしなみを有した、古代~中世的な美男で、その大いなる自信に因って、天下を手中のおさめんと志向した――と考える方が、彼のプロファイルとしては自然なのである。
してみれば、実は「桶狭間の戦い」は、古代中世的な美意識(義元)と、近世近代的な美意識(信長)との、端境戦でもあったのではないだろうか。そしてこれ以降、信長系統の顔立ちが美男のスタンダードになっていく。
そういう眼で見ると、近世の史料で殊更に「織田一族美貌説」が書きたてられ、「今川義元不細工説」が広められていることにも、納得がいくのである。
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髙山 宗東(たかやま・むねはる)
近世史研究家、有職故実家
歴史考証家、ワインコラムニスト、イラストレーター、有職点前(中世風茶礼)家元。不肖庵 髙山式部源宗東。1973年、群馬県生まれ。東京大学先端科学技術研究センター協力研究員、大阪市ワインミュージアム顧問、昭和女子大学非常勤講師(日本服飾史)などを務める。専門は江戸時代における戦国大名家関係者の事跡研究、葡萄酒伝来史、有職故実、系譜、江戸文芸、食文化、妖怪。
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(近世史研究家、有職故実家 髙山 宗東)

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