若者を中心に「テレビ離れ」が進んでいる。医師の和田秀樹さんは「テレビは『オワコン』と言われるが、依然として圧倒的な影響力を持っている。
特に日本のSNSはテレビの論調に追従し、多様な視点や冷静な検証が失われている」という――。
※本稿は、和田秀樹『「高齢者ぎらい」という病』(扶桑社)の一部を再編集したものです。
■「テレビはオワコン」と言われるが…
SNSが発達したこともあり、「テレビで言っていることは信用できない」という声は確かに上がり始めています。「オワコン」(=「終わったコンテンツ」、すでに時代遅れになったという意味)などと揶揄する声も多く聞かれるようになりました。
しかしそれでも、テレビはまだその影響力を失ってはいません。「年配層はいまだにテレビばかり見ているから」などとよく言われますが、それ以上の理由は、日本のSNSが本来の「健全な批判装置」として機能していないことにあると、私は思っています。
本来であれば、テレビが画一的な価値観で一方的に誰かを叩き始めたとき、「本当にそうなのか」「データを見れば違うのではないか」と冷静に指摘する声がSNS上にもっと多くあっていいはずです。
ところが日本のSNSの場合、そうした意見は目立つように見えるだけで、実際は圧倒的に少数派です。むしろ、テレビの論調に呼応して一緒に叩き始めるのがこの国のSNSの特徴で、テレビの報道を号令にSNSが盛り上がる、というのがいつものパターンなのです。
■テレビが悪者と決めつけた瞬間、攻撃対象に
たとえば、『週刊文春』のような週刊誌がどれだけセンセーショナルに報じたことでも、テレビで取り上げられないことは「存在しないこと」あるいは「真偽不明のこと」のように扱われます。
ところがひとたびテレビが悪者と決めつけた瞬間から、その相手はいくらでも叩いていい存在になります。
旧ジャニーズ事務所の問題の扱いはその最たるものでしょう。
そんな中で逆の意見を述べようものなら、その人まで総攻撃を受ける。結果として、誰も異論を唱えなくなり、「思考の多様性」がどんどん失われていくのが今の日本の現実です。
■結局はSNSもテレビ文化の延長線
若い世代がテレビを見る時間が減っているのは事実でしょうが、その一方でテレビの価値観を間接的に信じてしまっていることは否定できません。
人気YouTuberの多くがもともとテレビで活躍していた人たちであり、発信のかたちを変えただけで、SNS文化も結局はテレビ文化の延長線上にあるからです。
さらに言えば、数字の上でもテレビの影響力はいまだ圧倒的であるのは明らかです。たとえば、私のYouTubeチャンネルも、テーマによっては100万回以上再生されることがありますが、テレビの視聴率に換算すればわずか1.5%程度にすぎません。
つまり、「オワコン」どころか、テレビという業態はいまだ人々の思考の深いところに根を下ろしています。だからこそ、その報道姿勢の歪みを、私たちは決して見過ごしてはならないのです。
■メディアに騙される日本人の頭が固い理由
よく言われることですが、日本人というのは、一定の権力を持つ人やテレビなどの大手メディアが言うことを素直に信じる傾向があります。
そこには、日本人の「頭の固さ」、つまり柔軟な思考力の欠如が関係しているのですが、これは日本人の気質の問題というより、教育の問題だと私は思っています。
教育の問題と言うとすぐに初等中等教育の問題が取り上げられ、何度も改革が繰り返されていますが、実は日本の初等中等教育は世界的に評価されていて、1980年代には、アメリカやイギリスが日本型のいわゆる「詰め込み教育」をモデルにしようとしたほどです。
ところが、当の日本はなぜかわざわざ「ゆとり教育」を導入し、せっかく世界で評価されていた教育の骨格を自ら壊してしまいました。

■「従順であるほど得をする」という日本の教育
一方で、昔からほとんど変わらないのが大学教育です。日本の大学では、教授の言うことを「正しく理解した」ことに対して高い評価がつきますが、逆に教授に異を唱えたりすれば単位を落とすことにもなりかねません。
つまり、「従順であるほど得をする」仕組みになっているのが日本の大学教育なのです。その結果、高等教育を受けたにもかかわらず、「上の言うことは絶対だ」と刷り込まれてしまい、それが社会全体に行き渡ります。
だから医者や専門家、評論家と呼ばれる人が何か言えば、それを疑わずに信じることが当たり前になっているのです。
しかし、本来の高等教育というのは、思考のパターンを変え、他人の言葉を鵜呑みにせず、自分の頭で考える力を育てることです。
欧米の大学では、教授の意見に異を唱えたり、自分の見解をぶつけたりする学生のほうが高く評価される仕組みになっているのはまさにそのためです。
ところが日本にいると、なかなかそういう教育は受けられません。それが「思考の硬直」を生み、外国人や高齢者批判の声が広がったときに、「本当にそうなのか」「他の可能性はないのか」と立ち止まって考えられる人がほとんど出てこない、という事態になっているのです。
■「考えるプロセス」が省略されていく
物事を「考える」というのは、いくつかの可能性を並べて検討し、そこから最も妥当な答えを導き出すという作業のはずです。
刑事ドラマを思い浮かべるとよくわかると思いますが、最初に怪しく見える人物はたいがい犯人ではありません。
人気ドラマ『相棒』の杉下右京のような有能な刑事は最初の印象だけで犯人だと決めつけたりせず、いくつもの仮説を立てて検証し、真実に近づいていく――それが筋の通った推理です。

ところが、今の日本では、その「考えるプロセス」そのものが省略されてしまっています。ワイドショーのコメンテーターの単純な決めつけはそのまま答えになり、それを受け取った視聴者もそれ以上深く考えようとしません。
■「視聴者の思考力」が奪われている
その道の専門家であればあるほど、本来は「原因を一つに決めつける」ことなどあり得ません。現実の問題には複数の要因が絡んでおり、どれがどの程度影響しているかを丁寧に見極めるのが専門家の仕事だからです。
それをなんとかして単純化したがるのがテレビの人たちです。だから私は好き勝手に編集されてしまうコメント取材は、一切受けないことにしています。
5つくらいの可能性を述べたとしても、そのうちの一つだけしか取り上げてもらえない可能性が高いからです。
逆に言うと、断定的に言い切れる人ほど重宝され、テレビに出続けるので、結果として視聴者の思考力まで奪ってしまっているのです。
■感情を過剰に煽る報道が悪質な空気をつくる
「深く考えない習慣」が根づいてしまった社会では、ほんの一部の出来事を、全体の問題として簡単に一般化してしまう傾向が生まれます。
たとえば、ある外国人観光客がマナー違反をしたというニュースが流れると、「最近の外国人は非常識だ」と語られ、一部の高齢者が事故を起こせば、「やっぱり年寄りの運転は危ない」と高齢者全体の問題として断じられます。
つまり、本来であれば「個別の出来事」として冷静に検証すべきことまで、「属性の問題」として拡張されてしまうのです。
その拡張を後押ししているのが、ニュース番組やワイドショーで、たとえば高齢者が事故を起こしたりすると、「遺族の悲痛な訴え」や「被害者の無念」を長時間にわたって報じることが常態化しています。
もちろん、遺族や被害者の心の痛みを軽んじるつもりはありません。
ただ、それをあまりに強調して報道されると、視聴者は冷静な判断を失い、「高齢者の運転は危険だ」「免許を返納させるべきだ」といった感情的な結論に誘導されてしまいます。
本来であれば、感情を過剰に刺激することなく、事実を冷静に伝えるのが報道の役割であるはずなのに、今はやみくもに怒りや悲しみを煽るいわば「感情の増幅装置」になってしまっているのです。
■こうして「高齢者ぎらい」が浸透する
とはいえ、たとえば30代の女性が脇見運転で死亡事故を起こしたとしても、「女性ドライバー全体の問題」として扱われることはまずありません。
「女性は男性より気が散りやすいから免許更新時に検査を義務付けるべきだ」みたいな議論が出ることもないでしょう。そんな発言をするコメンテーターがいれば、たちまち批判を浴びて番組から降ろされるはずです。
ところが、こと高齢者に対しては、なぜかそのような「属性批判」が許されています。つまり、たった1件の事故が、まるで「高齢者全体の過失」であるかのように語られ、社会全体で断罪する空気がつくられていく――。
こうして「高齢者ぎらい」という空気が社会に浸透していくのです。

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和田 秀樹(わだ・ひでき)

精神科医

1960年、大阪府生まれ。東京大学医学部卒業。精神科医。
東京大学医学部附属病院精神神経科助手、アメリカ・カール・メニンガー精神医学校国際フェローを経て、現在、和田秀樹こころと体のクリニック院長。幸齢党党首。立命館大学生命科学部特任教授、一橋大学経済学部非常勤講師(医療経済学)。川崎幸病院精神科顧問。高齢者専門の精神科医として、30年以上にわたって高齢者医療の現場に携わっている。2022年総合ベストセラーに輝いた『80歳の壁』(幻冬舎新書)をはじめ、『70歳が老化の分かれ道』(詩想社新書)、『老いの品格』(PHP新書)、『老後は要領』(幻冬舎)、『不安に負けない気持ちの整理術』(ディスカヴァー・トゥエンティワン)、『どうせ死ぬんだから 好きなことだけやって寿命を使いきる』(SBクリエイティブ)、『60歳を過ぎたらやめるが勝ち 年をとるほどに幸せになる「しなくていい」暮らし』(主婦と生活社)など著書多数。

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(精神科医 和田 秀樹)
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