■信長と利家は男色関係だった?
利家は天文7年に生まれて、幼名を犬千代といった。天文7年は戊戌(つちのえいぬ)年である。生まれ年の干支によってつけられたのである。成長するにつれて孫四郎、ついで又左衛門と改名する。
加賀藩に伝える「亜相公御夜話」に、利家は14の時にはじめて信長に奉公に出、その年8月に具足の着初(きぞ)めをし、間もなく初陣して功名を立てたと、利家が語ったと書いてある。つづいて、15歳の時から「信長公ご秘蔵にて、一時もおんはなれなくご奉公とのよしのこと」とある。これは信長と男色関係が出来たという意味だ。
このことについては、この書の他の項に、こうあるのをもっても明らかだ。
「利家公は鶴の吸物を食べられると、いつも腹が痛くなられた。どうしてこんな風になったかのわけをお聞かせになったことがあるが、それはこうだ。信長公が安土城で諸大名を饗応されたことがある。鶴の吸物が中心の献立となっている上に、信長公がおんみずから引きものを供して下さるというほどの丁重な饗応であった。
『そちをはじめ皆の者がよく働いて手柄を立ててくれた故、今日わしはこうして天下とりとなることが出来た。まことに満足である』
といわれ、以下次ぎ次ぎにそれぞれにことばをかけつつ引きものを供して来られたが、わしの前に来られると、
『この男は少年の頃はおれが側に寝せたのだ。まことに秘蔵での』
と、笑いながら申された。その頃わしは大ひげを生やしていたが、そのひげをおつかみになって、『稲生(いのう)合戦は、おれは二十一、その方は十六、七の時であったが、その方は敵の勇士宮井勘兵衛という者を討取って首を上げた。おれはその首を馬上にてさし上げ、犬千代は小せがれながら、このような手柄を立てたぞ。これ見よ、者共。皆々負けずにはげめ! と、呼ばわって、采配振ったところ、味方は勇気百倍し、味方はわずかに七、八百、敵は三、四千の大軍であったに、ひたおしにおして攻め崩したわ。その方共が皆このように手柄を立ててくれた故に、おれは今日の身分になれたのだぞ』
と、おほめ下されたところ、給仕の衆はもとよりのこと、ご近習衆まで、
『さてもさても、武士の冥加にかないたる又左殿かな。あやかりとうござる』
というて、争うて吸物を給仕してくれるので、わしもうれしゅうなって、いくらでも食うた。そのために食傷してのう。その後は鶴の吸物を食えば腹が痛うなる、というてお笑いになった。このことは太閤様も度々仰せられ、金森法印・羽柴下総殿もよく利家公ご前で申された云々」
色々な点でおもしろい話なので、長々と紹介したが、少年の頃、利家が信長の寵童であったことはまぎれがない。
■顔面に矢を受けながら敵の首をとった利家
この稲生合戦というのは、信長が自分の弟武蔵守信行と戦った合戦で、どういうわけで兄弟が不和になったかは織田信長伝で書いた。
藩翰譜も寛政重修諸家譜も、稲生合戦は逸してはいないが、利家19の時のこととして、記述している。しかし、「亜相公御夜話」は前掲したのとちがった項で、16の時であったと記している。
信行の小姓頭の宮井勘兵衛が利家を弓で射て、右の眼の下にあてた。利家は勘兵衛に馳せより、槍でつき伏せて首をとり、信長の実検にそなえたので、信長は感賞したというのだ。重修諸家譜ではこの際利家は目の下に射つけられた矢をぬきもせず宮井をつき伏せ、矢をおりかけて信長の前に出て首を捧げたので、信長その壮勇を賞して、百貫文の知行を加増してやったとある。
この頃のこととして、両書とも、利家が信長の勘気にふれた事実を述べている。信長の同朋(どうぼう)に十阿弥という者があった。同朋は江戸時代にはお坊主といわれるようになったもので、城内の給仕役で、至って身分の低いものであった。
この同朋の十阿弥が利家の刀の筓(こうがい)を盗んだ。小束(こづか)とともに脇差にさしてあって、耳を搔いたり、髪の地肌を搔いたりする用にあてるものだ。多分金銀のほりものかぞうがんかをしたきれいなものだったので、身分賤しければ品性も下等で、つい盗心をそそられたのであろう。
■信長お気に入りの給仕役を斬ってしまった
このいきさつも「亜相公御夜話」にくわしい。
利家は信長に訴えて許可を得て成敗するつもりでいたところ、かねてから十阿弥をひいきにしている佐々内蔵助成政らが、とりなして、
「ゆるしてやってはくれまいか。以後は決して不都合はさせぬゆえ」
と頼む。
「いやいや、盗心は生まれつきのものが多い。常にわれわれの身近かにある者のこと、将来のために斬ったがよい」
と利家は聞こうとしなかったが、そのうち信長がこれを聞きつけた。信長も十阿弥が気に入っている。
「こんどだけはゆるしてやれい」
という。
やむなく、利家はゆるすことにしたが、間もなく前に詫言(わびごと)をしてやった連中が、「かげにて笑ひ候由をお聞きなされ候て」とあるから、当時の武士のことで、
「武士が斬ると口外した以上、いくら殿から仰せられようと、斬らぬということがあるものか。途中で思いかえすくらいなら、言い出さぬがよいわ。とかくなまぬるい男よ」
とでも言ってあざ笑ったのであろうか。
とにかく利家は腹を立て、信長が二の丸櫓に出ている時、その下の道で、十阿弥を斬った。
■悲運の時こそ「友人の本心」がわかる
目前に自分が見ている前のことだ、信長は激怒した。
「おのれお犬め、おれに面当(つらあて)いたしおる。成敗してくれる」
とどなって、刀をつかんで立ち上り、駆け出そうとしたので、柴田勝家と森三左衛門とが立ちふさがって、利家のためにさんざんに詫言した。それで信長は成敗を思いとどまったが、長の暇をくれたので、利家は牢人せざるを得なくなったとある。同書によると、これは桶狭間合戦の前年のことになっているから、利家22の時である。
この牢人中のことを、後年利家が家来共にこう述懐していることが「亜相公御夜話」にある。
「人は非運に沈んでみねば、友の善悪もわからねば、自分の心も知れぬものじゃ。おれが若い時十阿弥を斬って牢人していた時、かねて兄弟ほどに仲ようしていた朋輩共、ほとんど全部見舞にも来てくれざった。森三左衛門・柴田勝家の二人のほかは二、三人のお小姓が色々と心をはこんでくれただけであった。またずっと後年、小田原陣でおれが太閤様のごきげんを損じた時、日頃おれがところに出入りして、おれも目をかけてくれていた者どもが、多くはご前でおれが悪口ばかり言うたげな。木村常陸介などは兄弟のように懇意にしていたのに、やはりかれこれざん言したそうな。蒲生飛驒(氏郷)・浅野弾正(長政)の二人は、いろいろとご前でとりなしてくれたそうな。
彼の牢人中の生活を書いたものは他にはないが、この記述によってあらましの感じだけはわかるであろう。この述懐は今日の人にも教訓になることであろう。
■合戦で手柄を上げても信長は褒めなかった
翌年夏の桶狭間合戦に、牢人ながら彼は馳せ参じて、一番首を取り、信長の実検に供すべく信長の近くへ来た。近習の者がそれを見て、
「前田孫四郎首をとってまいりました」
と言ったが、信長はふりかえりもせず、
「侍の役じゃ。首取ったが何めずらしかろう」
とつめたく言った。
利家はぶら下げていた首を水田(みずた)の中に投げこみ、再びまっしぐらに敵をめがけて駆け出した。
近習の者らが信長に、
「孫四郎は薄手(うすで)を負うています。この度は討死の覚悟のように見受けられます」というと、
「急ぎ引きとめよ」
と命じたので、人々は駆け出して引きとめた。しかし、信長はまだ勘気赦免(しゃめん)のことばはかけなかった。
重修諸家譜では、再び敵に駆けこんでまた首を取って来て捧げたが、信長はなおことばをかけてくれなかったとなっている。
■信長に叱責されてから3年目でようやく…
これらの記述を読んで感じられるのは、信長が心中ではすでに利家をゆるしていることだ。ただそれを口にしないのである。利家にはそれがわからない。こうまで働いてもゆるしてもらえない残念さに、「クソ、死んでやる。死んだらおれの心もわかってもらえるじゃろう」となったのであろう。
二人は特別な関係のある主従だ。この時の信長の利家にたいする感情は一種の嗜虐的愛情であったと見てよいのではあるまいか。
正式に勘気が赦免になったのは、翌年の5月であった。美濃の長井甲斐守某と信長との間に行なわれた森部合戦で、利家が真先かけて敵中に突入、首二級を取って信長にささげたところ、信長ははじめて、
「手柄であったぞ」
とことばをかけてくれ、前に召して、なにくれとなくやさしく語ったという。最初に勘気を受けてから足かけ3年目である。
■「お許し」が出たとたんに異例の好待遇
重修諸家譜によると、この時知行地を加増されて、合して四百五十貫文の身代となり、つづいてその年中に赤幌(あかほろ)を用いることをゆるした。これは武功世にゆるされた者だけにゆるされることになっていることなので、利家は、
「ありがたき仰せながら、拙者は若年者でござれば、それはご辞退申したく存じます」
といったが、信長は、
「年は若いが、武功は老いている。辞退することはない」
と、おしつけて許した。利家わずかに24の時だ。当時の武士にとっては非常な名誉であったに相違ない。
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海音寺 潮五郎(かいおんじ・ちょうごろう)
作家・小説家
1901年生まれ。国学院大学卒。中学の国漢教師を勤めた後、創作に専念。1929年「うたかた草紙」が「サンデー毎日」大衆文芸賞に入選。1932年長編「風雲」も同賞を受賞。1936年『天正女合戦』で直木賞を受賞。1957年に完結した『平将門』は新時代の歴史小説の先駆となった記念碑的大作。日本史への造詣の深さは比類がない。他に『武将列伝』『列藩騒動録』『孫子』『天と地と』『西郷隆盛』『西郷と大久保』『幕末動乱の男たち』『江戸開城』『二本の銀杏』など著書多数。1977年、逝去。写真(かごしま近代文学館所蔵)
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(作家・小説家 海音寺 潮五郎)

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